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15話妹君の勘


 王城を出立して、馬車で半日ほど。


 窓の外に広がる景色が、見覚えのある町並みへと変わっていくのを眺めながら、叶は、じわじわとこみ上げてくる緊張を持て余していた。


「もうすぐ、本邸に着きますよ」


 向かいの席に座るゼルギウスが、涼やかな笑みを浮かべながら、そう告げてくる。


「あ、ああ……」


 なるべく平静を装って頷きながらも、叶の内心は、とうに悲鳴を上げっぱなしだった。


(統治の実務とか、家の中のこととか……俺、本当に何も知らないんだが……!)


 討伐も、奉納も、ある意味では「役目」として割り切ってしまえる部分があった。だが、本邸となれば話は別だ。家族との日常、使用人たちとの積み重ねられた関係――そういった、台本のない場面でこそ、ボロは出るものだ。


 やがて馬車が緩やかに速度を落とし、視界いっぱいに、壮麗な屋敷が現れた。白亜の壁に、蔦の絡んだ回廊。王城ほどの威容はないものの、それでも十分すぎるほどの風格を纏った建物だった。


 馬車が止まると同時に、屋敷の前にずらりと居並んでいた使用人たちが、一斉に深々と頭を垂れる。


「クリムゾフィア様。お帰りをお待ちしておりました」


 列の先頭に立っていたのは、白髪交じりの、恰幅の良い初老の男だった。下顎から覗く、丸みを帯びた小さな牙が、オーク族らしい風格を漂わせている。


「ヘルムートにございます。留守中の間、旦那様方に代わりまして、屋敷の一切を取り仕切っておりました」


「うむ。世話になった」


 なるべく重々しく、それらしい調子で応じる。だが、内心では冷や汗が止まらなかった。


(この人、家令かなんかか……? 配信で、名前とか出てきたっけ……!?)


 必死に記憶を掘り起こそうとするが、これといった手がかりは見つからなかった。配信で語られていたのは、あくまでクリムゾフィア個人の性格や好みといった、断片的な情報ばかりだ。屋敷の使用人の名前や役職まで、把握できているはずもない。


 ふと、叶は思い立ち、ヘルムートに向き直った。


「ヘルムート、一つ、屋敷の者たちに申し伝えておいてほしいことがある」


「はっ、何なりと」


「近頃、地脈が些か不安定になっているようでな。その影響か、俺自身、時折、予期せぬタイミングで転移が起きることがある。もし俺の姿が、不意に見えなくなるようなことがあれば――案ずるより先に、まず王城へ報告するように。決して、大事にはせぬように」


「――さようでございましたか。承知いたしました。屋敷の者たちにも、よくよく申し伝えておきます」


 ヘルムートは、特に疑う様子もなく、恭しく一礼した。


(よし……。これで、いざという時の言い訳は、確保できたはず)


 叶は、内心で密かに安堵の息をついた。討伐や奉納のような分かりやすい理由ならまだしも、突然姿を消すような真似をすれば、いよいよ怪しまれかねない。せめて、その一点だけでも、あらかじめ手を打っておきたかった。


「早速ではございますが、クリムゾフィア様。留守中に溜まっておりました案件について、幾つかご裁可をいただきたく」


 ヘルムートが、恭しく一礼しながら、そう切り出してくる。


「なにせ、仕事はたっぷり残っておりますぞ! なにしろ、旦那様方も、愉快なくらいに丸投げしてお出かけになったものですから」


 どこか楽しげにすら聞こえる口調で、そう付け加えた。


(た、たっぷりって……! そんな嬉しそうに言うことか……!?)


「あ……ああ、分かった」


 どうにか頷いてみせるほかなかった。


 通された執務室には、既に山のような書類が積み上げられていた。想像していた以上の量に、叶は思わず息を呑む。


(うわ、マジで山積みじゃないか……! これ、本当に俺一人で捌けるのか……!?)


 だが、蓋を開けてみれば、案件の多くは、既に配下の文官たちの手によって、大筋の下準備が整えられていた。判断を仰ぐべき核心の部分だけが、簡潔にまとめられて上がってくる形だ。


(あれ……? 思ったより、ちゃんと回ってる、のか……?)


