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今宵薬局  作者: 蟷螂
79/81

第14話 漂白のシロップ 14-7

10


翌日、修司は会社で山田に声をかけた。


「山田」


「はい」


「昼、少し付き合え」


「用件は何でしょう」


「コーヒーだよ」


「業務中です」


「昼休みだ」


「……了解しました」


社内の自販機の前で、修司はブラックコーヒーを二本買った。


山田に一本渡す。


山田は受け取るが、すぐには飲まなかった。


「お前、前に温かい缶コーヒーにストロー刺して持ってきたこと、覚えてるか」


「記憶にありません」


「だろうな」


修司は苦笑した。うまく笑えているか、自分でもわからない。


「でも、あれ、俺は助かったんだ」


「……」


「お前のそういうところに、助けられてた」


「そうですか」


「だから」


修司は少し息を吸った。


「完璧な書類はありがたい。でも、たまにはくだらないことも言え」


「くだらないこと、ですか」


「そうだ」


「業務効率が低下します」


「少しくらい低下しろ」


山田の目が、ほんのかすかに揺れた。


それだけだった。


だが修司は、その揺れにしがみつくような思いがした。


家では、真由美に言った。



「今日の飯、うまい」


「ありがとうございます」


「でも、ちょっと味が整いすぎてる」


「……はい?」


「前みたいに、たまに失敗してくれた方がいい」


「それは、褒めてるんですか」


「褒めてない。いや、褒めてるのかもしれない」


真由美はしばらく修司を見ていた。



「変なことを言うのね」


「そうだな」


「前は、失敗すると露骨に嫌な顔をしたのに」


「……悪かった」


「本当にね」


その「本当にね」には、ごくわずかだが、昔の真由美の棘があった。


修司は、その小さな棘に、ひどく安堵した。


すぐに何かが戻るわけではなかった。


山田はまだ無表情なままだったし、真由美の動きもどこか硬かった。会社の空気は相変わらず白く、静かで、整っている。


だが、修司が意識して“余計なこと”を言うたびに、世界の表面に薄い傷が入る気がした。


「山田、それ、誤字だぞ」


「……失礼しました」


「久しぶりだな」


「申し訳ありません」


「いや、むしろ安心した」


山田が、ほんのわずかに眉をひそめた。


「課長は、厳しいのか優しいのか、最近よくわかりません」


「そうだな、俺もわからん」


それを聞いて、山田の口元が――本当に、ごくわずかだったが、引きつるように動いた。


笑いにはほど遠い。


だが、機械の動きではなかった。


その夜、帰宅すると、真由美が玄関で待っていた。


「お帰りなさい」


「ああ、ただいま」


「……ネクタイ、少し曲がってるわよ」


「おっ」


修司は思わず声を漏らした。


真由美は自分でも驚いたように、指先を見た。


気づけば修司の結び目に手を伸ばしていたのだろう。少し戸惑った顔で、その指を止める。


「ごめんなさい。余計だった?」


「いや」


修司は首を振った。


「言ってくれ。これからも、頼む」


「……そう」


真由美の口元が、わずかに緩んだ。


それは、以前のような笑顔にはまだ戻っていなかった。


だが、仮面の穏やかさではなかった。


そこにはちゃんと、迷いがあった。


ためらいがあった。ぎこちない感情の揺れがあった。


修司は、その不完全な揺れを、心地よく感じた。


11


それから数週間のあいだ、修司は何度もあの路地を通った。


今宵薬局は、二度と見つからなかった。


欠けた月の看板も、古い引き戸も、白い目の店主も。


けれどある雨の夜、路地の角で足を止めたとき、確かに、どこかから薬品じみた匂いが流れてきた。


振り返っても誰もいない。


ただ、水たまりに街灯が揺れているだけだ。


その水たまりの表面に、一瞬だけ、白い瓶のようなものが映った気がした。


修司が目を凝らしたときには、もうただの雨だった。


会社では、少しずつ雑音が戻り始めた。


山田はたまに書類の数字を打ち損じるようになった。


以前ほどではない。むしろ、普通の社会人がする程度のミスだ。


だが、そのたびに修司は深く息を吐き、「次は気をつけろ」で済ませるよう努めた。


すると山田は「すみません」と言い、ある日ふと、こう付け加えた。


「課長、最近なんか、前より顔が怖くないですね」


「失礼だな」


「前はもっとこう、冷凍庫みたいでした」


「何だそれ」


「いや、褒めてます」


山田はそこで、ほんの少し笑った。


完璧な笑顔ではなかった。


口角の片方だけが先に上がり、目尻の動きが遅れる、不器用な笑い方だった。


修司は、その歪みを見て、心の底からほっとした。


家では、真由美が味噌汁を少し煮詰めすぎた。


「今日ちょっと辛いわね」


「そうだな」


「ごめんなさい」


「いや、たまにはそういう日もある」


「たまには、ね」


真由美はふっと笑った。


その笑いに、修司は安心を覚えた。


たまにある失敗。 ちょっとした雑さ。


余計な一言。 行きすぎた心配。


そういうものが、人を人にしている。


白く漂白された世界は、綺麗だった。


だが、墓石の列みたいでもあった。


きちんと並び、汚れなく、静まり返っているだけの世界。


そこでは、誰も誰かを救えない。


救いとはたぶん、もっと不格好なものだ。


焦げた卵焼き。


ストローの刺さった缶コーヒー。


曲がったネクタイを直す指先。


間違ったタイミングの冗談。


そういう、きれいではないけれど体温のあるもの。


修司はある晩、洗面台を磨いていて、排水口の縁に薄い白い輪が残っているのを見つけた。


指でこすると消える。


だが、翌日になると、またごく薄く浮き上がっている。


完全には消えていないのかもしれない、と修司は思った。


あの薬のことも。 あの店のことも。


自分の中にある、他人を白く塗りつぶしたくなる衝動も。


まあ、それでもよいか、と思った。


消えないからこそ、気をつけて生きるしかない。


自分の狭さを知ったまま、不完全な他人と向き合うしかない。


それがたぶん、人間であるということなのだ。


12


今宵薬局。


店の奥で、「 」は水晶球を眺めていた。


球の中には、修司のしかめっ面が、でも前より


「整えられた世界は美しい。けれども、それはどこか寂しいし、そんな世界で人は生きる甲斐が感じられないものです」


「 」は微笑んだ。


「これで彼も相手を見て考えられるようになったでしょう」


「 」は水晶球を布で覆い、静かに店の明かりを消した。


また、誰かが困りごとを抱えて、この店を見つけるまで。


「 」は、静かに待ち続ける。


第14章 漂白のシロップ  -了-

14話は以上です。


次の15話でこの物語はいったん終わりといたします。

続編は書いておりますので、そちらは目処が立ち次第投稿を開始いたします。

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