03-08.失われた記憶
「何にも覚えてないんにゃ」
何故私はこの入江に流れ着いたのだろう。その理由が全く思い浮かばない。
私は何故スフィアたちと逸れてしまったのだろう。スフィアが居る限り、あの船が沈むとも思えない。きっと私だけが海に落ちたんだ。それもスフィアが救い出せない状況でだ。それだけでも信じ難いことだ。
「そりゃセイレーンだな」
「なんにゃそれ?」
「魔物の一種だ。歌声で船乗りを誘惑すんだ。軽い催眠状態になっちまうからな。そんで記憶がねえんだろ。おまえさん自分で夜の海に飛び込んだんだろうさ。半分寝ぼけてな。本当に運が良いな。普通はそのまま食われちまう筈なんだが」
「スフィアにゃ。きっとスフィアが妨害してくれたにゃ」
「はは♪ よっぽど信頼してんだな♪」
「当然にゃ」
きっとスフィアにも予想外だったにゃ。私の耳の良さと魔術的な抵抗力の低さが仇になったにゃ。
なんならセイレーンとやらにとっても想定外だったのやもしれんにゃ。近くになんて居なかったのかもしれんにゃ。もっと近くの全然別の獲物を誘おうとしたら、たまたま遠くを通りかかった私が引っかかっただけなのかもしれんにゃ。
「そっちのがありそうな話だな。猫耳族だもんな」
スフィアでも気が付けん程遠くにいたんかもしれんにゃ。意味わからんにゃ。夜中急に歩き出して身投げするとか。出来の悪いホラーにゃ。マジめんご。
「この足はどこでケガしたんにゃ?」
「入江の入口だろうよ。船の残骸が沈んでっからな。それに海流の勢いが強えんだ。泳いでなんてとても出られねえ」
どうりでにゃ。
「にゃら酒樽で脱出ってわけにもいかんのにゃ」
「おう。一回やってみたが酷い目にあったぜ♪」
「にゃはは♪」
もう笑うしかにゃいにゃ♪
「けどきっと大丈夫にゃ。スフィアが探してくれてるにゃ」
「そうかい。……よっこらせっと」
「どこ行くにゃ」
「お前が腹減ったっつったんだろうが」
「酔いは覚めたのかにゃ?」
「おうよ。任せとけ。別に潜るわけでもねえしな」
「気をつけて行ってくるにゃ。おみゃあがいなきゃ、今の私は動くことも出来んのにゃ」
「へいへい。たく。人使いの荒い猫様だぜ」
「感謝するにゃ。ギル」
「そういうのは捕ってきてから言いやがれ」
ギルは一人で牢屋を出て行った。今回は鍵を掛けていかなかった。どうやら信頼してくれたようだ。
「っ……」
マズい。足の痛みだけじゃない。熱まで出てきたにゃ。
けどいいにゃ。これも身体が戦ってる証拠にゃ。私の身体はまだ諦めてなんていないのにゃ。
少し眠らせてもらうにゃ。今は休息が必要にゃ。
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「獣人! 聞こえないのかしら! あんたよ! 獣人!」
なんにゃこいつ。
「来いと言っているのよ! さっさとしなさい!」
「……私の主はポルカ様です。お嬢様」
私の意思と関係なく口から言葉が紡がれた。
「っ!!」
引っ叩かれた。
「お前! 誰に口を聞いているのよ!! 獣人の分際で!」
また殴られた。乱暴なお嬢様だ。
「躾けが足りていないわね! これだから汚れた血は!」
頭に血が上る。一瞬だった。
「っ!? な! 何よ! その目は!!」
これは憎悪だ。眼の前の女が憎くてたまらない。大切な人を泣かせる醜い女に今すぐ爪を突き立てたい。
「お前たち!! この獣を躾けておきなさい!!」
そこで意識が遠のいた。
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気が付くと学院に移っていた。ポルカ様から引き離されてしまったようだ。私は従順なフリをした。この憎い女を油断させて寝首を掻いてやろうと考えた。それでポルカ様が泣くこともなくなると思ったから。どうしてもポルカ様の下へ帰りたかったから。
これはグラシアの記憶にゃ。本当にポルカのことが大好きだったのにゃ。
「殿下! 殿下! お考え直しを殿下!」
「ええい! 煩い!!」
スフィアの声だ。けど一瞬で過ぎ去ってしまった。残念。もっと見ていたかったのに。グラシアの興味が無さすぎた。
「獣人!」
「はい。お嬢様」
嫌々。けど従順に。
「少しは役に立ちなさい」
「はい。お嬢様」
くだらない仕事を命じられた。この女はグラシアを嫌っているくせに、人前では必ず側に置いていた。
どうやら見せびらかしたくて堪らないようだ。まるでアクセサリーだ。小さな妹からぶん取ったくせして、当然のように自分の物だと信じ込んでいた。
そのくせ獣人が怖くて堪らないようだ。夜は必ず鎖に繋がれた。布団なんて与えられず、北国の厳しい寒さに震えながら丸まって眠りについた。
退屈と苦痛と屈辱に満ちた日々だ。
グラシアはいつもポルカのことだけを想っていた。ポルカのこと以外、何一つ興味なんて抱かなかった。
ただただ言われるがままに働き続けた。機械的に。心を殺して。ただ黙々と。
残念ながらチャンスはやってこなかった。最初に睨みつけた時点で脅かし過ぎてしまったようだ。
彼女は日に日に弱っていった。偽りの主は禄に食事も与えなかった。何日も、時には何週間も。飲まず食わずで働かされた。獣人の丈夫な肉体にだって限度はあった。時たま偽りの主の目を盗んで差し入れられる食料が無ければ、とっくに命を落としていた。それが誰からなのかはついぞ知ることはなかった。
グラシアは休暇の間も学院に置き去りにされた。鎖に繋がれたまま。与えられたのはたった一つのパンと皿に注がれた僅かな水だけ。今回は差し入れも無かった。それがトドメとなった。
休み明け。新しい学期の始まりを祝うその日の夜。偽りの主はいつも通りにグラシアを連れてパーティー会場に乗り込んだ。とっくにグラシアの身体は限界だった。
それでも偽りの主は顧みなかった。死に体の従者の様子に気付きもせず、いつも通りに連れ回した。
……グラシアが最期に何を思っていたのかはわからない。意識なんて殆ど残ってはいなかった。その記憶を追体験しても何一つ伝わってはこなかった。
けどわかる事もある。やらなきゃならない事も。
任せるにゃ。グラシア。
おみゃあの無念は私が晴らすにゃ。約束するにゃ。




