第14話 漂白のシロップ 14-4
本日、102PVとなっており、ちょっとびっくりしています。
このところ低迷して20PV程度なので、反動が来ないかと身構えています。
4
変化は、劇的だった。
会社では、会議が短くなった。誰も的外れな発言をしない。余談もない。提出物はすべて期日より早く、誤りなく揃う。電話の保留は短く、メールは簡潔で、エラーは起きない。
山田は最も顕著だった。
以前は席を立つたびに誰かに声をかけ、コピー機の前でどうでもいい話をしていたのに、今はまっすぐ歩き、最短距離で戻ってくる。笑わない。焦らない。謝らない。謝る必要がないからだ。
「課長、先方からの追加要望です」
「対応案は」
「三案作成済みです。ご確認ください」
三案すべてが非の打ち所なく整っている。
修司は最初、胸のすく思いだった。部下が優秀なのは良いことだ。効率が上がるのは良いことだ。何も間違っていない。
だが一週間もすると、部署の空気が奇妙に重くなってきた。
静かすぎるのだ。
雑談がない。誰も笑わない。
昼休み、いつもコンビニの新商品を勝手に買ってきて「課長、これ見た目終わってますけど美味いです」と笑っていた山田が、黙って栄養補助食品を食べている。
それだけならまだいい。
ある日の夕方、若手の女性社員がコピー機の前で紙をばらまいてしまった。
以前なら山田がすっ飛んでいって「うわー芸術点高いですね!」と拾い、周りが少し笑っただろう。
今の山田は、足を止めずに言った。
「床が散乱しています。事故の原因になります」
「……あ、うん」
「拾った方がいいです」
それだけ言って通り過ぎた。
女性社員は赤い顔で紙を拾った。
周囲の空気が凍った。
修司は何も言えなかった。
正しい。
山田の言っていることは、正しい。
だが、正しいだけだった。
家庭もそうだった。
真由美は完璧な家事をこなした。
洗濯物は寸分の狂いなく畳まれ、食器棚は色の薄いものから順に並び、風呂は毎日ちょうどよい温度だった。
しかし、家の匂いが変わった。
以前の真由美は、料理をしながら歌とも鼻歌ともつかないものを口ずさんでいた。
少し音程がずれていて、歌詞も時々違っていて、それを修司はうるさいと思っていた。
今は何も聞こえない。
以前の真由美は、煮物の味見をしすぎて「ちょっと薄かったかも」と言い、結局少し濃くなりすぎたりしていた。
今は毎回、驚くほど正確な味だ。
以前の真由美は、花屋の前でつい余計な鉢植えを買ってきてしまい、玄関に統一感のない緑が増えていた。
今は何も増えない。
枯れかけた鉢だけが、白い陶器の中で静かに土を見せている。
家の中が、病院みたいになっていた。
綺麗で、無臭で、正しくて、冷たい。
修司は夕食を食べながら、箸先でだし巻き卵を切り分けた。
断面は見事だった。
きめ細かく、均一で、柔らかい。
「……うまいよ」 「ありがとうございます」
真由美は言った。
顔は穏やかだった。けれど、その“穏やかさ”は、以前のものと違っていた。
人の表情が穏やかに見えるのは、普通、まぶたの動きや口元のゆるみ、呼吸の具合に微細な揺れがあるからだ。
今の真由美の穏やかさには、その揺れがなかった。
仮面が穏やかな形に整えられている、そんな感じだった。
「真由美」 「はい」
「……今日は何してた」
「掃除、洗濯、買い出し、食事の準備です」
「それだけか」
「必要なことは済ませました」
必要なこと。
その言葉が、妙に耳に残った。
修司は、ふとぞっとした。
不要なことは、何もしていないのだ、彼女は。
5
異変は、音のないところから広がっていった。
最初に気づいたのは、家の時計だった。
リビングの壁掛け時計は、以前から少し遅れがちで、真由美が月に一度くらい時間を合わせていた。
修司はその曖昧さが嫌いだった。時計は正確であるべきだと思っていた。
ある夜、その時計が一秒の狂いもなく動いていることに気づいた。
秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
カチ、カチ、カチ、カチ。
まるで誰かが爪で壁の内側を叩いているみたいだった。
次に、冷蔵庫の中身の並び方が変わった。
牛乳も卵も野菜も、同じ高さ、同じ向きで揃っている。
ラベルの文字がすべて正面を向いている。
真由美は前から整理整頓が好きだったが、ここまでではなかった。
ある晩、修司は冷蔵庫の中の卵のパックを見て、息が止まりそうになった。
十個すべてが、まるで定規で測ったように同じ角度で並んでいる。
しかも、一つ一つの殻に、うっすらと白い粉が浮いていた。小麦粉ではない。
霜でもない。白く、きめの細かい、チョークの粉みたいなもの。
指で触れると、粉はするりと消えた。
そのとき背後から真由美が言った。
「何か気になりますか」
「……いや」
「問題があるなら修正します」
修正。
その言葉が怖かった。
修司は冷蔵庫を閉め、「何でもない」と答えた。
会社でも、恐ろしいことが起き始めていた。
一人の社員が、風邪で休んだ。
以前なら部署の誰かが「大丈夫かな」「こないだ薄着でしたもんね」と言い合っただろう。
今は誰も何も言わない。
ただ、その社員の担当業務が無言で再分配され、完璧に処理されていった。
感情の発生が、業務の妨げとして切り捨てられているみたいだった。
山田は、日に日に白くなっていった。
それは比喩ではない、と修司はある日思った。
蛍光灯の下で見る山田の顔色は、以前より明らかに白い。
青白いのではない。血の気が引いた白さでもない。
紙を濡らしたときみたいな、均一で、ぬめりを感じる白さだ。
笑わない口元も、まばたきの少ない目も、その白さを強調していた。
「山田、お前、ちゃんと寝てるか」
「必要な睡眠時間は確保しています」
「顔色悪いぞ」
「業務に支障はありません」
修司は言葉を失った。
山田の目の奥に、何もなかった。
以前は、抜けた明るさや、焦りや、気まずさや、へらへらした愛嬌が、あの目のどこかに揺れていた。
今はただ、光を返すだけの表面がある。深みがない。底にたまるものがない。
白い。
修司は、ポケットの中の瓶を思い出した。
まだ少し残っている。
その日、仕事帰り、修司は無意識にあの路地へ足を向けていた。
だが、いくら歩いても、今宵薬局は見つからなかった。
古びたあの看板も、引き戸もなかった。
代わりに、シャッターの降りたクリーニング店があるだけだった。
以前からあったような、ありふれた店だ。
修司は立ち尽くした。おかしい。
ここだったはずだ。
猫が横切り、薄暗く、湿った夜で、確かにここに。
通りすがりの男が修司を見て、少し足早に離れていった。
修司はその場を離れた。
家に帰るのが、ひどく嫌だった。
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