16話決済の重み
翌朝、叶は寝不足の頭を抱えながら、執務室へと足を運んだ。
昨夜のリーゼルとのやり取りが、まだ頭の中でぐるぐると渦を巻いている。あの子は、どこまで気づいているのだろうか。それとも、単なる思い過ごしだったのだろうか。
「クリムゾフィア様、おはようございます。早速ではございますが、昨夜お伝えした地主連の代表が、既にお見えです」
ヘルムートが、恭しく一礼しながら、そう告げてくる。
「あ、ああ……。分かった」
執務室の扉を開けると、恰幅の良い、日に焼けた男が数人、緊張した面持ちで待ち構えていた。額に、控えめな角の跡が覗く者もいれば、土気を帯びた肌の者もいる――このあたりの農村部に多い、オーガの血を引く者たちなのだろう。ヘルムートも、心配そうな面持ちで、部屋の隅にそっと控えている。
(ゼルギウスがいれば、また助け舟を出してもらえたんだろうけど……)
生憎、今日のゼルギウスは、屋敷の別件の対応に追われているとのことで、この場には同席していなかった。心強い後ろ盾がいない中、叶は、いよいよ一人でこの局面を乗り切らねばならなかった。
「クリムゾフィア様、お忙しい中、お目通りいただき感謝いたします。北の農地への引水量の件、なにとぞご検討を」
男の一人が、そう切り出しながら、羊皮紙を広げて見せる。そこには、複雑な水路の図面と、びっしりと書き込まれた数字の羅列があった。
(ぐ、うっ……。図面の意味とか、専門的なことは、さっぱり分からない……)
叶は、内心で冷や汗をかいた。だが――不思議と、目の前の男たちの表情や、声の抑揚、視線の動きだけは、妙にはっきりと読み取れた。
(この人、本当に困ってるんだな。図面がどうこうより、まず、ちゃんと話を聞いてほしいんだろうな)
数え切れないほどの商談を重ねてきた、営業マンとしての勘が、こんな場所でも、ふと顔を覗かせる。相手の言い分を、頭ごなしに否定せず、まずはとことん聞く――それが、交渉の基本だった。
「――まずは、詳しく聞かせてくれ。北側の畑は、今、具体的に、どれほど困窮しているのだ」
図面の細かい数字よりも、まず、相手の言葉そのものに耳を傾ける。叶は、あえてそう水を向けた。
「はっ。現状、南側の農地に優先的に水が回っておりますが、此度の日照りで、北側の畑も、いよいよ立ち行かなくなりつつあります。せめて、週に一日でも、北側への引水を増やしていただければと」
「南側の者たちは、何と言っている」
「それが……南側の地主連は、これまで通りの配分を、強く主張しておりまして」
男が、苦い顔でそう答える。
(うわ、これ、完全に利害対立してるやつじゃん……! でも……)
叶は、内心で頭を抱えつつも、ふと、冷静に状況を分析し始めていた。
(南側だって、意地悪でこれまで通りを主張してるわけじゃないよな。多分、単純に「今の配分を崩されたら、自分たちが損をするんじゃないか」って、不安があるだけだ)
双方の主張の裏にある、本当の望み――それを見極めることこそが、交渉の勝負どころだと、叶は経験上、知っていた。表面上の要求だけを突き合わせれば、ただの綱引きになる。だが、互いの根本的な不安さえ解消できれば、着地点は、意外なところに見つかるものだ。
(南側が本当に恐れているのは「損をすること」。北側が本当に求めているのは「畑を守ること」。だったら――)
「――双方の言い分は、よく分かった」
叶は、なるべく落ち着いた声で、そう切り出した。
「今しばらく、様子を見るような真似はせぬ。北側への引水を、週に二日、増やすこととする。ただし、それに伴い、南側の水路の補修についても、屋敷の方で費用を持とう。双方、これで納得してもらえぬか」
執務室に、束の間の静寂が満ちた。
(統治のやり方なんて、正直、何一つ分からない。それでも――双方の損得の落としどころを見つけるのは、慣れてる)
叶の脳裏に、幾度となく繰り返してきた商談の記憶が、蘇る。互いに一歩も譲らない交渉の場で、相手の本音を引き出し、双方が「悪くない」と思える着地点を提示する――その感覚だけは、この異世界でも、確かに息づいていた。
(え、これ、無茶な提案だったか……? やっぱり、素人が出しゃばるべきじゃなかったか……!?)
