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14話灯りの捧げ物



 収穫祭当日の王城は、朝からただならぬ賑わいに包まれていた。


 中庭には、色とりどりの布が張り巡らされ、屋台らしき出店の準備が着々と進んでいる。厨房の方角からは、香ばしい匂いが絶え間なく漂ってきていた。使用人たちの足取りは軽く、すれ違うたびに誰もが笑顔を向けてくる。


(この盛り上がり、下手にボロを出すわけにはいかないな……)


 腕の中のラヴィを撫でながら、叶は密かに気を引き締め直した。


 昼を過ぎた頃、王城前の広場には、領内のみならず近隣の町からも、大勢の民が詰めかけていた。特設された壇上に、国王が姿を現すと、割れんばかりの歓声が沸き起こる。


「今年もまた、こうして皆と共に、実りに感謝を捧げる日を迎えられたこと、儂は心から嬉しく思う」


 国王の声は、壇上に設えられた拡声の魔道具を通じて、広場の隅々にまで朗々と響き渡った。


「此度の実りは、決して楽なものではなかったと聞き及んでおる。だが――そのような時であればこそ、共に手を取り合い、この地に宿る恵みに、深く感謝を捧げようではないか」


 その言葉に、集った民から、大きな拍手が上がる。飢饉の兆しなど微塵も感じさせない、明るい歓声だった。


(この人たちは、まだ何も知らないんだよな……)


 叶は、腕の中のラヴィをそっと抱き直しながら、その光景を複雑な思いで見つめていた。西部の穀倉地帯の異変も、地脈の目減りも、まだ広くは知らされていないのだろう。だからこそ、今日この場に集う笑顔は、なおさら眩しく映った。


 国王のスピーチが終わると、壇の脇に設けられた舞台に、色鮮やかな衣装をまとった踊り子たちが次々と姿を現した。太鼓の音に合わせ、しなやかな身のこなしで舞う様は、まるで炎そのものが踊っているかのようだった。


「あれは、豊穣を寿ぐ舞にございます」


 いつの間にか隣に控えていたシルヴェスタが、静かに解説を添えてくる。


「収穫祭では、古くから、大地への感謝を舞にして捧げる習わしがございまして。あの舞い手たちの動きひとつひとつにも、意味が込められているのですよ」


「……そうなのか」


 なるべく知った風を装いつつ、叶は相槌を打った。舞台の周りでは、子供たちがはしゃぎ回り、屋台からは香ばしい匂いが立ち上っている。誰もが、この一日を心待ちにしていたのだと、その表情から伝わってきた。


 ライハルトが、屋台で買ってきたらしい串焼きを片手に、豪快な笑い声を上げる。


「クリム、お前も一つどうだ! こういう時ぐらい、羽目を外したっていいんだぞ」


「後で、な」


 軽く手で制しながらも、叶の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。ヴィオラは屋台の売り上げを興味深げに眺め、ヨナスは舞の型を熱心に記録し、エリーゼは踊り子たちに向けて静かに手を合わせている。それぞれの、いつも通りの姿だった。


 だが――日が傾き、夕暮れの気配が濃くなるにつれて、広場の空気は、少しずつその色を変えていった。


 いよいよ奉納の刻限が近づいてくると、叶は王城の裏手にある祭壇へと案内された。石造りの古びた台座を囲むように、大勢の人々が集っている。松明の炎が、夜風にゆらゆらと揺れていた。


「クリムゾフィア様。此度も、何卒よろしくお願いいたします」


 シルヴェスタが、恭しく一礼する。その瞳は、相変わらず値踏みするような硬さを湛えていたが、それでも今日ばかりは、僅かに期待の色も滲んでいるようだった。


 祭壇の周囲には、見覚えのある顔が並んでいた。ライハルトが腕を組んで仁王立ちし、ヴィオラは興味深げに祭壇を見つめている。ヨナスは手元の記録用の紙を構え、エリーゼは両手を合わせて、静かに祈りを捧げていた。


