表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
今宵薬局  作者: 蟷螂
75/84

第14話 漂白のシロップ 14-3

3


翌朝、修司は洗面所で瓶を取り出した。


朝の光の中で見ると、夜よりいっそう白かった。蓋を開けても匂いはない。指先につけると、水のように軽く、しかし粘り気がある。ほんの一滴を舌に落とした。


味がない。


だが、喉の奥を通るとき、ぞわりと鳥肌が立った。冷たいものが、食道ではなく脳の奥へ直接流れ込むような感覚だった。修司は鏡の縁を掴んだ。


そして、山田の顔を思い浮かべた。


へらへら笑う顔。 誤字のある書類。 「すみません、課長」と明るすぎる声。 あの、全部まとめて苛立たしい感じ。


――ミスが多くて、詰めが甘いところ。


強く念じる。


何も起こらなかった。


修司は会社へ向かった。馬鹿らしい、と半分思いながらも、気持ちは落ち着かなかった。山田の顔を見るまで、落ち着かない。


午前九時すぎ、山田が資料を持ってきた。


「課長、昨日の修正版です」


修司は受け取り、目を落とした。


完璧だった。


誤字脱字はない。数字のズレもない。注釈も整っている。表紙の日付も、頁番号も、ホチキスの位置まで正確だった。今までの山田なら見落としていたような細部まで、寸分違わず整っている。


「……誰が確認した」 「僕です」 「本当にお前が作ったのか」 「はい」


山田の声は静かだった。


そこで修司は初めて気づいた。山田の喋り方が違う。語尾が跳ねない。笑わない。余計な一言がない。まるで録音した音声を再生しているように、音程が一定だった。


「昨日の会議資料も、改訂版を関係各所に回しました。次回から同様のミスは起こしません」 「……ああ」


修司は資料を閉じた。


薄く寒気がした。だが、それ以上に、胸の内には恍惚に近い解放感が湧いていた。


できるじゃないか。


やればできるのだ。


やろうとしなかっただけだ。


その日、山田は一度もミスをしなかった。電話の取り次ぎも完璧。メールの文面も完璧。議事録も完璧。雑談も一切しなかった。


部署全体が、妙に静かだった。誰もその変化を口にしなかったが、山田が喋るたびに、近くの席の者がかすかに視線を上げる。何かおかしい、と全員が感じているのだろう。だが「仕事が完璧になった」という事実の前で、その違和感は口にしづらいらしかった。


修司だけが、それを“成果”として受け止めた。


夜、帰宅して、修司はまたシロップを飲んだ。


今度は真由美を思い浮かべる。


朝のネクタイ。 「ちゃんと食べた?」 「ハンカチ持った?」 「肩に糸くずついてるわよ」 その一つ一つ。


――おせっかいで、口うるさいところ。


翌朝、真由美は何も言わなかった。


ネクタイが少し曲がっていても。 コーヒーに砂糖を入れ忘れていても。 修司がスマホを忘れそうになっても。


ただ、きっちり整えられた朝食が並んでいた。焼き鮭は完全な焼き色をしていた。味噌汁は具の量が均一だった。真由美は座らずに立ったまま言った。


「朝食です」 「……ああ」 「八時十二分に出れば、いつもの電車に間に合います」 「真由美」 「はい」 「何か、体調悪いのか」 「特に問題ありません」


その声は穏やかだった。だが、よく聞くと、どこか空洞だった。声帯の奥の湿り気が消えているような、乾いた響き。


修司は箸を持ちながら、胸の奥がざわつくのを感じた。


けれどそのざわつきは、やがて別の感情に塗りつぶされた。快感だ。干渉されない快適さ。整った朝の静けさ。


正確な人間と暮らすのは、こんなにも楽なのか。


それから数日、修司はシロップを使い続けた。


声の大きい後輩の騒がしさを。 会議で論点を逸らす営業の軽率さを。 催促ばかりする取引先の神経質さを。 母の電話ににじむ過干渉を。


一滴飲み、念じる。


作品・続きにご興味をお持ちいただけたのでしたら下の★をクリックしていただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