それでも、内心はまだ冷や汗まみれだった。統治者としての知識も経験も、皆無に等しいのだから。だが――
「そこまで、していただけるのであれば……。北側としては、何の異存もございません」
「……南側としても、水路の補修をしていただけるのであれば、致し方ありますまい」
地主たちが、顔を見合わせながら、そう応じてきた。
「クリムゾフィア様のご采配、まことに恐れ入ります」
深々と頭を下げる男たちの姿に、叶は、内心でほっと胸を撫で下ろした。
(な、なんとか、なったのか……?)
「見事なご裁断でございましたね」
地主たちが退室した後、ヘルムートが、ほっと胸を撫で下ろしたように、柔らかく微笑んだ。心配のあまり終始そわそわとしていた表情が、ようやく和らぎ、下顎の小さな牙が、笑みにあわせてちらりと覗く。
「実を申せば、いささか案じておりました。ですが――」
「双方に痛みを分け合わせつつ、先延ばしにしない――クリムゾフィア様らしい、実に思い切ったご判断かと」
「あ、いや……。まあ、な」
どうにか、そつのない返事で誤魔化す。だが、内心では、なんとも言えない達成感が、じわりと広がっていた。
(もしかして……。ちゃんと考えれば、俺にも、少しはできることがあるのかもしれない)
そんな、ささやかな自信の芽生えを感じたのも、束の間だった。
「クリムゾフィア様、続きまして、来月の収穫の分配についてでございますが」
「――う」
次から次へと運ばれてくる案件の波に、叶は、再び溺れかけていくのだった。
昼過ぎ、ようやく一区切りついたところで、リーゼルが、ひょっこりと執務室に顔を出した。
「お兄様、お疲れ様です! お昼、庭で一緒に食べません?」
その屈託のない笑顔に、叶は、思わず頬を緩めた。背中の尻尾が、ぱたぱたと機嫌良く揺れているのが見えた。
「ああ、いいな。少し、休憩するか」
庭に用意された東屋で、二人並んで軽食を摘む。穏やかな昼下がりの陽射しが、心地よかった。
「そういえば、お兄様。明日、恒例の剣の稽古がありますよね」
「――え?」
思わず、素っ頓狂な声が漏れる。
(剣の稽古……!? そんな話、聞いてないぞ……!)
「あれ、忘れてます? 毎年、収穫祭の後に、リーゼルとお兄様で、庭で手合わせするのが恒例じゃないですか」
リーゼルが、不思議そうに首を傾げる。
(や、やばい……。これは、完全に初耳だ……!)
「あ、ああ、そうだったな。もちろん、覚えている」
なんとか、平静を装って頷く。だが、内心は、既に大混乱に陥っていた。
(剣なんて、握ったこともないのに……! どうする、どうすればいい……!?)
その日の夜、叶は、こっそりとゼルギウスの部屋を訪ねた。
「今日の水路の一件、ヘルムートから聞きました。見事な采配だったとか」
部屋に入るなり、ゼルギウスが、開口一番、そう切り出してくる。その声には、心なしか、悔しさが滲んでいた。
「よりにもよって、あのような場に居合わせられなかったとは……。一生の不覚にございます」
がっくりと肩を落とすその様子に、叶は、思わず苦笑した。
「そんな、大袈裟な」
「いいえ、大袈裟などではございません! 主のご活躍を、この目で見届けられなかったのですから」
心底悔しそうな顔で、ゼルギウスがそう訴える。感情の昂りのせいか、口元から、普段は目立たない八重歯が、僅かに覗いていた。
(この人、本当にブレないな……)
その忠義ぶりに、いっそ感心すら覚えながら、叶は、話を切り出した。
「――というわけで、明日、リーゼルと剣の稽古があるらしいんだが」
「ああ、その件でしたら」
ゼルギウスは、心得たように頷いた。
「以前、頂戴しておりました伝言の通り、腕に多少の違和感がおありとのことでしたので、明日は、私の方から、それとなく理由をつけて、お流しするよう手配しておきます」
「――ああ、助かる」
(本当に、保険をかけておいて、正解だった……!)
