第1話 推しになってしまった
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スマートフォンの画面が、暗闇の中でぼんやりと顔を照らしていた。
「――今日の配信、まじで神回だったな……」
笹川叶は布団の中で呟いた。時刻はとっくに深夜二時を回っている。明日も朝から得意先を回らなければならないのに、体は指一本動かそうとしない。
画面には、先ほどまで見ていた配信のアーカイブが表示されている。サムネイルに映るのは、白く透き通るような肌と、宝石のような赤い瞳、そして額に控えめに覗く二本の角。
配信者名は――『クリムゾフィア・ヴァレンシュタイン』。
名前も素性も一切明かさず、ただ「異世界からやってきた悪魔である」という設定だけを貫き通す、界隈では少し変わったVTuberだ。リスナーたちは親しみを込めて「クリム様」と呼ぶ。
配信はいつも、精巧に作り込まれたアバターを通して行われている。恐ろしいほど作り込まれた造形だが、アバターゆえに表情の変化は乏しく、笑う時も怒る時も、どこか固い印象がある。それが逆に「ちゃんとVTuberをやっている」という安心感にも繋がっていた。生身の人間離れした美しさは、アバターだからこそ成立するものだと、誰もが当たり前のように思っていた。
偉そうな口調で視聴者に「貢げ」と言い放つのに、なぜかその物言いに嫌味がなく、むしろ誰もが跪きたくなるような気品がある。叶は――いや、叶だけじゃない。彼を推す者たちは皆、彼のことを心から慕っていた。
「貢げ」という台詞にも、実はきちんとした設定がある。曰く、この現代で稼いだスパチャは、すべて異世界にいる同胞たちを救う魔力に変換されるのだという。もちろん、そんな話を本気で信じている視聴者などいない。あくまで世界観に厚みを持たせるための、洒落た演出の一つだと、誰もがそう受け止めていた。だからこそ、視聴者たちは笑いながら、あるいは面白がりながら、気前よくスパチャを飛ばす。「今日も同胞たちのために」というノリは、もはやこの配信の名物と言ってよかった。
配信アーカイブは全話保存してある。切り抜き動画も一通り目を通した。彼の口癖、機嫌がいい時の笑い方の間、逆に苛立った時に微かに語尾が強くなる癖――そういう細部まで、叶は誰よりも知り尽くしている自信があった。同じ推しを持つ仲間内では「お前、公式より詳しくないか」と半ば呆れられるくらいには、のめり込んでいた。
休日はグッズを眺め、通勤中は考察を練り、寝る前には今日の配信を反芻する。傍から見れば異常だと分かっている。それでも、やめられなかった。誰かに評価されるためでも、誰かに認められるためでもなく、ただ純粋に、彼のことだけを考えている時間が、叶にとっては何よりも安らげる時間だった。
叶にとって、クリムゾフィアの配信を見ている時間だけが、唯一まともに息ができる時間だった。
仕事はうまくいっている。周りからは「気配りができる」「絶対に断らない」と評判もいい。友人だって多い方だと思う。彼女とだって、誰よりも大事にしてきたつもりだった。
休日は彼女の予定に合わせ、記念日は欠かさず祝い、電話やメッセージにはどんな時間でもすぐ返した。それが当たり前だと思っていた。それが「大事にする」ということだと、疑いもしなかった。自分の予定や気分は、いつも後回しにした。それで良いと思っていた。
なのに、気づけば全部、壊れていた。
彼女とは半年前に別れた。理由は今でもよく分からない。「大事にされすぎるのも、しんどい」と、彼女は最後にそう言った。あの言葉の意味を、叶はまだうまく飲み込めていない。
それからというもの、叶は毎晩のようにクリムゾフィアの配信を見た。誰かに気を遣わなくていい。何かを期待されなくていい。ただ、画面の向こうの彼を見つめているだけでいい。
配信中、彼は時々こんなことを言う。「お前たちは、俺の言うことを聞いていればいい。難しく考えるな」と。傲慢な台詞のはずなのに、それを聞くたびに、なぜか肩の力が抜けた。誰かに従っていれば良いという単純さが、今の叶には何よりの救いだった。
それだけが、救いだった。
スマホを閉じ、目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、いつもの赤い瞳。
その瞳が、やけにはっきりと、近くに見えた気がした。
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――我が力となれ。
低く、それでいてどこまでも澄んだ声が、頭の中に直接響いた気がした。
目の前には、クリムゾフィアがいた。配信で何百回と見てきた、あの姿そのままに。だが画面越しではない。手を伸ばせば届きそうな距離に、彼は確かに立っていた。
「え……」
声を出そうとしたが、喉から音が出ない。
クリムゾフィアはただ、静かにこちらを見つめていた。何かを言いたそうに、けれど言葉にはせず。やがてその輪郭が、朝靄のように溶けて消えていった。
――ただの夢だ。そう自分に言い聞かせて、叶は再び眠りに落ちた。
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それから数日、特に何も起こらなかった。
