第14話 漂白のシロップ 14-6
8
その夜、修司は真由美に向かって叫んだ。
「元に戻ってくれよ!」
夕食の最中だった。
真由美は箸を止め、ゆっくり顔を上げた。
テーブルには焼き魚、青菜のおひたし、味噌汁、白米。
完璧な配置。
完璧な色彩。
完璧な静けさ。
それが今や気持ち悪い、恐ろしささえ感じる。
「何を戻せばいいの」
「その喋り方も、その顔も、その……全部だよ」
「私は問題なく生活しています」
「問題しかないだろ!」
修司の声が、壁に跳ね返った。
真由美は少し目を瞬かせた。
以前の真由美なら、ここで怒るか、泣くか、困ったように笑うかしていた。
今はただ、静かに修司を見ている。
「あなたは、静かな方がよかったのでは?」
「違う」
「正確な方がよかったのでは?」
「違う!」
「おせっかいで口うるさいところが、不快だったのでは?」
修司は言葉を失った。
真由美の唇の端に、また白い粉が浮いていた。
今度は歯ではなく、口の内側から滲んでいるように見えた。
修司は鳥肌が立った。
「真由美……」
「はい」
「お前、苦しくないのか」
「苦しい、とは」
真由美は小さく首をかしげた。
ぎこちなく、しかし以前よりは少し自然だった。
「時々、胸の中が空っぽみたいです」
「……」
「でも、きれいです」
「きれい?」
「白くて、静かで、失敗がなくて」
「そんなの」
「あなたはそれが好きでしょう?」
その問いに、修司は答えられなかった。
好きだった。
たしかに、そうだった。
自分が望んだのだ。
それを否定する資格が、自分にあるのか。
「でも」
真由美は続けた。
「前の方が、あたたかかった気がします」
「……!」
修司は顔を上げた。
真由美の目が、ごくわずかに揺れていた。
その揺れは、白く塗り込められた壁に入った、細いひびのようだった。
修司は立ち上がり、洗面所へ走った。
瓶を掴み、残りを口に含む。喉に落とす。
冷たい。
脳の奥が痺れる。
鏡の前で、真由美を思い浮かべる。
元に戻れ。
元に戻れ。
元に戻れ。
何も起きない。
鏡の中で、自分の顔だけが歪んでいた。
修司は、絶望した。
9
その後の数日は、曖昧だった。
会社へ行き、無機質な部下たちに囲まれ、正確なやりとりをし、家へ帰って静かな食卓につく。
時間が流れているのに、何も進んでいないようだった。
唯一進んでいるのは、修司自身の内部だけだった。
ひび割れていくように、少しずつ。
ある朝、駅のホームで、修司は向かい側に立つ女子高生二人の会話を聞いた。
片方が寝坊して、片方が笑いながら責めている。
どうでもいい話だ。
以前ならうるさいと思っただろう。
今は、その雑さがひどく遠く、まぶしく見えた。
会社では、新人がコピー機の使い方を間違えた。
それを見て修司は思わず駆け寄り、「そこじゃない、こっちだ」と教えた。
新人は「すみません」と顔を赤くし、少し笑った。
その笑い方が、人間だった。
修司は、胸が痛くなった。
自分は何をしてしまったのだろう。
その日の夜、瓶を机に置いて、修司は長いこと眺めていた。
底に残る白は、ほんのわずかだ。最後の一滴にも満たないかもしれない。
ふと、自分の顔が浮かぶ。
他人を許せなかった自分。
誤字ひとつで怒鳴りたくなる自分。
優しさをおせっかいだと切り捨てた自分。
雑さの中にあるぬくもりを、理解しようとしなかった自分。
――これを漂白すればいいのではないか。
そうすれば、もう苦しまない。
周囲の白さに苦しむことも、自分の狭量さに苦しむこともない。
完璧な世界で、完璧な自分として生きられる。
修司は瓶を持ち上げた。
そのとき、ひとつの記憶が蘇った。
十年前の、ひどく疲れた夜。
大口案件を落とし、帰宅して食卓で黙り込んでいた自分に、真由美は何も気の利いたことを言えなかった。
ただ、焦げた卵焼きを出してきた。
しかも塩と砂糖を間違えていた。
甘じょっぱくてまずかった。修司は「何だこれ」と言った。真由美は「失敗した」と肩をすくめた。
それが妙に可笑しくて、修司は笑ってしまったのだった。
笑った拍子に涙が出た。
山田のことも思い出した。
深夜残業のとき、缶コーヒーと間違えてホット用の缶スープを買ってきたこと。
商談前にネクタイを裏返しにつけて出社したこと。
取引先の重役の前で緊張しすぎて自分の名刺を落とし、それを拾おうとして先方の名刺も弾き飛ばし、地獄みたいな空気になったあと、なぜか大型契約を取ってきたこと。
ミスも、抜けも、間違いも、全部、あの男の明るさとつながっていた。
欠点と長所は、別々ではなかった。
修司は、喉の奥にせり上がるものを感じた。
漂白すれば、綺麗になる。
だが、綺麗になるということは、ただ削ることだ。
削った先に残るのは、整った殻かもしれない。 中身が空っぽの。
修司は、ゆっくりと立ち上がった。
洗面所へ行く。鏡の前に立つ。
自分の顔は疲れ切っていた。だがまだ、生きている顔だった。
皺もある。
目の下のたるみもある。
怒りも後悔も浮かんでいる。
完璧ではない。
だから、まだ間に合うかもしれない。
修司は瓶の口を下へ向けた。
白い液体が、細く、排水口へ流れた。
作品・続きにご興味をお持ちいただけたのでしたら下の★をクリックしていただけると嬉しいです。




