18話兄の匂い
【リーゼル視点】
お兄様の魔力が、揺らいだ。
リーゼルは自室で刺繍の手を止めた。長年、兄のそばで育ったせいか、血の繋がりが近い相手の魔力の揺らぎには、人一倍敏感な自覚があった。今のは、微かだが確かに、兄のものだった。
妙な胸騒ぎを覚えながらも、リーゼルは兄の私室へと足を向けた。ノックをして、返事がないのを確認してから扉を開ける。
もぬけの殻だった。
明かりは灯ったまま、机の上には書きかけの書類が残されている。だが、そこにいるはずの兄の姿は、どこにもない。
「……また、なの」
思わず、息を呑んだ。地脈が不安定で、予期せぬ転移が起きることがある――家令のヘルムートから、そう聞かされてはいた。だが、聞かされていたことと、実際に目の当たりにすることとは、まるで違った。
まさか、本当に起きるなんて。
(お兄様、どうして、何も話してくださらないの)
誰にともなく、そう問いかける。返事があるはずもない、静まり返った私室で、リーゼルはただ立ち尽くしていた。
ここ数日ずっと燻っていた違和感が、また鎌首をもたげる。
思えば、違和感の始まりは些細なものだった。
本邸に戻ってきた兄――のはずの誰か。剣を握る所作、字の書き方の癖、食事の好み。ひとつひとつは、確かに兄のものだった。だが、束ねてみると、どこかチグハグだった。
最初に引っかかったのは、水路の陳情への対応だった。兄はいつも、双方の顔を立てようとして、結局どちらにも決めきれずに悩み続けるところがあった。優しいが、それゆえに苦手なことだ。リーゼルはそれを、幼い頃から何度も見てきた。
なのに、あの日の兄は違った。まるで初めから答えを知っていたかのように、迷いなく双方が納得する形へ落とし込んでみせた。
(お兄様、あんなに手際よく話をまとめられる人だったかしら)
喜ばしいことのはずなのに、リーゼルの胸には小さな棘が刺さったままだった。
極めつけは、夕食の席での、あの遠い先祖の命日の話だった。兄は、まるで初めて聞いたかのような顔をしていた。何百年も語り継がれてきた、ヴァレンシュタイン家の人間なら誰もが知っている話のはずなのに。
あの瞬間、リーゼルは確信に近いものを覚えた。
(お兄様じゃない、誰か)
だが、姿形も、声も、纏う魔力の質さえも、間違いなくクリムゾフィア・ヴァレンシュタインだった。それが余計に、リーゼルを混乱させた。
誰かに相談しようにも、こんな話、誰が信じてくれるだろう。「お兄様が、お兄様じゃない気がする」――正気を疑われるのが関の山だ。
だから、リーゼルはただ、様子を見るしかなかった。
どれくらい、そうしていただろう。がらんとした私室で、リーゼルは書きかけの書類にそっと触れた。兄の字だ。間違いなく、兄の字なのに。
(早く、帰ってきて。お兄様)
いつ戻るとも知れない兄を待つ、心許ない時間だけが過ぎていく。ため息をついて部屋を出ようとした、その時だった。
ふと、脳裏に浮かんだのは、遠い異国の景色だった。夜の街並み、無数の光。見たこともないはずのその光景が、なぜか懐かしいもののように感じられて、リーゼルは思わず足を止めた。
(今のは……?)
一瞬のことで、すぐに消えてしまった。気のせいだろうか。それとも――兄が今、どこか遠い場所にいる証だろうか。
誰かにそう言われたわけでもないのに、なぜかリーゼルの中で、そんな予感だけが確信めいて残っていた。
◇
【クリム視点】
狭間の白い靄の中に戻った時、クリムゾフィアは、しばらく声を出せずにいた。
妹に、また気づかれかけている。この数日、二度も違和感を指摘されたのだ。あの鋭い眼差しを思い出すだけで、胸の奥がちくりと痛んだ。
この身に起きたことを、いずれ説明しなければならない。だが今は、まだその時ではない。妹を騙し続けているという罪悪感が、胸の奥で疼いた。
それにしても――と、クリムゾフィアは思考を切り替える。この数日、自分の中で起きている変化について、考えずにはいられなかった。
最初は、ただただ恐ろしかった。
己の存在が消えかけたその瞬間、見知らぬ人間の魂と繋がった時の感覚を、クリムゾフィアは今でも鮮明に覚えている。得体の知れない何かに、自分という輪郭を侵食されていくような恐怖。この人間は、一体何者なのだ。なぜ、これほどまでに自分を真似られる。所作も、口調も、纏う空気さえも。まるで長年連れ添った従者のように、迷いなく振る舞ってみせる。
(この人間、まさか俺の狂信者か……? 怖いんだが……)
最初の数日は、本気でそう思っていた。得体の知れない恐怖と、それに近い戦慄。目覚めるたびに、自分の姿かたちで、自分以上に自分らしく振る舞う人間の存在に、正直、ドン引きしていたと言っていい。
(気味が悪い……はずだったのだがな)
(そもそも、あの「配信」とやらを始めたのは、私自身だったな)
