17話境界の声
重みがない。
痛みも、寒さも、息苦しささえもない。あるのはただ、どこまでも続く白い靄のような感覚だけだった。叶は自分の輪郭がどこにあるのかも分からないまま、ゆっくりと、まるで水底に沈んでいくように意識を漂わせていた。
(俺、あのまま……)
最後に覚えているのは、私室の窓辺で膝から崩れ落ちた感覚だ。水路の陳情、東部の分配、リーゼルの向けてくる眩しい笑顔、ヘルムートの安堵の表情――この二日間で背負ってきたものの重さが、糸が切れるように一気に押し寄せてきて、目の前が白く染まった。
そのはずなのに、今はどこか温かい。
どこかで、声がする。
最初は耳鳴りのようだった。それが少しずつ輪郭を持ち、言葉になっていく。低く、けれど威圧的ではない、むしろ困ったように揺れる声。叶はその声に、聞き覚えがあるようなないような、奇妙な既視感を覚えた。
「――ようやく、届いたか」
靄が晴れる。
目の前に立っていたのは、見慣れた輪郭だった。長い黒髪、深紅の瞳、彫刻のように整った顔立ち。何百回、何千回と配信の向こうから見つめてきた顔。だが、決定的に違うことが一つあった。
目の前にいるのは、画面越しではない。
「……クリムゾフィア、様……?」
声が震えた。膝から崩れそうになる。これが夢か幻かも分からないのに、体は勝手に跪きそうになる。何年もの信仰が、理屈より先に体を動かそうとしていた。
目の前のクリムゾフィアは、そんな叶の反応に、少しだけ眉を下げた。困ったような、それでいてどこか申し訳なさそうな表情。配信では見せたことのない、素の顔だ。
「跪かなくていい。……というより、跪かれる立場ではないのは、私の方だ」
「え……」
「説明が要るな。順を追って話そう。時間はある……というか、ここでは時間の感覚自体、あまり意味を持たない」
クリムゾフィアは苦笑するように言うと、宙を見上げた。何もない白い空間なのに、まるでそこに星でも見えているかのように。
「単刀直入に言う。今、お前の中に入り込んでいるのは、私だ。私の魂の一部――と言えばいいのか、力の残滓と言えばいいのか。正確な言葉が見つからないが」
「はい……それは、なんとなく、そうじゃないかとは……」
「察しがいいな」
クリムゾフィアは小さく笑った。作り物ではない、素の笑い方だった。叶は不覚にも、その笑顔に見惚れそうになった。推しの素顔だ。動揺している場合ではないと分かっていても、心臓が痛いくらいに高鳴る。
「経緯を話す。……恥ずべき話だが」
クリムゾフィアは一度言葉を切り、それから、まるで懺悔でもするように続けた。
「前回の奉納の時のことだ。……お前がこちらに来るより、ずっと前の話だがな。あの日、私は気合を入れすぎてしまった。飢餓の兆しが年々深刻になっていくのを、ずっと見てきた。誰も彼も、先送りにするばかりで、自分の代でどうにかしようとしなかった。……いや、自分自身もそうだったのかもしれない」
「クリムゾフィア様……」
「言っておくが、あれは本来、生半可な儀式ではない。魔力の奉納というのは、見た目以上に難しく、術者自身の命に関わるほどのリソースを持っていかれる。加減を誤れば、それこそ今回のようなことになる」
クリムゾフィアは、自嘲するように口の端を歪めた。
「分かっていたはずなのに、な」
「私にできることは、奉納の量を増やすことくらいだった。だから、力を注ぎすぎた。自分の存在を保つための余力まで、根こそぎ」
クリムゾフィアは、苦い笑いを滲ませた。
「気づいた時には、もう遅かった。現世での存在を保つだけの力が残っていなかった。……本来なら、そのまま消えていたと思う」
「消えて……」
叶の声が、掠れた。想像もしていなかった重さの言葉に、頭が追いつかない。
「だが、消えなかった。誰かの魂と、共鳴するような形になった。仮初の宿を借りるような形で、な。……お前の魂と、私の在り方が、どこか似ていたんだろう」
「だが……皮肉な話だが、今回、お前が行った奉納のように、一度に多くの魔力を集められれば、こうなるリスク自体は下げられる。無理に力を絞り出す必要がなくなるからな」
「それって……」
「小分けにして、綱渡りのように何度もやるより、質のいい魔力を一気に、たくさん集める方がいい、ということだ。今回、お前の配信で集まった量は――正直、桁が違った」
クリムゾフィアは、まっすぐに叶を見た。
「NOと言えない性質、と言えばいいのか。誰かのために、自分をすり減らしてでも背負おうとする。……お前も、そうだろう」
図星だった。恋人との破綻も、仕事の残業も、そして異世界に来てからのこの数日も。誰かに頼まれると断れず、飲み込んで、抱え込んで。叶は何も言えず、ただ視線を落とした。
「似た者同士、ということか。……皮肉なものだ」