 その少し離れた場所に、国王の姿もあった。傍らには、見慣れない女性が一人。淡い金の髪をした、堂々とした佇まいの女性だった。


(もしかして、あの人が……)


 姫様のことだろうか、と思い当たったが、確かめる暇はなかった。


「クリムゾフィア様。どうぞ、こちらへ」


 シルヴェスタに促されるまま、叶は祭壇の前へと進み出た。台座の中央には、淡い光を放つ大きな水晶が据えられている。その傍らには、見たことのない台座が幾つも並び、その上に、それぞれ性質の異なる道具が整然と載せられていた。しかも、その数は、これまで想像していたよりも遥かに多い。


「これは……随分と、数が多いようだが」


「はい。此度は例年に比べ、殊更多くのお心が、現世より寄せられたと伺っております」


 シルヴェスタが、僅かに目を細めて、そう答えた。


「詳しい理由までは、私どもには分かりかねますが……。それだけ多くの想いが集まったということは、クリムゾフィア様が、それだけ懸命に、あちらでのお勤めを果たされた証にございましょう」


(あ……。これ、絶対あの100万人記念配信の分だ)


 叶は、内心でひとりごちた。あの夜、画面いっぱいに流れ続けたスパチャの洪水を、まざまざと思い出す。向こうの事情など知る由もないシルヴェスタたちの目には、それはきっと、クリムゾフィアが並々ならぬ苦労の末に持ち帰った、努力の証として映っているのだろう。あれほどの想いが、これほどの数の道具となって、今、目の前に積み上げられているのだ。


「せっかくの機会にございます。此度は、道具についても、いま一度詳しくご説明させていただきましょう」


 シルヴェスタは、そう前置きすると、台座の一つを手のひらで示した。淡い光を宿す、小さな珠だった。


「これは、想灯珠。日々、絶えず注がれる、穏やかな祈りや感謝――言うなれば、変わらぬ想いの結晶にございます。一つ一つの光は決して強くありませんが、数を積み重ねることで、地に染み渡るような、静かな滋養となります」


(つまり……額は少なくても、いつも変わらず応援してくれる人たちの、あの気持ちってことか)


 叶の脳裏に、幾度となく届いていた、控えめな金額のスパチャの数々が浮かんだ。決して目立つ額ではない。それでも、毎回欠かさず送ってくれる誰かがいた。


 次に示されたのは、燃えるような赤い光を放つ、ごつごつとした石だった。


「こちらは、供炎石。より強く、熱く込められた想いが結晶したもの。想灯珠に比べ、遥かに密度の高い魔力を宿しており、一つで幾つもの想灯珠に匹敵することもございます。ただし――その分、扱いには些か、力がいるかと」


「力が……?」


「はい。供炎石は、捧げる者自身が、その熱量に見合うだけの想いを持って迎え入れねば、うまく水晶に馴染みませぬ。生半可な気持ちで捧げれば、かえって弾かれてしまうことも」


(ああ、これは……間違いなく、高額スパチャの方だ)


 叶は、ごくりと喉を鳴らした。あの夜、画面いっぱいに躍った、桁の大きな金額の数々。あれが流れるたびに感じた、あの胸の内側が熱くなるような感覚――それを、今この場でも、確かに再現できるだろうか。


 最後に示されたのは、透明度の高い、澄んだ音色を纏う珠だった。手に取ると、微かに、鈴のような音が鳴る。


「そしてこれが、献奏珠。想いに、言葉が伴った時にのみ結晶する、特別な捧げ物です。声、あるいは文字に込められた具体的な願いや感謝――それらは、ただの魔力以上の、確かな『意味』を持って、地脈に刻まれると言われております」


「意味が、刻まれる……」


「はい。想灯珠や供炎石が、地を潤す水そのものだとすれば、献奏珠は、その水に溶け込む、特別な滋養と言えましょうか。いつの日か、この地が再び豊かさを取り戻した折には、その意味もまた、何らかの形で花開くのではないか――そのように、代々語り継がれております」