叶は、心の底から、そう思わずにはいられなかった。
翌朝、案の定、ゼルギウスが、それらしい理由をつけて、剣の稽古は延期となった。
「残念です、お兄様。また今度、必ずですよ」
リーゼルは、少し不満そうにしながらも、素直に頷いてくれた。
(今回は、なんとか切り抜けた……。だけど、こんな綱渡り、いつまで続けられるんだ……)
安堵の裏で、じわじわと募っていく不安を、叶は、どうすることもできずにいた。
その日の午後、屋敷に、思わぬ来客があった。
「クリムゾフィア様、東部の村長様方が、収穫の分配について、直接お話を伺いたいとのことで、いらっしゃっております」
ヘルムートの言葉に、叶は、内心で身構えた。
応接室に通されたのは、日に焼けた、実直そうな数名の村長たちだった。彼らの表情には、切実な焦りが滲んでいた。
「クリムゾフィア様。此度の飢饉の兆しで、我らの村も、いよいよ厳しい状況でございます。どうか、分配の割合を、いま一度、ご検討いただけませぬか」
「話は、聞いている。此度の収穫祭で、俺も、それなりの魔力を奉納してきたつもりだが……状況は、そう簡単には好転せぬ、ということだな」
「はっ。恐れながら、その通りにございます」
村長の一人が、深く頭を垂れながら、そう答えた。
(この人たちも……この国の飢餓の、当事者なんだよな)
収穫祭前夜の会合の記憶が、改めて脳裏をよぎる。誰も「もうやめよう」と言い出せずに積み重なってきた先送りの結果が、今、目の前のこの人たちの暮らしを、直接脅かしているのだ。
「――分かった。此度の分配については、俺の方でも、いま一度、精査させてもらう。厳しい状況にある村を優先しつつ、来月の収穫までの繋ぎとして、屋敷の備蓄からも、幾らか融通しよう」
叶は、なるべく落ち着いた声で、そう告げた。
「クリムゾフィア様……!」
村長たちが、揃って驚いたように顔を上げる。
「そこまでしていただけるとは……。まことに、ありがたきお言葉にございます」
深々と頭を下げる村長たちを見送りながら、叶は、内心で複雑な思いを抱えていた。
(本当に、これでよかったのか……。俺の判断一つで、この国の未来が、左右されるかもしれないのに)
重責の実感が、じわじわと肩にのしかかってくる。だが、同時に――
(それでも……何もしないで先送りにするより、ずっといい。そう、思いたい)
わずかながらも、そんな確信めいたものが、胸の内に芽生えていた。
夕食の席で、リーゼルが、興奮気味に、その話を切り出してきた。
「お兄様、聞きましたよ! 東部の村長様たちに、備蓄まで融通されたって!」
「あ、ああ……。まあ、な」
「すごいです、お兄様! いつもより、なんだか、頼もしく見えました!」
リーゼルが、目を輝かせながら、そう褒めてくる。だが、次の瞬間、その表情に、ふと、翳りが差した。
「……でも」
「――どうした?」
「なんて言うか……。頼もしいのに、いつものお兄様とは、また違う頼もしさっていうか……。上手く、言えないんですけど」
リーゼルが、じっとこちらを見つめながら、そう呟く。その眼差しには、昨夜と同じ、確かな違和感の色が滲んでいた。膝の上で揺れていた尻尾も、いつしか、ぴたりと止まっている。
(また、勘づかれかけてる……!)
