第14話 漂白のシロップ 14-7
10
翌日、修司は会社で山田に声をかけた。
「山田」
「はい」
「昼、少し付き合え」
「用件は何でしょう」
「コーヒーだよ」
「業務中です」
「昼休みだ」
「……了解しました」
社内の自販機の前で、修司はブラックコーヒーを二本買った。
山田に一本渡す。
山田は受け取るが、すぐには飲まなかった。
「お前、前に温かい缶コーヒーにストロー刺して持ってきたこと、覚えてるか」
「記憶にありません」
「だろうな」
修司は苦笑した。うまく笑えているか、自分でもわからない。
「でも、あれ、俺は助かったんだ」
「……」
「お前のそういうところに、助けられてた」
「そうですか」
「だから」
修司は少し息を吸った。
「完璧な書類はありがたい。でも、たまにはくだらないことも言え」
「くだらないこと、ですか」
「そうだ」
「業務効率が低下します」
「少しくらい低下しろ」
山田の目が、ほんのかすかに揺れた。
それだけだった。
だが修司は、その揺れにしがみつくような思いがした。
家では、真由美に言った。
「今日の飯、うまい」
「ありがとうございます」
「でも、ちょっと味が整いすぎてる」
「……はい?」
「前みたいに、たまに失敗してくれた方がいい」
「それは、褒めてるんですか」
「褒めてない。いや、褒めてるのかもしれない」
真由美はしばらく修司を見ていた。
「変なことを言うのね」
「そうだな」
「前は、失敗すると露骨に嫌な顔をしたのに」
「……悪かった」
「本当にね」
その「本当にね」には、ごくわずかだが、昔の真由美の棘があった。
修司は、その小さな棘に、ひどく安堵した。
すぐに何かが戻るわけではなかった。
山田はまだ無表情なままだったし、真由美の動きもどこか硬かった。会社の空気は相変わらず白く、静かで、整っている。
だが、修司が意識して“余計なこと”を言うたびに、世界の表面に薄い傷が入る気がした。
「山田、それ、誤字だぞ」
「……失礼しました」
「久しぶりだな」
「申し訳ありません」
「いや、むしろ安心した」
山田が、ほんのわずかに眉をひそめた。
「課長は、厳しいのか優しいのか、最近よくわかりません」
「そうだな、俺もわからん」
それを聞いて、山田の口元が――本当に、ごくわずかだったが、引きつるように動いた。
笑いにはほど遠い。
だが、機械の動きではなかった。
その夜、帰宅すると、真由美が玄関で待っていた。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
「……ネクタイ、少し曲がってるわよ」
「おっ」
修司は思わず声を漏らした。
真由美は自分でも驚いたように、指先を見た。
気づけば修司の結び目に手を伸ばしていたのだろう。少し戸惑った顔で、その指を止める。
「ごめんなさい。余計だった?」
「いや」
修司は首を振った。
「言ってくれ。これからも、頼む」
「……そう」
真由美の口元が、わずかに緩んだ。
それは、以前のような笑顔にはまだ戻っていなかった。
だが、仮面の穏やかさではなかった。
そこにはちゃんと、迷いがあった。
ためらいがあった。ぎこちない感情の揺れがあった。
修司は、その不完全な揺れを、心地よく感じた。
11
それから数週間のあいだ、修司は何度もあの路地を通った。
今宵薬局は、二度と見つからなかった。
欠けた月の看板も、古い引き戸も、白い目の店主も。
けれどある雨の夜、路地の角で足を止めたとき、確かに、どこかから薬品じみた匂いが流れてきた。
振り返っても誰もいない。
ただ、水たまりに街灯が揺れているだけだ。
その水たまりの表面に、一瞬だけ、白い瓶のようなものが映った気がした。
修司が目を凝らしたときには、もうただの雨だった。
会社では、少しずつ雑音が戻り始めた。
山田はたまに書類の数字を打ち損じるようになった。
以前ほどではない。むしろ、普通の社会人がする程度のミスだ。
だが、そのたびに修司は深く息を吐き、「次は気をつけろ」で済ませるよう努めた。
すると山田は「すみません」と言い、ある日ふと、こう付け加えた。
「課長、最近なんか、前より顔が怖くないですね」
「失礼だな」
「前はもっとこう、冷凍庫みたいでした」
「何だそれ」
「いや、褒めてます」
山田はそこで、ほんの少し笑った。
完璧な笑顔ではなかった。
口角の片方だけが先に上がり、目尻の動きが遅れる、不器用な笑い方だった。
修司は、その歪みを見て、心の底からほっとした。
家では、真由美が味噌汁を少し煮詰めすぎた。
「今日ちょっと辛いわね」
「そうだな」
「ごめんなさい」
「いや、たまにはそういう日もある」
「たまには、ね」
真由美はふっと笑った。
その笑いに、修司は安心を覚えた。
たまにある失敗。 ちょっとした雑さ。
余計な一言。 行きすぎた心配。
そういうものが、人を人にしている。
白く漂白された世界は、綺麗だった。
だが、墓石の列みたいでもあった。
きちんと並び、汚れなく、静まり返っているだけの世界。
そこでは、誰も誰かを救えない。
救いとはたぶん、もっと不格好なものだ。
焦げた卵焼き。
ストローの刺さった缶コーヒー。
曲がったネクタイを直す指先。
間違ったタイミングの冗談。
そういう、きれいではないけれど体温のあるもの。
修司はある晩、洗面台を磨いていて、排水口の縁に薄い白い輪が残っているのを見つけた。
指でこすると消える。
だが、翌日になると、またごく薄く浮き上がっている。
完全には消えていないのかもしれない、と修司は思った。
あの薬のことも。 あの店のことも。
自分の中にある、他人を白く塗りつぶしたくなる衝動も。
まあ、それでもよいか、と思った。
消えないからこそ、気をつけて生きるしかない。
自分の狭さを知ったまま、不完全な他人と向き合うしかない。
それがたぶん、人間であるということなのだ。
12
今宵薬局。
店の奥で、「 」は水晶球を眺めていた。
球の中には、修司のしかめっ面が、でも前より
「整えられた世界は美しい。けれども、それはどこか寂しいし、そんな世界で人は生きる甲斐が感じられないものです」
「 」は微笑んだ。
「これで彼も相手を見て考えられるようになったでしょう」
「 」は水晶球を布で覆い、静かに店の明かりを消した。
また、誰かが困りごとを抱えて、この店を見つけるまで。
「 」は、静かに待ち続ける。
第14章 漂白のシロップ -了-
14話は以上です。
次の15話でこの物語はいったん終わりといたします。
続編は書いておりますので、そちらは目処が立ち次第投稿を開始いたします。