いつも通り得意先を回り、いつも通り愛想笑いを浮かべ、いつも通り「大丈夫です、任せてください」と言って仕事を抱え込んだ。同期の石井春樹には「お前、また抱え込んでるだろ」と半ば呆れ気味に突っ込まれたが、「いや、平気平気」と笑って流した。それが癖になっていることに、自分でも薄々気づいていながら。
夢のことは、正直ほとんど忘れかけていた。所詮は都合の良い願望が見せた幻だ、と自分に言い聞かせていた。忙しい日々の中で、そんな夢を思い出す暇すら、そう多くはなかった。
その日も、叶はいつものように配信の準備をしていた――はずだった。
気づけば、見知らぬ部屋の中にいた。
いや、見知らぬ、というのは正確ではない。何度も配信で見た、あの部屋だ。深紅のカーテン、装飾過多な燭台、そして目の前には見慣れた配信機材一式。
「は……?」
困惑する暇もなく、機材のランプが赤く灯った。
部屋の造りも、置かれた小道具も、何もかもが見慣れたもののはずなのに、今は自分がその中に立っているという事実だけが、現実感を根こそぎ奪っていく。
【配信開始まで、あと5、4、3……】
「ちょ、待っ――」
カウントは止まらない。誰かに助けを求めようにも、この状況を誰に、どう説明すればいいのか見当もつかなかった。異世界に召喚されました、で通じる相手などいるはずがない。
脳内が真っ白になる中、視界の端に映り込んだ自分の手が、目に入った。
白く透き通るような肌。長く伸びた指先。そして――視界の端に見える、額から覗く二本の角。
(噓だろ。俺、クリムゾフィアに――)
【配信開始まで、あと1……】
考える時間はなかった。
カウントがゼロになった瞬間、叶の中で何かが切り替わった。
「――待たせたな、我が僕どもよ」
口から出たのは、自分のものとは思えないほど滑らかで、傲慢で、それでいて耳に心地よい声だった。
コメント欄が一気に流れ始める。
『今日も声のトーン最高』
『相変わらず偉そう(誉め言葉)』
『貢がせてください』
――なりきれている。
長年、擦り切れるほど見てきた配信のすべてが、体に染み付いていたのかもしれない。口調も、視線の運び方も、コメントへの返しの間合いすらも、驚くほど自然に再現できていた。まるで台本があるかのように、次に何を言うべきかが自然と分かった。
(いける。これなら……いける!)
困惑は、いつしか奇妙な高揚感に変わっていた。誰よりもこの人を知っている。誰よりもこの人になりきれる。それは今までの人生で、誰にも認められなかった自分の「得意なこと」だった。
『今日質問あるんですけど、クリム様の好きな食べ物ってなんですか?』
コメントが目に入った瞬間、口が勝手に動いた。
「愚問だな。この世のあらゆる美食は、我のために存在する。強いて言うなら――」
言いかけて、一瞬だけ言葉に詰まった。頭のどこかから、答えが降ってくるような感覚があった。
「――煮込んだ肉と、根菜の匂いだ。あれは良い」
自分で口にしておきながら、なぜそんな具体的な答えが出てきたのか分からなかった。だがコメント欄は盛り上がっている。
『急に具体的で草』
『クリム様、庶民派すぎん?』
『それ絶対おでんだろ』
『クリム様のおでん愛が知れて満足です』
『今日の配信、保存不可避』
配信は順調に進んでいった。軽口を叩き、視聴者をからかい、スパチャに大げさに礼を言う。
『今日の貴族様、ノリノリで草』
『いつも以上に偉そうで最高です』
『もっと貢がせてください、悪魔様』
コメントが流れるたびに、口が勝手に動いた。「もっとよこせ」「その程度で満足していいのか」――普段の自分なら絶対に言えない台詞が、すらすらと出てくる。誰かに何かを強く要求するなんて、今までの人生で一度もしたことがなかったのに。
まるで、ずっとこの体で生きてきたかのように。
(何とかなった……よかった……)
安堵からか、少しだけ肩の力が抜けた、その瞬間だった。長く緊張していた分、油断も大きかったのかもしれない。
机の上のスマホカメラが、ふとした拍子に倒れる。安物の三脚は、以前から少しぐらついていた。それを直す暇もなく、レンズはこちらへと向いてしまった。
本来ならこのカメラの映像は、モーションキャプチャ用のセンサーとしてアバターに動きを与えるだけの、裏方の存在だ。配信画面には、あくまでアバターが加工・合成された映像だけが流れるはずだった。だが、カメラの角度が変わったことで、合成のプログラムが一瞬映像を見失い、素材そのもの――生身の映像を、そのまま配信に乗せてしまったのだ。
レンズが向いた先――そこに映っていたのは、いつもの表情の乏しいアバターの立ち姿ではなく。
カメラのすぐ近くまで寄った、生々しい質感の――あまりに整いすぎた、クリムゾフィアの「素顔」だった。アバターでは決して映らないはずの、肌の質感、瞳の潤み、そのすべてが、そこにはあった。
コメント欄の流れが、一瞬止まった。
『は?』
『今、めちゃくちゃ近く映ってなかった?』
『えっ、待って、これ……』
『解像度やば、素材が良すぎる』
『スクショ撮った』
『これバズるやつだ』
スクリーンショットの通知音が、いくつも連続で鳴り響く。コメント欄の速度は、先ほどまでとは比べ物にならないほど加速していた。
「――え」
クリムゾフィアの姿をした叶は、凍りついたまま動けなかった。カメラを直す気力すら湧かない。頭の中では「早く隠せ」という理性の声と、「もう遅い」という諦めの声が、同時に鳴り響いていた。
(終わった――)
画面の向こうで、何かが確実に、取り返しのつかない方向へ動き始めていた。