(これは、あれだ。コメント欄に、長々と想いを綴ってくれる……メッセージ付きのスパチャってことか)


 金額の大小にかかわらず、一文字一文字に、確かな熱を込めて送られてくる言葉たち。あれらもまた、ただの数字以上の重みを持っていたのだと、今さらながらに思い知らされる。


 シルヴェスタの説明を聞きながら、叶の脳裏には、あの夜寄せられた、数えきれないコメントの数々が浮かんでは消えていった。「いつも配信ありがとう」「体調気をつけて」「クリム様のおかげで元気出ました」――そんな、何気ない一言、一言が。


(あれが全部、今ここにあるのか……)


 積み上げられた道具の山を前に、叶は、ただの数字だと思っていたものの重みを、今さらながらに実感していた。


 叶は、そっと想灯珠に似た珠を手に取り、水晶へとかざした。


 その瞬間、あたりを取り囲んでいた松明の炎が、申し合わせたように、一斉にその揺らめきを静めた。ざわめいていた夜風さえも、ふっと凪ぐ。まるで、この地そのものが、息を潜めて見守っているかのような静寂だった。


 目を閉じ、配信の記憶を、必死に手繰り寄せる。スパチャが届くたびに感じた、あの胸の奥が満ちていくような感覚。あれこそが、魔力そのものだったはずだ。


 すると、手のひらの先から、淡い光が一筋、糸を引くように立ち上り、ゆっくりと水晶へと吸い込まれていった。まるで、体の奥底に眠っていたものが、夜露のようにそっと滲み出していくかのような感覚だった。


 珠が一つ、また一つと、光の粒となって水晶へ溶けていくたびに、頭上に広がる夜空が、僅かにその色を深めていく。無数の星々が、心なしか、いつもよりも強く瞬いているようだった。


 やがて供炎石に手を伸ばした時、叶は一瞬、身構えた。あの夜の、高額スパチャが届いた瞬間の、胸の奥が焼けるような高揚感――それを思い出すように、強く目を閉じる。


 石を握った手のひらから、心の臓の鼓動に合わせるように、どく、どくと熱が脈打った。次の瞬間、石が内側から爆ぜるように紅く発光し、幾筋もの光の粒子となって、渦を巻きながら水晶へと吸い込まれていく。


 最後に、献奏珠の山へと手を伸ばした時、叶はふと、その中の一つに目を留めた。他の珠とは、どこか佇まいが違う。表面に、古びた護符めいた、いかめしい紋様がうっすらと浮かび上がっていたのだ。


(これ……もしかして)


 脳裏をよぎったのは、いつも一味違う独特な言い回しで、律儀に想いを寄せてくれる、あの常連リスナーの姿だった。「きさま何者だ」などと、いかにも重々しい調子で送られてくる、あのコメントの数々。


(陰陽師プレイの人か……。相変わらず、律儀だな)


 込み上げてくる可笑しさを、叶はどうにか押し殺した。画面の向こうで、今日もあの重々しい調子でコメントを打ち込んでいるであろう「とある陰陽師」の存在を思うと、思わず頬が緩みそうになる。


 その珠を、そっと水晶へとかざした。厳めしい紋様に反して、流れ込んでくる光は、存外に温かだった。


「……おお」


 どよめきが起こる。水晶は、その内側に小さな太陽でも宿したかのように、みるみるうちに輝きを増していった。祭壇を囲む松明の炎が、その眩さに気圧されたように、色を失っていく。


 集った人々の間から、次々と歓声が上がった。子供たちは、小さな両手を高く突き上げ、はしゃぎながら光を追いかけようとする。老いた女が、皺の刻まれた両手をきつく組み合わせ、目を潤ませながら、何事かを一心に唱えていた。誰かが、堪えきれなくなったように、隣に立つ者と肩を抱き合い、声を上げて笑っている。


