19話一皮むけた男
結局、いつもより睡眠時間はだいぶ短くなった。
ラヴィが布団の上で丸くなって眠るのを横目に、叶は明け方近くまでスマホで「猫 初心者 飼い方」を検索し続けていたのだ。猫でないことは百も承知だが、他に参考になるものがない。
(トイレ、餌、鳴き声……近所にバレたら一発アウトだよな、これ)
幸い、ラヴィは今のところ大人しく、鳴き声を上げる気配もなかった。むしろ、ほとんどの時間を寝て過ごしている。もしかしたら、クリムゾフィアと似たような理屈で、力を溜めているのかもしれない。
考えても仕方がない。叶は諦めてシャワーを浴び、いつも通りスーツに袖を通した。
「……行ってきます、で合ってるのか、これ」
丸くなったままのラヴィに声をかけても、返事はない。すやすやと寝息を立てる白い毛玉を横目に、叶は部屋を後にした。
オフィスに着くと、いつもと変わらない喧騒があった。
「よう、社畜。今日も生きてたか」
同期の石井春樹が、缶コーヒー片手に軽口を叩いてくる。叶は苦笑いで返しながら、ふと思い立って尋ねた。
「なあ、石井、猫って飼ったことあるか?」
「は? 急にどうした」
「いや、その……ちょっと、拾っちまって」
「マジか! 犬派だと思ってたわ。でも俺、猫は飼ったことねえな。実家が犬だったし」
役に立たない情報を得ただけで、石井との会話は終わった。他に猫に詳しそうな人間はいないかと部署を見渡していた時、意外な人物が目に入った。
「雫石係長、猫飼ってましたよね、たしか」
昼休み、給湯室で顔を合わせた上司の雫石に、叶は思い切って声をかけた。
「え、なんで知ってんの。……ああ、前に写真見せたっけか」
雫石は少し驚いた顔をしたが、まんざらでもなさそうに、スマホを取り出して猫の写真を見せてくれた。
「うちの子、もう七歳になるんだけどさ。最初は大変だったよ、ケージ用意して、爪とぎ用意して……」
雫石は思いのほか饒舌だった。ケージ、爪とぎ、キャットタワー、餌の種類、トイレの砂の選び方――淀みなく語られる猫飼育の知識に、叶は真剣に頷きながら聞き入った。
(なるほど、爪とぎと、トイレは必須か……)
メモを取りながら、ふと我に返る。
(いや、よく考えたら、あいつ、猫じゃないんだよな……)
数千年後には街を軽く消し飛ばせる高位の魔物に、爪とぎとキャットタワーが通用するのだろうか。想像すると乾いた笑いが漏れそうになったが、それはそれとして、聞ける情報は聞いておくに越したことはない。叶は真面目な顔を保ったまま、雫石の猫トークに最後まで付き合った。
猫の話から始まって、いつの間にか、雫石の学生時代の失敗談や、家族のちょっとした愚痴にまで話は広がっていた。こんな風に、業務外のことで長く話し込んだのは、初めてかもしれない。
(係長って、こんな人だったんだな……)
少しだけ、距離が縮まったような気がした。ふと、雫石の後退した生え際が目に入り、いつもの調子で軽く弄ってやろうかと頭をよぎったが、
(……いや、さすがにやめとこう)
まだそこまでの仲でもない。叶は心の中でその考えを引っ込めて、話の続きに相槌を打った。
平和な昼休みが終わり、午後の業務に戻った途端、フロアの空気が張り詰めた。
「大変です! 東証案件、先方が急に条件変更を……! 明日の朝一で回答しないと、契約自体が飛びます!」
悲鳴に近い声を上げたのは、隣の課の後輩、新田だった。担当していた大型案件で、先方から一方的な条件変更を突きつけられたらしい。新田の直属の上司は出張中で連絡が取れず、フロア中が浮き足立っている。
叶は自分のデスクから、その様子をしばらく眺めていた。
(本来なら、俺には関係ない話だ)
そう思う一方で、新田の青ざめた顔が、なぜか脳裏をよぎった。水路の陳情に来ていた村人たちの、あの困り果てた顔。東部の村長の、藁にもすがるような目。異世界で何度も見てきた表情と、今の新田の顔が、重なって見えた。
気づけば、叶は席を立っていた。
