前向きな別れ
ヴァントの山を下り始めた。
母親のために急ぐべきではあるが、俺たちはまだ万全とは言えない。
無理をして倒れてしまっては元も子もない。
だから安全な道を選び、ゆっくり進むことにした。
不思議なほど魔物の姿は少ない。
カトレアが迷いなく道を選んでいく。
流石は獣人族だ。土地勘がまるで違う。
これなら無事に山を下りられそうだった。
道中、カトレアは獣人の国の話をたくさんしてくれた。
「名物のマッゴーって果物があるんだけど、すごく甘くて美味しいのよ。
あとね、町の展望台から見る夕日が本当に綺麗なんだ」
他愛もない話ばかりだった。
だけど外の世界をほとんど知らない俺にとっては、どれも新鮮だった。
「マッゴーか……食べてみたいな、どんな味なんだ?」
そう聞くと、カトレアは少し嬉しそうに笑う。
話し始めたら止まらない。
故郷の料理や祭り、町の景色。
楽しそうに語るその姿を見ていると、自然と頬が緩んだ。
俺が笑うと、カトレアは照れたように視線を逸らす。
出会った頃とはまるで別人だった。
あの殺意と警戒心に満ちた表情は、もうどこにもない。
今の時間がとても心地良かった。
――もうすぐ国境に着く。
そこでカトレアとはお別れだ。
そこはかとなく寂寥感を覚えた。
ロイとたくさん話をした。
人間の国でのことを聞こうかとも思ったけれど、辛い記憶を思い出させてしまいそうでやめた。
だから代わりに、私は故郷の話をした。
獣人国の名物のマッゴーという果物のこと。
夕日が綺麗で、町全体が橙色に染まるということ。
ロイはその度に目を輝かせる。
気になったことを次々に聞いてくるから、つい話しすぎてしまう。
そんな時間が不思議と楽しかった。
私が笑うと、ロイは少し恥ずかしそうに頭をかく。
出会ったばかりの頃の、孤独と絶望に怯えていた表情はもう見えない。
今のロイは、ちゃんと笑ってくれる。
それが嬉しかった。
もうすぐお別れだと思うと、胸が痛んだ。
そうこうしているうちに国境へ辿り着いた。
長かったような、短かったような旅。
これで依頼は完了だ。
ロイがこちらを見て、小さく息を吐く。
「約束、果たすよ」
そして魔法を唱えた。
「《隷属解除》」
淡い光と共に、首につけられていた隷属の首輪が音を立てて外れる。
首元が急に軽くなった気がした。
自由になれた。
そのはずなのに、胸の奥には妙な寂しさが残っている。
ふとロイが困ったように笑った。
「そういえばさ……
隷属の首輪って、主人が死んだら奴隷も死ぬんだったよな」
忘れてたという表情をしていた。
「あんな無茶して、死んでたらどうするつもりだったの?」
少し拗ねたように言ってみる。
するとロイは、本気で申し訳なさそうな顔をした。
「本当にごめん……」
あまりにも真面目に謝るものだから、思わず吹き出してしまった。
「ふふっ、冗談よ」
本当は、もっと早く隷属解除をしてくれるつもりだったことを私は知っている。
だけど約束だからと、国境に着くまで待ってもらった。
そのことは黙っておこうと思った。
空は夕焼けに染まり始めていた。
故郷で話した景色と同じ色。
ロイが優しい声で言う。
「お母さんに元気な顔、見せてやるんだぞ」
その言葉に、胸が熱くなる。
「本当にありがとう。私を助けてくれて……お母さんまで助けてくれて」
手の中には《超回復薬生成》で作られたポーション。
きっと間に合う。
私もロイも、そう信じて疑わなかった。
ロイは少しだけ遠くを見るような目をした。
「大切な人を失う後悔を、してほしくないから」
その表情を見て、私は強く思った。
この人を、一人にしたくない。
「ねぇ……一緒にこない?」
勇気を振り絞って尋ねる。
ロイは少し驚いた顔をした後、静かに首を横に振った。
「それは、できない」
その声は優しかった。
だからこそ、断られたことが苦しかった。
獣人の国は人間を嫌っている。
長年の侵略や奴隷売買のせいで、その憎しみは深い。
もし人間を連れて帰れば、周囲はきっと私まで裏切り者扱いするだろう。
それをロイは良しとしない。
そしてロイ自身も、人間の国から追われる身だ。
頭では理解できる。
でも心は簡単に納得してくれなかった。
「……そっか」
寂しさを隠すように笑う。
「そろそろ行くね」
そう言ってロイに近づく。
そして背伸びをして――
俺の唇に、カトレアの唇がそっと触れた。
一瞬、時間が止まったような気がした。
柔らかくて、温かかった。
カトレアは顔を真っ赤にしたまま踵を返す。
「じゃ、じゃあね!」
小走りで獣人の国へ走っていってしまった。
何が起きたのかわからないまま、その背中を見送る。
気づけば俺の顔も夕焼けみたいに熱くなっていた。
しばらくその場から動くことができなかった。
――第一章 完――