 やがて水晶は、抱えきれなくなった光を、まるで祝福のように空へと解き放った。淡い金色の光が、噴水のように立ち上り、そのまま夜空いっぱいに、無数の光の粒となって降り注いでいく。集った人々の頬や、髪や、高く掲げた手のひらの上に、その光はそっと降りては、溶けるように消えていった。まるで、地上に舞い降りた星々のようだった。子供たちの歓声は、いつしか大きな合唱のような喝采へと変わり、大人たちも、その光の粒を追うように、幾度となく空を見上げては、感嘆の声を漏らしていた。


 例年よりも遥かに大きく膨れ上がったその光量に、周囲からも、驚きと感嘆の入り混じったどよめきが漏れた。


 その光は、水晶の内側だけに留まらなかった。台座の隙間から地面へと沁み込み、まるで血管を巡る血のように、地中深くへと、幾筋もの光の筋となって広がっていく。足元の石畳の継ぎ目という継ぎ目から、淡い光が滲み出し、まるで巨大な生き物の脈動をなぞるように、王城の敷地の外へ、外へと、静かに、しかし確かに広がっていくのが、叶の目にもはっきりと映った。


(これが……地脈ってやつか)


 配信で、リスナーの誰かがふと口にしていた単語が、頭をよぎる。この光は、きっとこのまま、王都を越えて、国中の隅々にまで届いていくのだろう。西部の穀倉地帯にも、獣たちが飢えていた森の奥にも。


 どこか遠くで、地鳴りにも似た、低く長い音が響いた気がした。まるで、この大地そのものが、深く息を吐き出したかのような――そんな、確かな手応えだった。


「見事な、奉納にございます」


 シルヴェスタが、珍しく僅かに目を見張りながら、そう呟いた。その瞳の輪郭が、一瞬だけ、ぶれたように揺らいで見えた。


「此度は、殊更に見事な光量でしたね」


 ヨナスが、手元の記録に何かを書き込みながら、静かにそう呟いた。


(できた……。とりあえず、これで良かったみたいだ)


 叶は、内心で深く安堵の息をついた。


「クリムゾフィア様のおかげで、此度の収穫祭も、無事に執り行えそうです」


 侍女頭が、目に涙を浮かべながら、そう告げてくる。周囲からも、感謝と敬意の入り混じった声が、次々と上がった。


「さすがはクリムだな! 今回は、一段と気合が入ってたみたいじゃないか! いつ見ても惚れ惚れするぜ!」


 ライハルトが、豪快な笑い声を上げる。その額に、興奮からか、うっすらと角の痕が浮かんでいた。


「本当に、お見事でした」


 エリーゼが、ほっとしたように微笑む。その背中のあたりが、柔らかく発光していた。


 祭壇の周りに集った人々の間では、いつしか誰からともなく、素朴な旋律の歌が口ずさまれ始めていた。手を取り合って輪になる者、涙ながらに抱き合う親子、松明の灯りの下で笑い転げる若者たち――張り詰めていた祈りの空気は、そのまま賑やかな祝宴のざわめきへと移り変わっていく。


 その温かな声の渦に包まれながら、叶はふと、こみ上げてくるものを感じた。現代では、ここまで純粋な感謝を向けられることなど、そう多くはなかった。


 だが――同時に、胸の奥に小さな痛みも覚えていた。この歓声も、この感謝も、本当は自分に向けられたものではない。すべては、クリムゾフィアという存在があってこそのものだ。


 そんな複雑な思いを抱えたまま、奉納の儀は静かに幕を閉じた。


 祭壇を後にする道すがら、国王が、ふとこちらに歩み寄ってきた。傍らの女性――やはり、姫だったらしい――は、悪戯っぽい笑みを口元に浮かべながら、堂々とした足取りでこちらへと近づいてくる。