 優秀な配下たちが、既にお膳立てを済ませてくれている――そう気づくと、叶は、僅かながらも肩の力が抜けるのを感じた。山のような書類の量に反して、決して、完全な手詰まり状態というわけではないらしい。それでも、最終的な決断そのものは、他の誰にも代わってもらえないのだが。


「まずは、こちらの水路改修の件から。北の農地への引水量について、地主連からの陳情が」


「……うむ」


「続きまして、東部の税率の見直しについて。近年の収穫状況を鑑みますと、据え置きか、あるいは若干の減税が妥当かと存じますが、クリムゾフィア様のご意向は」


「……そうだな」


 書類に並ぶ専門用語の数々が、右から左へと通り抜けていく。何一つとして、頭に入ってこない。


(分からない、分からない、分からない……!)


 背中を、冷たい汗が伝う。何か気の利いた一言でも返せればいいものを、下手に発言すれば、素人であることが即座に露呈してしまいそうだった。


「クリムゾフィア様?」


 ヘルムートが、怪訝そうな顔で、こちらの様子を窺ってくる。


「――いや、なんでもない。少し、考えていただけだ」


 なるべく威厳を保ちながら、そう取り繕う。


「では、こちらの件については、いかように」


「……そなたの見立て通りに、進めてくれ」


 苦し紛れに、そう答えた。ヘルムートは、一瞬だけ意外そうな顔をしたものの、すぐに恭しく一礼した。


「畏まりました。では、そのように」


(よし……! なんとか、切り抜けた……!)


 内心で、密かに安堵の息をつく。だが、それも束の間だった。


「クリムゾフィア様、次は――」


 次から次へと運ばれてくる案件の山に、叶は、じわじわと追い詰められていく感覚を味わっていた。


 見かねたゼルギウスが、時折さりげなく助け舟を出してくれる。


「ヘルムート殿。クリムゾフィア様も、長旅でお疲れのご様子です。此度は、この程度で切り上げてはいかがでしょう」


「おお、これは失礼を。それでは、残りは追ってご報告させていただきます」


 ヘルムートが恭しく退室していくのを見送りながら、叶は、椅子の背もたれに、力なく体を預けた。


「――助かった」


「いえ。此度は、私の方でも、ある程度お力になれるかと存じます」


 ゼルギウスが、いつもと変わらぬ涼やかな笑みを浮かべながら、そう応じる。


(そういえば……前もって、言っておいて正解だったな)


 王城を発つ前、叶はゼルギウスにだけ、こっそりと打ち明けていた。異世界と現世を行き来する負担で、時折、調子が優れず、物覚えが怪しくなることがある――何かあれば、それとなくフォローしてほしい、と。保険のつもりで零しておいた一言だったが、まさか、これほど早く役に立つとは思っていなかった。


(本当に、この人がいてくれて良かった……)


 心の底から、そう思わずにはいられなかった。


 そんな折、廊下の方から、けたたましい足音が近づいてきた。


「お兄様ぁぁぁ! お帰りなさいませ!」


 勢いよく扉が開け放たれると同時に、小柄な人影が、まっすぐこちらへと飛び込んできた。


「うおっ――」


 思わずよろけながらも、叶は、その勢いを受け止めた。淡い金の髪を二つに結った、快活そうな少女だった。その髪の隙間から、小さな角が、ちょこんと覗いている。喜びのあまりか、背から伸びる細い尻尾が、ぱたぱたと機嫌良く揺れていた。


「お兄様、討伐だ、奉納だって、ずっと大変だったんでしょう? リーゼル、心配していたんですよ!」


(この子が……妹の、リーゼルか)