思い出すと、随分と昔のことのように感じる。飢餓の兆しが表面化し始めた頃、現世からの魔力借用――出稼ぎという名の窮余の策を命じられた時、正直、困惑しかなかった。見ず知らずの世界に単身赴き、人間から魔力を集めてこいという。無茶な話だ、と何度も思った。
だが、それ以外に道はないと悟った時、覚悟を決めるしかなかった。まず、どうやって人間から魔力を集めるか、頭を悩ませた。
この悪魔の姿のまま人前に出れば、間違いなく混乱を招く。逃げ惑う人間、悲鳴、下手をすれば討伐隊まで出てくるだろう。
そんな折に知ったのが、「Vtuber」とかいう、奇妙な文化だった。人間たちが、架空の姿を借りて、大勢に向けて語りかける。……これなら、いける。
思いつきで始めたことだった。だが、いざ蓋を開けてみれば、存外、性に合っていた。異世界の話をすれば喜ばれ、為政者として培った経験から、人間たちの悩みに応じるようになると、これがまた、驚くほど多くの供物――彼らの言う「スパチャ」というものを、私にもたらしてくれた。
(誰かの役に立てるというのは、悪い気はしなかった)
それに、あのスパチャとやらは、そのまま我が国の民を救う魔力になるのだ。人間たちに感謝され、なおかつ自国の民をも救える。これほど都合の良いことはなかった。
自嘲するように、そう思う。だがそれこそが、目の前の人間と、自分がこれほどまでに重なる理由なのかもしれなかった。
眠りの中でも、時折、あの人間の暮らしぶりが伝わってくることがあった。狭い部屋で一人、声を張り、身振りを交えて、見知らぬ大勢に語りかける姿。その合間に、ふと見せる素の表情に、クリムゾフィアは目を奪われた。
上司らしき人物からの理不尽な頼み事に、断れずに引き受けてしまう横顔。恋人らしき女性との、痛みを伴う別れの記憶。誰かのために自分をすり減らし続けて、それでも「まあ、こんなものか」と自嘲する姿。
(――俺と、同じではないか)
気づいた時には、既視感を通り越して、奇妙な親近感が芽生えていた。飢餓に苦しむ領民のために、力を注ぎすぎて自滅した自分。誰かに頼まれれば、自分の限界も顧みずに引き受けてしまう性分。形は違えど、この人間も同じ轍を歩んでいる。
いや――正確には、少し違う。
この人間は、少なくとも「NO」と言えないなりに、もがき続けている。営業の仕事を辞め、恋人と別れ、それでも歩みを止めない。自分のように、何百年も同じ場所で足踏みを続けているわけではない。
(面白い人間だ)
素直に、そう思った。
配信でのクリムゾフィアは、いつも自信に満ち、飄々として、誰に対しても物怖じしない――そんな姿を演じている。だが、それは本来のクリムゾフィアが、心のどこかで「こうありたい」と願っていた理想像だった。
現実の自分は、もっと不器用で、優柔不断で、誰かを傷つけることを恐れて動けなくなることの多い、臆病な貴族に過ぎない。
それを、目の前の人間は、屈託なく、堂々と演じてみせる。まるで、こちらの願いを汲み取ったかのように。
(皮肉なものだ。俺よりも俺らしく振る舞える人間がいるとはな)
悔しさより先に、不思議な安堵があった。少なくとも今、自分が消えかけている間、あの領地は、あの人間に――叶に、任せておいて悪くないのかもしれない。
(もう少しだけ、見ていよう)
そう思う自分に、クリムゾフィアは、柄にもなく、小さく笑った。
◇
【異世界側視点(四大貴族)】
王城の一室では、四大貴族が顔を突き合わせていた。
「クリムの姿が、忽然と消えたというのは本当か」
ライハルトの太い声に、報告に来たシルヴェスタは静かに頷いた。
「本邸からの急報です。今もまだ、お戻りになっていないとのことですが……」
「イレギュラーな転移、ということか……?」
ヨナスが眉をひそめる。地脈の乱れによる不規則な転移自体は、理論上あり得ないことではない。だが、実際にクリムの身に起きたと聞くのは、これが初めてだ。
「クリムの身に、一体何が起きているというのだ」
ライハルトが唸るように呟いた。その声には、いつもの豪快さが薄れ、隠しきれない不安が滲んでいた。
「ここ最近のクリムゾフィア様は、どうにも様子がおかしい」
「様子がおかしい、とは?」
ヴィオラが目を細める。シルヴェスタは、疑り深そうに眉根を寄せた。
「水路の陳情の一件、聞き及んでおりますか。あの手腕は、正直、これまでのクリムゾフィア様らしくない。もっと言えば――」
「言葉を選べ、シルヴェスタ」
ヨナスが静かに制した。
「考えすぎではないか?」
ライハルトが笑い飛ばそうとするが、その声には、わずかな硬さが滲んでいた。
エリーゼだけが、何も言わずに窓の外を見つめていた。
(クリム様……あなたは、一体何を抱えていらっしゃるの)
誰にも聞こえない声で、エリーゼはそっと呟いた。四人の間に、言葉にならない不穏な空気が、静かに広がっていった。