「新田、ちょっと状況見せてくれるか」
「え、笹川さん……で、でも、これ、うちの課の案件で」
「いいから。困ってる時はお互い様だろ」
周囲の視線が、自然と集まってくるのを感じた。パニックになりかけていたフロアが、なぜか少しずつ静まり返っていく。
資料に目を通しながら、叶は考える。
(こういう時、クリム様ならどうするかな)
配信で聞いた、数えきれないほどの相談回答が、脳裏をよぎる。感情的にならず、まず相手の要求の裏にある本当の狙いを探ること。落としどころは、片方の完全勝利ではなく、双方が「悪くない」と思える着地点にあること。
叶は資料から顔を上げ、フロア全体に聞こえるくらいの、落ち着いた声で言った。
「新田、慌てなくていい。この条件変更、先方の本当の狙いは納期じゃなくて、多分ここの保証条項だ。値引きの体裁を取りながら、リスクヘッジしたいだけだと思う」
「え……」
「先方の窓口に、代替案を出そう。納期はこっちの言い値で通す代わりに、保証範囲を向こうの要求通りに広げる。損得で言えば、うちの持ち出しは実質ほぼゼロだ」
淡々と、けれど迷いのない口調だった。まるで、こうなることが最初から分かっていたかのように。自分でも、驚くほど落ち着いていた。
叶は続けて、周囲を見渡した。ちょうど近くを通りかかった、法務部のベテラン、桑原の姿が目に入る。普段なら気軽に話しかけられる相手ではない。だが、今はそんな遠慮も浮かばなかった。
「桑原さん、保証条項の文言、こういう場合の判例に一番詳しいのって桑原さんですよね。悪いんですけど、代替案の文面、チェックしてもらえませんか」
「え、あ、ああ、いいけど……」
年上の桑原が、気圧されたように頷く。叶はさらに、隣の島にいた後輩の田辺にも声をかけた。
「田辺、先方の担当者、確か前に接待で顔繋いでたよな。電話より先に、一本メッセージ入れてもらえるか。心証、大事だから」
「は、はい! すぐやります!」
年上にも年下にも、まるで最初からそうすると決まっていたかのように、迷いなく指示が飛ぶ。誰も彼も、逆らうという発想すら浮かばないように、それぞれの持ち場へと動き出した。
新田は呆気に取られたような顔をしていたが、すぐに我に返って先方への連絡を取り始めた。結果は、その日の夕方には出た。条件変更は無事に落ち着き、契約は守られた。
「笹川さん、マジで神です……! ありがとうございました!」
新田が興奮気味に頭を下げてくる。周りの同僚たちも、遠巻きにこちらを見ながら、ひそひそと囁き合っていた。
頭を下げられながら、叶はふと、奇妙な感慨を覚えていた。
(あの領地でのことが、こんな形で活きてくるとはな……)
水路の陳情、東部の備蓄、収穫の分配。どれも、胃が痛くなるような重責だった。何もかも背負いきれず、私室へ戻る道すがら、恐怖に押し潰されそうになったことさえある。
だが、あの一つひとつの経験が、今、確かに自分の中に根を張っている。誰かの窮地に、迷わず飛び込んでいける胆力。相手の本音を読み取る勘所。それらは全部、異世界での苦しい日々が、知らず知らずのうちに鍛え上げてくれたものだった。
(苦しかっただけじゃ、なかったんだな)
そう思うと、あの重責の日々にも、少しだけ意味があったように思えてくる。
「今の、笹川さんが?」
「なんか最近雰囲気変わったよな、あの人」
「一皮むけたっていうか……別人みたいだったぞ、今の対応」
雫石までもが、感心したような顔でこちらを見ていた。
「笹川、お前、いつからそんな交渉術身につけたんだ?」
「い、いや、たまたまです」
誤魔化しながらも、叶の胸には、これまで感じたことのない種類の満足感が広がっていた。
その日の終業後、フロアの一角で、雫石が声をかけてきた。
「なあ笹川、今日の東証案件の件、お前のおかげで助かったよ。ちょっとしたお祝いも兼ねて、メンバー数人で飲みに行こうと思ってるんだけど、どうだ?」