 配信で語られていた名前と特徴を、叶は慌てて頭の中で照合する。おてんばで天真爛漫、領民のアイドル的存在――たしかに、その通りの人物像だった。


「あ、ああ。心配をかけたな」


 なるべく兄らしく、そう応じてみせる。リーゼルは、満面の笑みを浮かべながら、ぎゅっとこちらの腕にしがみついてきた。


「もう、離れませんからね! せっかくお帰りになったんですもの、今日は、たくさんお話ししましょう!」


「お、おう」


 その屈託のない笑顔に、叶は、思わず頬が緩みそうになった。純粋な好意を向けられることに、こんなにも安堵させられるとは思っていなかった。


 と、そこでリーゼルは、ようやく叶の腕の中の存在に気づいたらしい。


「あら? お兄様、それ……」


 ラヴィが、ひょこりと顔を覗かせる。真っ白な毛並みに、リーゼルの目が、みるみるうちに輝いた。


「わあ、なんて可愛いんでしょう! これ、お兄様のペットなんですか?」


「あ、ああ。ちょっとした縁があって、な」


「触ってもいいですか? ねえ、いいですよね?」


 返事を待つより先に、リーゼルは、もうラヴィの頭を撫で始めていた。ラヴィも、まんざらでもなさそうに、小さく喉を鳴らしている。


「もう、お兄様ったら、こんなに可愛い子を連れて帰ってくるなんて、水臭いんですから! 名前は、なんていうんですか?」


「ラヴィだ。森で拾った」


「ラヴィ……いい名前ですね。リーゼル、この子のこと、気に入りました!」


 リーゼルは、そう言いながら、嬉しそうにラヴィの背中を撫で続けていた。その屈託のない笑顔に、叶もまた、自然と頬を緩ませずにはいられなかった。


 その夜、久方ぶりの家族団らんの席が設けられた。両親は相変わらず不在らしく、食卓を囲むのは、叶とリーゼルの二人きりだった。


「お父様もお母様も、本当に呑気なんだから。統治を全部お兄様に丸投げして、今頃どこかで優雅に骨休めしてるんですよ、きっと」


 リーゼルが、頬を膨らませながら、そうぼやく。


「まあ、その分、俺がしっかりしないとな」


 当たり障りのない相槌を打ちながら、叶は、慎重に言葉を選んでいた。


「そういえば、お兄様。此度の収穫祭、皆から聞きましたよ。すごい光量だったって」


「ああ、まあ、な」


「リーゼルも、いつかお兄様みたいに、立派に奉納できるようになりたいです。毎日、鍛錬してるんですよ」


 目を輝かせながら、リーゼルがそう語る。その眼差しには、兄への純粋な憧れが滲んでいた。


(この子、本気で、俺――いや、クリムゾフィアみたいになりたいって思ってるんだな……)


 そう思うと、胸の奥が、ちくりと痛んだ。今この場にいるのは、本物のクリムゾフィアではないというのに。


 食事が進むにつれ、リーゼルは、あれこれと昔話を持ち出してきた。


「そういえば、覚えてます? 幼い頃、お兄様が、庭の池に落ちて――」


「あ、ああ、そんなこともあったな」


 できる限り、当たり障りのない相槌で受け流す。だが、話が進むにつれ、次第に返答に窮する場面が増えていった。


「ねえ、お兄様。ひいひいひいひいお祖父様――エルンスト様の命日、来月ですよね。今年も、お墓参りに行きますか?」


「――え、あ、ああ。もちろんだ」


(誰だ、エルンスト様って……! というか、ひいが四つって、一体何代前のご先祖なんだよ……!)


 魔族は長命だとは聞いていたが、まさか、これほどとは。人間の感覚で言えば、もはや歴史上の人物と大差ないはずの先祖の命日を、当たり前のように毎年欠かさず参っているらしい。


 内心で、盛大に冷や汗をかきながらも、どうにか平静を装う。


 しばらくの沈黙の後、リーゼルが、ふと首を傾げた。


「……お兄様、なんだか、今日は変ですね」


「――え?」


 思わず、心臓が跳ねる。


「なんて言うか……いつもより、覇気っていうか、貫禄が薄いような。ちゃんとお兄様のはずなのに、どこか、他人のお兄様みたいっていうか」


 リーゼルが、じっとこちらの顔を見つめながら、そう呟いた。屈託のない口調ではあったが、その眼差しには、確かな違和感が滲んでいた。先ほどまで機嫌良く揺れていた尻尾も、いつの間にか、ぴたりと動きを止めている。


(う、うわあああ……!! ヤバい、ヤバい、勘のいい妹すぎる……!!)


 叶は、必死で表情を取り繕った。


「そ、そうか? 長旅で、疲れているだけだと思うが」


「そう、ですか……? まあ、お疲れなら、無理もないですけど」


 リーゼルは、それ以上追及することなく、ひとまず納得したように頷いた。だが、その表情には、まだどこか、腑に落ちない色が残っていた。


(危なかった……。マジで危なかった……)


 冷や汗が、背中を伝う。この調子でボロを出し続ければ、いつか本当に、正体を見破られてしまうかもしれない。


 食事を終え、それぞれの部屋へと戻る道すがら、廊下でヘルムートに呼び止められた。


「クリムゾフィア様。実は、先ほどの水路改修の件で、地主連の代表がお目通りを願っておりまして。明朝、いかがでしょうか」


「あ、明朝……。分かった」


「それと、もう一点。来月の収穫の分配について、そろそろご判断をいただかねばなりません。此度の一件で、東部の村々からも、早急な取り決めをとの声が」


(また、実務の話か……)