クリムゾフィアは小さく息を吐いた。
「魂が近ければ近いほど、境界は薄くなる。だから、お前が感情を高ぶらせたり、私を演じようとする時――そういう時ほど、お前は私に変身できるのだ。演技のつもりが、境界を越えてしまう」
「……それで、いつも」
「そうだ。お前が私を模倣しようとするその真剣さが、皮肉にも、私を呼び寄せている」
「本題だ。詫びなければならない。お前を巻き込んだこと、勝手に体を借りていたこと。全て、こちらの落ち度だ」
深々と、頭を下げられた。叶は慌てて首を振る。
「や、やめてください! そんな、頭を下げるなんて……!」
「いや。これは筋だ」
クリムゾフィアは顔を上げ、それから、少し困ったように――そう、いつもの「NOと言えない」表情で、続けた。
「それで、その……図々しい頼みだと分かっているが」
「はい」
「まだ、力が戻らない。おそらく、しばらくの間は――どのくらいか、私にも正確には分からないが。それまで、お前の中にいさせてもらえないだろうか」
叶は目を見開いた。クリムゾフィアは、まるで叱られるのを待つ子供のような、そんな表情を浮かべていた。世界の重みを一手に背負ってきた大貴族が、今は目の前で、遠慮がちにこちらの顔色を窺っている。
「そんな、頼まれなくても……! もちろんです、いくらでも」
思わず即答してしまってから、叶は自分でも驚いた。営業マン時代なら、こんな軽率な返事はしなかったはずだ。だが今は、迷いなど微塵もなかった。
クリムゾフィアは、少しの間、呆気にとられたような顔をしていた。それから、ふっと表情を緩めた。
「……即答するな。もう少し悩め」
「悩む要素がないので」
「変わった人間だ」
クリムゾフィアは、今度こそ本当に楽しそうに笑った。それから、少し声のトーンを落として付け加えた。
「安心していい。私の意識のほとんどは、眠っているような状態だ。お前の生活に、いちいち口出しする気はない。……たまに、こうして境界に近づいた時に、少し話せるくらいだろう」
「眠っている、んですか」
「力を蓄えるためにな。だから――お前は、私のことは気にしなくていい。普段通りに過ごせ」
その言葉に、叶は不思議と安堵した。四六時中、推しの本人に監視されているような緊張感を覚悟していたが、そうではないらしい。
同時に、少しだけ寂しいような、妙な感覚もあった。
「……あの」
「なんだ」
「エーレンフルトのこと、ご存知なんですか。ラヴィのことも、リーゼル様のことも」
クリムゾフィアの表情が、わずかに揺れた。
「断片的にだが、な。眠っていても、時折、お前の見ているものが流れ込んでくる。……水路の一件、聞いた。よくやった」
「あれは、その、行き当たりばったりで……」
「行き当たりばったりで、あの結果を出せるものか」
クリムゾフィアは、まっすぐに叶を見据えた。その瞳には、からかいではなく、確かな敬意のようなものが浮かんでいた。
「領民同士の争いごとの仲裁というのは、昔から私の苦手分野だ。……いや、苦手というより、逃げていたと言った方が正しいか。どちらも私の領民だ。片方だけを立てれば、もう片方が割を食う。何百年、そういう場面に立ち会っても、良い答えを出せた試しがなかった」
「それは、その……」
「今回の水路の一件も、本来なら同じ轍を踏むところだった。だが、お前は違った。双方の顔を立てる形に落とし込んで見せた。私が何百年かけても出せなかった答えに、お前は数日で辿り着いた。……礼を言う」
叶は言葉に詰まった。推しに――いや、もはや推しという言葉では収まらない、目の前のこの存在に、真正面から感謝されている。頭がついていかない。
「その……こちらこそ、いろいろ、勝手にやってしまって。クリムゾフィア様の家族にも、家臣の方々にも、迷惑を……」
「迷惑とは思っていない」
即座に返ってきた言葉に、叶は顔を上げた。
「みんな、お前のことを――正確には私だと思っているが――案じている。それは、悪いことじゃない」
クリムゾフィアは、そこで初めて、少し困ったような、それでいて温かい笑みを浮かべた。
「妹が、気づいているようだな。『他人のお兄様みたい』、と」
「それは……その、なんと言えばいいか」
「構わない。あれは昔から鋭い。……いずれ、話さなければならない時が来るだろう。だが、それは今ではない」
「そういえば――」
クリムゾフィアが、ふと思い出したように言った。
「お前が手懐けたラヴィと言ったか。何の因果か分からぬが、あれもお前についてきておるようだぞ」
「え……ついてきてる、って……」
叶は面食らった。異世界と現世を渡れるのは、クリムゾフィアの依り代となっている自分だけのはずだ。限られた者にしか許されない渡航のはずなのに――
