第14話 漂白のシロップ 14-3
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翌朝、修司は洗面所で瓶を取り出した。
朝の光の中で見ると、夜よりいっそう白かった。蓋を開けても匂いはない。指先につけると、水のように軽く、しかし粘り気がある。ほんの一滴を舌に落とした。
味がない。
だが、喉の奥を通るとき、ぞわりと鳥肌が立った。冷たいものが、食道ではなく脳の奥へ直接流れ込むような感覚だった。修司は鏡の縁を掴んだ。
そして、山田の顔を思い浮かべた。
へらへら笑う顔。 誤字のある書類。 「すみません、課長」と明るすぎる声。 あの、全部まとめて苛立たしい感じ。
――ミスが多くて、詰めが甘いところ。
強く念じる。
何も起こらなかった。
修司は会社へ向かった。馬鹿らしい、と半分思いながらも、気持ちは落ち着かなかった。山田の顔を見るまで、落ち着かない。
午前九時すぎ、山田が資料を持ってきた。
「課長、昨日の修正版です」
修司は受け取り、目を落とした。
完璧だった。
誤字脱字はない。数字のズレもない。注釈も整っている。表紙の日付も、頁番号も、ホチキスの位置まで正確だった。今までの山田なら見落としていたような細部まで、寸分違わず整っている。
「……誰が確認した」 「僕です」 「本当にお前が作ったのか」 「はい」
山田の声は静かだった。
そこで修司は初めて気づいた。山田の喋り方が違う。語尾が跳ねない。笑わない。余計な一言がない。まるで録音した音声を再生しているように、音程が一定だった。
「昨日の会議資料も、改訂版を関係各所に回しました。次回から同様のミスは起こしません」 「……ああ」
修司は資料を閉じた。
薄く寒気がした。だが、それ以上に、胸の内には恍惚に近い解放感が湧いていた。
できるじゃないか。
やればできるのだ。
やろうとしなかっただけだ。
その日、山田は一度もミスをしなかった。電話の取り次ぎも完璧。メールの文面も完璧。議事録も完璧。雑談も一切しなかった。
部署全体が、妙に静かだった。誰もその変化を口にしなかったが、山田が喋るたびに、近くの席の者がかすかに視線を上げる。何かおかしい、と全員が感じているのだろう。だが「仕事が完璧になった」という事実の前で、その違和感は口にしづらいらしかった。
修司だけが、それを“成果”として受け止めた。
夜、帰宅して、修司はまたシロップを飲んだ。
今度は真由美を思い浮かべる。
朝のネクタイ。 「ちゃんと食べた?」 「ハンカチ持った?」 「肩に糸くずついてるわよ」 その一つ一つ。
――おせっかいで、口うるさいところ。
翌朝、真由美は何も言わなかった。
ネクタイが少し曲がっていても。 コーヒーに砂糖を入れ忘れていても。 修司がスマホを忘れそうになっても。
ただ、きっちり整えられた朝食が並んでいた。焼き鮭は完全な焼き色をしていた。味噌汁は具の量が均一だった。真由美は座らずに立ったまま言った。
「朝食です」 「……ああ」 「八時十二分に出れば、いつもの電車に間に合います」 「真由美」 「はい」 「何か、体調悪いのか」 「特に問題ありません」
その声は穏やかだった。だが、よく聞くと、どこか空洞だった。声帯の奥の湿り気が消えているような、乾いた響き。
修司は箸を持ちながら、胸の奥がざわつくのを感じた。
けれどそのざわつきは、やがて別の感情に塗りつぶされた。快感だ。干渉されない快適さ。整った朝の静けさ。
正確な人間と暮らすのは、こんなにも楽なのか。
それから数日、修司はシロップを使い続けた。
声の大きい後輩の騒がしさを。 会議で論点を逸らす営業の軽率さを。 催促ばかりする取引先の神経質さを。 母の電話ににじむ過干渉を。
一滴飲み、念じる。
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