叶は、内心で、盛大に冷や汗をかいた。
「気のせいだろう。少し、成長したと思ってくれれば、それでいい」
どうにか、それらしい台詞で誤魔化す。リーゼルは、しばらく黙り込んでいたが、やがて、小さく頷いた。
「……そう、ですね。お兄様が、成長された、ってことですよね」
その声には、まだ、どこか腑に落ちない色が残っていた。だが、それ以上は、追及してこなかった。
(危なかった……。本当に、危なかった……)
食事を終え、私室へと戻る道すがら、叶は、深い疲労感に包まれていた。
脳裏に浮かぶのは、この二日間で目にしてきた、数えきれないほどの人々の顔だった。水路の陳情に訪れた地主たち。備蓄を求めて頭を下げた東部の村長たち。屋敷の廊下ですれ違うたびに、深々と頭を垂れる使用人たち。そして、あの、屈託のない笑顔でしがみついてくるリーゼル。
(みんな……本当に、俺のことを――いや、クリムゾフィアのことを、慕ってるんだよな)
その慕情の重さを、叶は、今更ながらに実感していた。誰も彼もが、当たり前のようにこちらを頼り、当たり前のようにこちらの判断を待っている。その信頼に、どうにか応えたいと、心の底から思う。だが――
(俺には、それに応えるだけの、中身が伴ってない)
統治の仕組みも、税制も、水路の技術的なことも、この国の歴史も、本当の意味では何一つ分かっていない。分かったふりをして、その場その場を、綱渡りのように乗り切ってきただけだ。営業の勘だけで誤魔化せる場面など、ほんの一握りに過ぎない。
(もし俺の判断一つで、誰かの暮らしが、取り返しのつかないことになったら……)
考えれば考えるほど、底なしの不安が、胸の奥から込み上げてくる。現代での仕事にも、確かにプレッシャーはあった。契約が取れなければ上司に詰められ、数字が振るわなければ肩身が狭くなる。だが、それとこれとは、明らかに重さが違った。あの頃感じていたのは、あくまで「自分一人の評価」を賭けたプレッシャーだ。今、この身にのしかかっているのは、そんなものとは比べ物にならない――大勢の人々の生活そのものが、自分の一挙一動にかかっているという、これまで一度も経験したことのない種類の重圧だった。
(俺なんかが、こんな重責を背負っていいはずがない)
統治実務の重責。次々と迫られる決断。そして、リーゼルに勘づかれかけているという、拭いきれない緊張。積み重なった重圧が、じわじわと、限界に近づいているのを、自分でも感じていた。
(もう、これ以上、隠し通せる自信がない……。頭の中が、ぐちゃぐちゃだ)
私室の扉を閉め、ベッドに倒れ込む。全身が、鉛のように重かった。
(クリムゾフィア……。あんたは、こんな重荷を、ずっと一人で背負ってきたのか)
改めて、その重みを噛み締める。誰にも弱音を吐けず、誰にも本音を明かせず、ただ黙々と、この国と、この国に住まう人々を支え続けてきたのだろう。その孤独の深さを思うと、胸が締め付けられるようだった。
(俺には、無理だ……。こんなの、俺なんかには、到底背負いきれない)
そう考えた瞬間、視界が、ぐらりと揺れた。
(――え?)
耳の奥で、心臓の音が、やけに大きく響いている。全身から、力が抜けていく感覚があった。統治の重責、家族との距離感、そして、正体が露見しかねない緊張――積み重なった不安と疲労が、ついに、限界を超えたのだ。
(誰か……助けて……)
意識が、深い水の底へと沈んでいくように、遠のいていく。
どうやら、俺という異物のせいで、転移の経路は、いつだって、少しばかりずれてしまうらしい。王城の召喚部屋を通さない、イレギュラーな帰り道。
薄れゆく意識の中、叶は、光も闇もない、奇妙な狭間を漂っているような感覚に包まれていた。
――そして、その狭間で。
聞き覚えのない、それでいてどこか懐かしい声が、静かに耳の奥へと響いてきた。