いつもなら、断りはしない。誘われれば「行きます」とは言う。だが、内心では気乗りしないことが顔に出てしまうし、大抵は理由をつけて早めに切り上げて帰ってしまう。今日は、なぜか違った。
(周囲との関係を良好にしておくのも、いい為政者になるためには大事、だよな)
「はい、行きます。ぜひ」
いつになく前のめりな返事に、雫石の方が意外そうな顔をした。
「お、今日はやけに乗り気だな。いつもは行くには行くけど、なんつーか、顔に出るからさ」
「え、そんなにわかりやすかったですか、俺」
「バレバレだよ。すぐ帰りたそうな顔してるし」
「今日はなんか、そういう気分なんで」
「そうか。……いいタイミングだったな。今、永峰部長のとこ行ってくる」
雫石係長は、そう言って部長席の方へ向かった。ほどなくして、恰幅の良い永峰部長を伴って戻ってくる。
「笹川、今日は東証案件、よくやった。雫石から聞いたよ」
「あ、部長……ありがとうございます」
永峰は、懐から無造作に一万円札を数枚取り出すと、雫石の手に押し付けた。
「これで、皆で美味いもんでも食ってきなさい。私は今日は先約があって行けないんだが、笹川の活躍祝いだ。存分にやってこい」
「部長、そんな、悪いですよ」
「いいから、いいから。若手が結果出した時くらい、上が景気よく出さないとな」
永峰はそう言って豪快に笑うと、そのまま自分のデスクへ戻っていった。雫石が、渡された金額を見て、口笛を吹く真似をする。
「太っ腹だな、部長。……あ、そうだ。言い忘れてたけど、今回の一件、部長がお前のことかなり評価してたぞ」
「え、そうなんですか」
「ああ。『あの子は今まで大人しかったが、今日のあれは只者じゃない』って、他の役職連中にまで話してたらしい。噂、もう回ってるぞ」
叶は思わず面食らった。まさか、部長にまで評価が届いているとは思っていなかった。悪い気は、しなかった。
「よし、笹川、今日は好きなだけ食っていいぞ。部長のおごりだ」
その言葉に、叶は思わず目を丸くした。まさか部長の耳にまで話が届いて、こんな形で懐が温かくなるとは思ってもいなかった。
雫石も、財布の紐を気にしなくていいのがよほど嬉しいのか、上機嫌で分厚い封筒をポケットにしまい込んでいる。役職や立場は関係ない。奢りというのは、誰にとっても等しく嬉しいものらしい。
(俺の対応が、周りにも波及してるのか……?)
考えすぎかもしれない。だが、悪い気はしなかった。
居酒屋の座敷で、叶はいつになく上機嫌に杯を重ねた。新田や石井も合流し、今日の武勇伝を肴に、賑やかな時間が過ぎていく。
「いやー、笹川さんの啖呵、痺れましたよ! 俺も見習わないと」
「大袈裟だって」
照れ隠しに笑いながらも、悪い気はしなかった。誰かに頼りにされること、認められること――それがこんなにも心地よいものだったとは、忘れていた気がする。
これまでは、仕事上の付き合いだから仕方なく、という気持ちで飲み会に顔を出すことがほとんどだった。早く帰りたい、面倒だ――そんな本音を押し殺しながら、愛想笑いを浮かべていたことも、一度や二度ではない。
だが、今こうして輪の中にいると、悪くないな、と素直に思えた。誰かと肩を並べて笑い合う時間には、こういう良さもあったのか、と今更ながらに気づかされる。
気づけば、いい調子にほろ酔いになっていた。
「そろそろお開きにしようぜ、笹川、明日も仕事だろ」
「おう、ありがとな、みんな」
千鳥足で最寄り駅まで歩き、電車に揺られ、部屋に帰り着く頃には、心地よい酔いが全身を包んでいた。
「ただいまー……って、誰もいないんだけどな」
玄関で一人呟いて、苦笑する。ラヴィは今日も、部屋の隅で丸くなって眠っていた。
ソファに倒れ込むように腰を下ろすと、叶はスマホを手に取った。液晶に映る配信アプリのアイコンを、ぼんやりと眺める。
(せっかく気分もいいし……配信でも、するか)
ほろ酔いのまま、指先が軽い調子で配信開始ボタンに触れた。
「――どうも、皆さんこんばんはー。クリムゾフィアです」