「不思議に思うことはない」
クリムゾフィアは、当然のことのように言った。
「お前とラヴィは、主従の関係にあるのだろう? 主についてこないで、どうする」
「そ、そういうものなんですか……」
「それに――」
クリムゾフィアは、少しだけ声のトーンを落とした。
「あれは、ただの魔物ではないぞ。そして、こやつはかなり高位の獣だ。あと数千年も経てば、街の一つや二つを平気で破壊できる規模になっていたであろう。今のうちに、しっかり手懐けておくことだ」
「す、数千年って……いや、規模感がおかしいですって……」
「案ずるな。今はまだ、只の子猫のようなものだ」
「それと、もう一つ言っておかねばならないことがある」
クリムゾフィアは、そこでふと、何かを思い出したように言葉を切った。
「お前の現世――あちらの世界だが、どういうわけか、時が一時も進んでいない」
「え……?」
叶は耳を疑った。
「進んでいない、って……ずっと、こっちで何日も過ごしていたのに、ですか?」
「そうだ。何の因果か分からぬが、こちら側でどれだけ時間が経とうと、あちらの時間は止まったままのようだ。……正直、私にも理由は分からん。渡航の力の副産物なのか、それとも別の理を借りているのか」
クリムゾフィアは、少し困ったように眉を寄せた。
「戻れば分かる。今の放送が終わった、まさにその瞬間だろう」
「そんな……都合が良すぎません……?」
「都合が良すぎて、私も未だに気味が悪いと思っている。……だが、悪いようにはなっていないはずだ」
靄が、少しずつ、揺らぎ始めていた。輪郭が滲む。クリムゾフィアの姿が、遠くなっていく。
「時間のようだ」
「あ、待ってください、まだ聞きたいことが――」
「また話せる。境界に近づいた時、いつでも」
クリムゾフィアの声が、遠のいていく。それでも、最後にもう一つだけ、確かに聞こえた。
「――頼りにしている。柄にもなく、そう思っている自分に驚いているところだ」
その声を最後に、視界が白く塗りつぶされた。
瞬きをした瞬間、叶は見慣れた光景の中にいた。
配信用のデスク、点いたままのカメラのランプ、机の上に転がったスマホ。窓の外はまだ夜で、時計を見ると、放送を終えた直後と寸分違わぬ時刻を示している。本当に、時が止まっていたのか。
(……戻ってきた、のか)
全身から力が抜けて、叶はデスクに突っ伏した。夢だったのだろうか。いや、違う。あの重み、あの声、あの言葉。夢にしてはあまりにも生々しかった。
そう思った時、背後で何かがもぞりと動く気配がした。
振り返ると――椅子の隅で、真っ白でふわふわの毛玉が丸くなっていた。
「……本当についてきてたのか」
思わず声が漏れた。驚きというより、半ば予想していたことが現実になった脱力感の方が近い。狭間で聞かされてはいたが、話と実物とでは、やはり衝撃の質が違う。
白い子猫は、寝ぼけ眼で「みゃあ」と一声鳴くと、また丸くなって眠りに戻ってしまった。
(――お前とラヴィは、主従の関係にあるのだろう? 主についてこないで、どうする)
さっきのクリムゾフィアの声が、頭の中で蘇る。
「いや、理屈は分かりましたけど……分かりましたけど、こう、現物を前にすると話は別というか……」
叶は頭を抱えた。異世界の魔物が、こともなげに現代のワンルームで丸くなって眠っている。頭では納得していても、この状況をどう扱えばいいのか、皆目見当がつかない。
スマホの画面には、まだコメント欄が流れ続けていた。
『今日も配信お疲れさまでした!』
『とある陰陽師さん今日も来てたの草』
『クリム様の中身、いつ見ても様になってるよなぁ』
何も知らない現代の日常が、そこには広がっている。
叶は天井を見上げ、小さく息を吐いた。心臓の音が、まだ少し速い。
(頼りにしている、か……)
あの困ったような、それでいて確かな信頼のこもった声を思い出すと、胸の奥が妙にくすぐったくなる。
(推しに、頼りにされてるって……なんだよそれ、嬉しすぎるだろ……)
同時に、これから先も、あの重責の日々が続くのだと思うと、胃の底がずしりと重くなる。だが不思議と、さっきまでの絶望的な重さとは、少し違う感触だった。
一人ではない。
眠っているとはいえ、あの人が、確かにこの中にいる。それに――足元では、何も知らない顔でラヴィが丸くなって眠っている。この珍妙な同居人が増えたことも、後で頭を抱える種になるのは間違いないが、今はそれすら、少しだけ心強かった。
叶は椅子に深く座り直すと、ぐっと伸びをした。
「……よし」
まだ何も解決していない。飢餓の問題も、リーゼルの違和感も、これから先の統治の重責も、何一つ片付いてなどいない。
それでも、今はほんの少しだけ、前を向けそうな気がした。




