正の感情
結界の外。
ロイは負の感情に飲み込まれかけていた。
「どうする?封印しちゃう?」
海巫女がそっけなく聞いてくる。
彼女は彼に深い思い入れはない。
目的を果たせればそれでよかった。
「いや、まだ完全に取り込まれておらん。
あの量の負の感情だ、そう簡単にいくまい」
わらわは彼を信じている。
彼が封印されるとき、契約を結ぶ自分も一緒に封じられる。
もちろん、それは望むことではない。
だが、それだけが理由ではない。
一度自分も厄災に取り込まれ封印されている。
その時に無数の負の感情が流れ込んできた。
あの耐えがたい経験を、今まさに彼は味わっている。
孤独に負の感情と戦っている。
彼が完全に負の感情に堕ちてしまうまでは、信じていたかった。
その時、ふと肌を包み込む温かさを感じた。
「なんじゃ、この温かさは」
周囲を見渡すと、誰も彼もが必死に祈りを捧げていた。
国のため頑張る人への応援、そして大切な人の無事を祈る気持ち。
人々の祈りが重なり合い、一つの流れとなる。
それは正の感情の魔力だった。
「そうか、その手があったか」
わらわの中で一つの道筋が見えた。
これならば、負の感情に打ち勝てるかもしれない。
「すまん、アイリス!
少しだけお主の魔力の出力を上げてくれ」
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俺はいろいろな過去を見せられていた。
両親に捨てられた後、ゴミを漁り凌いでいた日々。
パンを盗み、店主に捕まり殴打されたこと。
せっかく見つけた残飯を、力づくで奪われたこと。
思い出したくもない記憶だった。
生き延びることができたのも、人間国が栄えていたからだ。
大量の食事を平気で捨てるような、贅沢な暮らしをする家が多かった。
貧しい国であったり、食べ物を粗末にするようなことがなければ、
俺は次の誕生日を迎える前に死んでいただろう。
「皮肉なもんだよな」
人間国に生まれたからこそ捨てられた。
だが、人間国にいたからこそ生き延びられた。
そして再び時が進み、人間国で戦争が始まる。
魔人国との戦争。
兵士に捕まり、魔物の森に連れて来られた。
その時の兵士と、指揮官に今は心当たりがあった。
「あいつらだったのか……」
俺を肉壁にした兵士は、人間国内の内戦でネモとカトレアが戦った現体制派の隊長だった。
そして腕を組み嗤う指揮官は、ヴァントで戦ったあの司令官だった。
思わぬ形で因縁の再会を果たしていた。
「ここで俺は死ぬ……」
森の最深部に近づいた時、一斉に魔人国の兵士から奇襲を受けた。
四方八方から放たれる攻撃を搔い潜りながら出口へ走る。
その時、死角から魔人国の兵士が放った魔法の矢に俺の身体が貫かれた。
「なんだ身体強化すら使えないのか、本当にただの肉の壁だったな」
兵士は見下すように俺を見ると、冷たく言い放つ。
すぐに興味をなくして、走って行った。
俺の周囲には血だまりができる。
身体は動かない。
意識が朦朧としているが、なかなか絶命できない。
「どうして、俺ばっかりこんな目に遭わなきゃならないんだ!」
大声で叫んだつもりだったが、蚊の鳴くようなか細い声だった。
長い間苦しんだ末、ようやく事切れる。
そこで記憶が途切れる。
「本当に嫌な記憶だった」
冷や汗が止まらない。
動悸も激しい。
自分の中の負の感情がどんどん増大していくのを感じた。
その時、一瞬負の感情の一部が俺の身体から離れた。
「どういうことだ……?」
何故負の感情が苦しみ出したのか理解できなかった。
必死に脳を回転させて答えを探す。
そこで一つに仮説が思い浮かんだ。
魔法の矢に貫かれ絶命した後、俺は死後の世界で神に出会った。
そこで理不尽な理由を告げられ、お詫びに再びこの地へ転生した。
その記憶に触れようとしたのだろう。
だが、死後の世界、神との会話などこの世の理に反する出来事だ。
この世のものが触れられるものではない。
それが強烈なノイズとなって拒絶を起こしたのだろう。
身体を覆っていた負の感情が一部離れていったことで、心の中のもやが少し晴れたようだった。
それにより、少しだけ冷静さを取り戻した。
「危なかった……このままだったら間違いなく負の感情に飲まれていた」
そして人身御供として負の感情を受け入れ、ともに封印されていただろう。
だが、一切油断はできなかった。
次また、負の感情に入り込まれたら、今度こそ完全に飲まれる。
それに、まだ目的は果たせていない。
そればかりか時間を無駄に浪費してしまっている。
絶体絶命の状況に変わりはなかった。
その時、誰かの声が聞こえた。
「……聞こえるか、わらわじゃ。
あまり時間が取れんから手短に要件を話すぞ」
先々代姫巫女の声だった。
結界の外を見ると、その姿を確認できた。
だが、目を閉じて口を動かしてはいない。
直接頭の中に語り掛けているのだろうか。
「聞こえる、何があった?」
先々代姫巫女は答えない。
あくまで受信のみで発信はできないようだった。
「お主の中に、正の感情を注入する。
それで一時的に負の感情に耐性がつき、お主の中の負の感情も消えるじゃろう。
じゃが、もって五秒、いや多く見積もって十秒が限界じゃ」
正の感情。
喜びや安らぎ、心地よさ、そして愛。
負の感情とは対をなすもの。
それを注入するというのだ。
「わらわはお主を信じておる。
絶対無事戻ってくるんじゃぞ」
その言葉を最後に声は聞こえなくなった。
だが、それで十分だった。
希望を見出すことができたからだ。
俺の中にゆっくりと温かい魔力が流れてくる。
ならば、やるべきことは一つ。
足元に落ちた刀を拾い上げる。
再び俺は前を向いた。