「此度も、大儀であった。殊のほか、見事な奉納であったな」


 国王が、そう労いの言葉をかけてくる。その瞳が、穏やかな紅色に和らいでいた。


「まったく、クリムゾフィアったら。此度も、随分と見事にやってのけましたわね」


 姫が、腕を組みながら、からかうようにそう声をかけてくる。年上の姉が弟をあしらうような、気安い響きだった。


(この人が、姫様……)


 間近で見るその姿に、叶は思わず息を呑んだ。淡い金の髪、透き通るような白い肌、そして、こちらをまっすぐに射抜くように見つめる、意志の強そうな大きな瞳――配信で語られていた「幼馴染」という響きから、勝手に思い描いていたおしとやかな令嬢像とは、まるで違う。堂々として、それでいてどこか艶やかな、姉御肌といった雰囲気の美貌だった。


(うわ、ちょ……めちゃくちゃ美人じゃん……! しかも、思ってたよりずっと強気なタイプ……!)


 心臓が、ドクドクとやかましいくらいに脈打つ。だが、ここで狼狽えるわけにはいかない。数多の修羅場を潜り抜けてきたであろうクリムゾフィアが、幼馴染相手に浮き足立つなど、あってはならないことだ。


 叶は、なるべく表情を動かさぬよう、必死に平静を装った。


「……当然のことをしたまでだ」


 なるべく重々しく、それらしい調子で応じる。


「あら、相変わらず素っ気ない。昔から、そういうところ、ちっとも変わりませんこと」


 姫が、くすりと笑いながら、腕の中のラヴィにふと目を留める。その表情が、ふわりと綻んだ。


「まあ……なんて愛らしい」


「そなたが手懐けたという、あの魔物か。此度の会合でも、皆えらく驚いていたようだな」


 国王が、興味深げに口を挟む。姫の視線を受けてか、ラヴィが腕の中で、ふわふわと尻尾を揺らした。


「ちょっと、失礼するわね」


 断りを入れるより先に、姫はもうラヴィの頭を撫でていた。物怖じしない、まっすぐな仕草だった。


「ふふ、本当に。クリムゾフィアは、昔から、こういう小さきものに好かれるんだから」


(昔から……? そういえば、幼馴染だったんだっけ)


 配信で聞き齧った関係性を、叶は慌てて頭の中でなぞった。だが、それ以上踏み込まれれば、途端に返答に詰まってしまう。なるべく当たり障りのない相槌で、この場を切り抜けるほかない。


「……そう、だったな」


「覚えてないの? 昔、お庭で迷い子の仔犬を拾ってきて、こっそり私室に匿ってたでしょう。乳母に見つかって、大変な騒ぎになったこと」


 姫が、腰に手を当て、くすくすと思い出し笑いを漏らす。


(そんなエピソード、配信じゃ一度も聞いたことないぞ……!)


 内心で、冷や汗が噴き出すのを感じながらも、叶はどうにか表情を取り繕った。


「――昔の話だ。忘れていて、当然だろう」


 なるべく重々しく、それらしい調子で言い逃れる。姫は、それ以上追及することなく、ただ楽しげに目を細めるだけだった。


「相変わらず、意地っ張りなところも変わらないのね」


 姫は、そう言うと、すっと距離を詰めてきた。吐息が触れそうなほどの近さで、切れ長の瞳が、悪戯っぽく細められる。


「ねえ、クリムゾフィア。そんなに強がらなくても、いいのに」


 低く、蕩けるような声で囁かれ、叶は思わず息を止めた。姫の指先が、胸元の飾り紐にすっと触れ、それを直すふりをして、たった一度だけ、するりと撫でていく。


(う、うわああああ……!! 近い、近い、近い……!!)


