第14話 漂白のシロップ 14-5
6
その夜、修司は夢を見た。
会社の会議室にいる。長机の両側に部下たちが座っている。全員、書類に目を落としている。静かだ。修司が咳払いをしても、誰も顔を上げない。
よく見ると、書類は真っ白だった。
文字がない。
全員が、真っ白な紙を、真剣な顔で読んでいる。
「おい」
修司が呼びかけると、山田が顔を上げた。
顔が、なかった。
いや、目も鼻も口もある。あるのに、それぞれの境界が曖昧で、全部が白く塗り潰されていた。紙粘土で急いで人の顔を作り、そこに浅く窪みだけつけたみたいな顔。
「課長」
山田の口が動く。
唇はあるのに、色がない。
「ご確認ください」
「何を」
「完璧なものを」
山田が差し出してきた紙は、やはり真っ白だった。
修司が受け取ると、紙は濡れていた。水ではない。
ぬるく、粘つく白い液体が、指の間にぬるりと広がる。
修司は紙を落とした。
床に落ちた瞬間、紙は音もなく割れた。
中は空洞だった。
白い殻だけだった。
はっとして目が覚める。
寝室は真っ暗だった。
喉が渇いていた。
隣の真由美は、仰向けに寝ている。ぴたりと両手を布団の上に揃えていた。
寝ている、というより、保管されているような姿だった。
修司は静かに起き上がり、水を飲みにキッチンへ行った。
リビングの壁掛け時計が、深夜二時三分を指している。
秒針の音が大きい。
冷蔵庫を開けると、内部の明かりが白くまぶしかった。
水のボトルを掴もうとして、修司は硬直した。
奥の棚に、小さな硝子瓶が三本並んでいた。
どれも、漂白のシロップの瓶にそっくりだった。
中身は空だが、瓶の底に、わずかに白い膜が残っている。
修司はそれを取り出した。自分の瓶ではない。ラベルも何もない。
誰がこんなものを。
真由美か。いや、そんなはずはない。真由美はこの瓶のことを知らない。知らないはずだ。
そのとき、背後で声がした。
「それ、何ですか」
振り返る。
真由美が、キッチンの入口に立っていた。
寝巻きのまま、まっすぐ修司を見ている。
目だけがやけに開いていた。
まるで人形の目だった。
「……お前、起きてたのか」
「今、起きました」
「この瓶、お前のか」
「知りません」
「本当に?」
「はい」
真由美は一歩、こちらへ近づいた。
「でも、それ、白いですね」
白いですね。
そう言った真由美の唇の端に、ほんの少しだけ白いものがついていた。
歯磨き粉の泡のようにも見えた。
だが、違う。もっと乾いていて、粉に近い。
修司は無言でティッシュを差し出した。
真由美は受け取らない。
「あなた」
「何だ」
「最近、少しずつ、静かになっていく感じがするんです」
「……」
「悪いことじゃないですよね」
「何が言いたい」
「わかりません」
真由美は首をかしげた。
その仕草だけが、かろうじて昔の真由美に似ていた。
だが次の瞬間、その首の角度が不自然に止まった。
人形みたいに。
まるで、かしげた途中で誰かに固定されたみたいに。
「でも」
真由美は言った。
「あなたの顔、最近、少しだけ怖いです」
修司は、瓶を握りしめた。
その夜は、朝まで眠れなかった。
7
週明け、会社で事件が起きた。
若手社員の一人が、取引先からの電話を受けながら倒れたのだ。
意識はある。
救急車が呼ばれた。大きな病気ではないらしい。過呼吸に近い状態だった。
騒ぎの中、修司は奇妙なことに気づいた。
山田が、倒れた社員を見下ろしながら、微動だにしていない。
普通、少しは狼狽するだろう。
名前を呼ぶとか、水を持ってくるとか、何かあるはずだ。
山田は、ただ見ていた。
正確に観察しているだけの目で。
「山田! ぼさっとしてないで救急隊を案内しろ」
「了解しました」
声は整っている。
歩幅も一定だ。まったく無駄がない。
その後、救急車が去り、部署は業務を再開した。
何事もなかったように。
倒れた社員の机だけが、ぽっかり空いていた。
修司は耐えきれず、山田を会議室へ呼んだ。
「最近、お前どうした」
「どう、とは」
「笑わなくなった」
「業務中に私語は不要です」
「そういうことじゃない」
「では、何でしょう」
修司は机を叩きそうになる手を押さえた。
「お前、前はもっと……」
「前?」 「もっと人間らしかった」
言ってしまってから、何を言っているんだと思った。
だが山田は怒らなかった。
悲しみもしなかった。
ただ、しばらく考えるように沈黙して、それから言った。
「課長がそう望んだのではありませんか」
「……何」
「僕の欠点が目障りだった」
「何を言ってる」
「だから、なくなった」
修司の背中に、冷たい汗が流れた。
「山田、お前――」
「課長」
山田は、ゆっくり笑った。
いや、笑ったように見えた。
口角が上がったのだ。
だが、それは人が安心したり、おかしくて笑うときの動きではなかった。
ただ、笑顔という形に口元が変形しただけだった。
「完璧でしょう?」
その無表情な笑みを見た修司は、会議室を飛び出した。
トイレに駆け込み、吐いた。
胃の中はほとんど空で、酸っぱい液だけが出た。
鏡の中の自分は蒼白だった。
目の下に隈ができている。
頬がこけた気がする。
ポケットから瓶を出す。
まだ、あとわずか残っていた。
これで戻せるかもしれない。
そう思い、ふと、あの店主の声が耳に蘇る。
薬は、前にしか働きません。
修司は、鏡の前で凍りついた。
もしかしたら、最初から、戻すことなどできないのではないか。
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