 叶は、内心で、深いため息をついた。今日一日だけでも、これだけの案件を右から左へと処理してきたというのに、まだこれから先も、次から次へと判断を迫られ続けるのだろう。


「――分かった。明日、また改めて」


 どうにかそう答え、私室へと戻る。扉を閉めた瞬間、叶は、その場にへたり込みそうになった。


(もう、限界だ……。統治実務なんて、俺には荷が重すぎる……)


 ベッドに倒れ込みながら、叶は、天井をぼんやりと見つめた。


(それに、リーゼルにも、勘づかれかけてる。この調子じゃ、いつかは絶対に、バレる……)


 胸の奥に、じわじわと不安が広がっていく。討伐や奉納のような、分かりやすい「役目」ならば、まだどうにかなった。だが、これから先、統治者としての日々の判断を、延々と積み重ねていくことなど、自分にできるとは、到底思えなかった。


(クリムゾフィア……。あんた、こんな重荷を、ずっと一人で背負ってきたのか)


 改めて、そのことの重みを、噛み締める。


 そんな折、部屋の扉が、控えめにノックされた。


「お兄様、まだ起きてます?」


 リーゼルの声だった。


「あ、ああ。どうした」


 慌てて身を起こし、なるべく平静な声で応じる。扉が開き、寝間着姿のリーゼルが、ひょっこりと顔を覗かせた。


「あの、さっきは、変なこと言っちゃってすみません。お兄様のこと、疑うつもりじゃなかったんです」


「……いや、気にしてない」


「ただ……」


 リーゼルは、そこで一度言葉を切ると、じっとこちらを見つめてきた。


「本当に、お兄様、なんですよね?」


 その問いかけに、叶の心臓が、大きく跳ねた。


(まさか、本当に、気づかれて――)


 冷や汗が、どっと噴き出す。何と答えればいいのか、必死に頭を巡らせる。だが、うまい言葉が、どうしても出てこない。


「――当たり前だろう。俺以外の、誰だと言うんだ」


 声が、僅かに上擦っているのが、自分でも分かった。


 リーゼルは、しばらくこちらをじっと見つめていたが、やがて、ふっと表情を緩めた。


「そう、ですよね。変なこと聞いて、ごめんなさい。おやすみなさい、お兄様」


 そう言い残すと、リーゼルは、扉の向こうへと消えていった。


 残された叶は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けずにいた。


(今の、絶対にヤバかった……。次に何か聞かれたら、もう、誤魔化しきれる自信がない……)


 全身から、力が抜けていく感覚があった。統治の重責、家族との距離感、そして、正体が露見しかねない緊張――積み重なった不安と疲労が、じわじわと限界に近づいているのが、自分でも分かった。


(明日も、あの調子で乗り切れるんだろうか……)


 叶は、重い足取りでベッドへと向かうと、そのまま倒れ込むように横になった。窓の外では、月明かりが、静かに庭を照らしている。


 そんな叶の腹の上に、いつの間にか、ラヴィがふわりと乗り上げてきた。丸くなって、小さな寝息を立て始める。


 その温もりと重みに、張り詰めていた気持ちが、ほんの少しだけ緩んでいくのを感じた。


(お前だけは……こっちの事情なんて、何も知らずに、無邪気なもんだよな)


 小さく笑いながら、叶は、そっとラヴィの背を撫でた。柔らかな毛並みの感触が、ささくれ立った神経を、少しずつ落ち着かせてくれる。


(明日も、また同じことの繰り返しなんだろうな……。リーゼルに、また何か聞かれるかもしれないし、ヘルムートからは、次から次へと案件が回ってくるんだろうし)


 考えれば考えるほど、不安は尽きなかった。それでも――


(それでも、今は、この温もりだけでも、ありがたいな)


 規則正しいラヴィの寝息を子守唄代わりに、叶は、ゆっくりと瞼を閉じた。この本邸での日々が、まだしばらく続くことを思うと、深い深いため息が漏れる。だが、その傍らには、こうして無条件に寄り添ってくれる存在がいる――それだけが、今の叶にとって、数少ない救いだった。

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