魔法陣
深淵の森。
ここに来るのは初めてだ。
森に漂う空気を肌で感じるたび、背筋に冷たいものが走る。
目には見えない。
だが確かに何かが満ちている。
おそらくこれが瘴気。
本能が、この場所を危険だと訴えていた。
この森の入口を警備する兵士は、一定期間ごとに必ず交代させられる。
そして、一度この任務についた者が、再び担当することはない。
そのくらい徹底されている。
そして森の周囲には強力な結界が張り巡らされており、
手練れでなければ侵入することすら叶わないだろう。
故に、森の内部を知る者は誰もいない。
俺は《魔法創造》を使い、結界を突破するための魔法を生み出した。
そこで作り出されたのが――
《霊体化魔術》
三秒間、自身を霊体化させる魔法。
物理的なものをすり抜け、浮遊状態となる。
魔法で作られた結界も、問題なく抜けられる。
さらに霊感、あるいはそれに準ずる魔法でもなければ視認できない。
触れた物体も一時的に霊体化できる。
ただし制約は重い。
制約:
『夜にしか使えない』
『自分以外の生物には使用できない』
『使用後一時間、身体の制御が難しくなる』
かなり癖の強い魔法だ。
早速魔法を発動し、結界の中へ侵入する。
発動した瞬間、身体の感覚が曖昧になった。
重力が薄れる。
音が遠い。
まるで世界から切り離されたようだった。
霊体とはこういうものなのだろうか。
死後すぐ神のもとへ送られた俺には、その感覚がわからない。
もし送られていなければ、こんな存在になっていたのだろうか。
そんなことを考えている間に、結界を通り抜けた。
そして魔法が切れた瞬間、全身から力が抜け落ちる。
自分の身体ではないように感じた。
指一本動かすだけでも重い。
呼吸すらうまくできない。
戦闘中に回避目的で使うのは不可能だろう。
何とか地面を這い、倒木の陰へ転がり込む。
冷たい土の感触を頬に感じながら、身体の自由が戻るのを待った。
どれくらい経っただろうか。
徐々に感覚が戻り始め、ようやく周囲を見回す余裕ができた。
「ここが……深淵の森」
鬱蒼とした森だった。
木々が空を覆い隠し、陽光はほとんど差し込まない。
遠くには崩れた建物が見える。
石造りだったのだろう。
今では蔦に覆われ、自然に呑み込まれかけている。
人工物の残骸の上に、新たな自然が根付いていた。
だが、異常だった。
生き物の気配が一切ない。
魔物はおろか、鳥の囀り一つ聞こえない。
風に揺れる葉擦れの音だけが、静かな森に響いていた。
不自然なほど何もない。
植物だけがこの森に存在する生命だった。
身体が瘴気に侵されているのかどうかもわからない。
だが、今のところ異常は感じない。
「さて……少し見て回るか」
今後ここに潜伏する可能性を考えるなら、調査は必須だ。
水は《水球》でどうにでもなる。
食べれる植物が多く、食料は大丈夫だろう。
問題は住居だ。
エルフたちが使っていた建物も、ほとんど朽ちている。
安全性を確保しつつ、住める場所を見繕う必要がある。
辺りを散策し始めてしばらく経った。
だが、何もない。
植物しかない。
ここまで徹底して生命の気配が存在しないと、
逆に現実感が薄れてくる。
まるで世界そのものが死んでいるようだった。
「想定外だな……」
瘴気の影響なのだろうか。
結局、見て回った範囲ではめぼしいものは何も見つからなかった。
そして最後に、一本の道へ視線が向く。
無意識に避けていた場所だった。
そこだけ、瘴気の濃さが明らかに違う。
空気が重い。
近づくだけでどうにかなりそうになる。
本能が警鐘を鳴らしていた。
それでも足を進める。
やがて、開けた場所へ出た。
そして目の前の光景に息を呑む。
「これが……世界樹」
樹齢千年、もしかするとそれ以上かもしれない。
天へ伸びる圧倒的な巨木。
だが、既に枯れて、葉が一枚も無くなっていた。
生命の気配も感じられなかった。
それでもなお、そこに存在しているだけで空間を支配していた。
死んでいるはずなのに、圧倒的な存在感を放っている。
瘴気の発生源は間違いなくこれだ。
本能が告げる。
ここに長くいてはいけない。
早々に立ち去ろうとした時だった。
「……なんだ、これは?」
世界樹の根元に、魔法陣が刻まれていることに気づいた。
近づいて確認する。
見たことのない術式だった。
自分が知る、いかなる属性とも一致しない。
だが直感した。
これは――聖魔法だ。
もし呪詛を封じるための術式なら、迂闊に触れるべきではない。
魔法陣は同属性の魔力を流し込むことで起動する。
逆に異なる属性の魔力を流せば破壊できる。
もし封印術式だった場合、不用意に触れれば封印を壊しかねない。
《封印術》でさらに封じることも考えた。
だが、瘴気の正体がエルフたちの怨嗟だという話が本当なら、
わざわざ封印で抑えているとは思えない。
世界樹を燃やした時の不発術式の可能性が高い。
なら処理した方がいい。
そう判断し、魔法陣へ手を伸ばした。
そして魔力を流し込もうとした瞬間――
魔法陣が発光した。
「……は?」
理解が追いつかない。
聖の魔力でなければ起動しないはずだ。
そこで、フードの商人の言葉を思い出す。
『君から、ほんの微量だけど聖魔法の気配がするからさ』
ありえない。
《ステータス開示》にも表示されていなかった。
だが現実に、魔法陣は起動している。
つまり、あの言葉は本当だった。
そして次の瞬間、光が溢れ出した。
視界が真っ白に染まる。
思わず腕で目を庇う。
魔力の奔流が周囲を満たしていく。
だが、身体には何も起きない。
攻撃ではない。
そう理解した頃、徐々に光が収まり始めた。
やがて視界が戻る。
そして――
「そんな……」
言葉を失った。
世界樹の前に、一人の少女が立っていた。
長い金髪。
透き通るような白い肌。
そして、人間とは明らかに違う、長く尖った耳。
見たこともない種族。
だが、答えはすぐに理解できた。
数百年前に滅び、存在そのものが歴史から消された種族。
――エルフ。
その少女が、静かにこちらを見つめていた。
発動したのは、エルフの封印解除の聖魔法だったのだ。