 頭の中が、一瞬にして真っ白になりかける。だが、ここで動揺を悟られるわけにはいかない。叶は、喉元までせり上がってきた悲鳴を、なんとか飲み込んだ。


「――なんの話だ」


 精一杯、平静を装ってそう返す。声が、僅かに上擦っていた。


「ふふ、さあ、何のことかしら」


 姫は、満足げに目を細めると、するりと身を引いた。その仕草には、こちらの反応をすべて見透かしているような、余裕さえ滲んでいた。


「エレナ、あまりからかってやるでない。クリムゾフィアも困っておろう」


 国王が、苦笑交じりにそう窘める。だが、その口調には、微塵も本気で咎める色はなかった。


「あら、これくらい、この子には効かないでしょう? 昔っから、私の方が一枚上手なんですから」


 姫が、そう言って悪戯っぽく片目を瞑る。


「うむ。息災であったか」


 当たり障りのない一言で応じるので、精一杯だった。姫は、それだけで満足げに笑うと、颯爽と身を翻し、一礼して国王と共に去っていった。


 その場を後にしようとした時、ふと、聞き慣れた声に呼び止められた。


「主、少しよろしいでしょうか」


 振り返ると、ゼルギウスが恭しく一礼していた。


「此度の奉納も、無事に落ち着かれたご様子。差し出がましいこととは存じますが――そろそろ、本邸の方にも、お顔を出されてはいかがかと」


「――え?」


 思わず、間の抜けた声が漏れた。


「討伐の一件からこちら、ずっと王城に留まっておいでですので。ご領地の方々も、ご家族の皆様も、さぞお待ちかねかと存じます。無論、私もお供いたしますので、ご安心を」


 ゼルギウスは、いつもと変わらぬ涼やかな笑みを浮かべながら、そう続けた。


「あ、ああ……。そう、だな」


 表向きは、なるべく鷹揚な態度を装って、そう返す。だが――内心では、悲鳴じみた声が、盛大に響き渡っていた。


(本邸って……クリムの、家族がいるところだよな!? 統治の実務とか、そういうの、俺、何一つ分かってないんだが!?)


 これまでは、討伐だ奉納だと、ある意味で分かりやすい「役目」をこなしていればよかった。だが、本邸となれば、話は別だ。使用人たちとの日々のやり取り、家族との何気ない会話――ボロが出るとすれば、むしろそういう、些細な場面の方が、よほど恐ろしい。


(せめて、もう少し、心の準備をさせてくれ……!)


 胸の内で盛大に取り乱しながらも、叶は、どうにか平静を装った顔のまま、小さく頷いてみせるほかなかった。


「うむ。では――近いうちに、手配を頼む」


 精一杯、それらしい重みを込めて、そう告げる。


「かしこまりました。手はずが整い次第、お知らせいたします」


 ゼルギウスは満足げに一礼すると、静かに一歩下がった。


 その涼やかな横顔を見つめながら、叶は、こみ上げてくるため息を、必死に噛み殺した。


 その夜、私室に戻った叶は、ラヴィを傍らに寝かせながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。無数の星々が、夜空に瞬いている。


(スパチャが、本当に、みんなの力になっていたんだな……)


 これまでは、どこか他人事のように感じていた「配信」という行為が、今、初めて確かな重みを持って胸に迫ってきた。画面の向こうの誰かの善意が、こんなにも多くの人々の暮らしを、確かに支えていたのだ。


 スパチャという名の魔力を、これだけ大量に奉納したせいだろうか。体の奥から、じわりとした気だるさが込み上げてくる。それでも、確かな達成感もまた、同じだけ胸に満ちていた。


 だが、瞼が落ちかけたその時、ふと、昼間の会合で聞いたヨナスの言葉が、脳裏をよぎった。


 ――同じだけの実りを取り戻すために、必要な奉納量が、年を追うごとに、僅かずつ増え続けている。


 あの温かな光の筋も、いつか、どれだけ注ぎ込んでも、この国の隅々にまでは届かなくなる日が来るのだろうか。そう考えると、達成感の裏に、小さな影が差すのを感じた。


 瞼が、自然と重くなっていく。


(本邸か……。一体、いつになったら、この胃の痛みから解放されるんだろうな)


 最後にそんなことを考えながら、叶の意識は、ゆっくりと眠りの中へと沈んでいった。

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