第14話 整いのシロップ 14-2
GW中旅に出ており、投稿が遅れました。
2
午後には別の部下が提出期限を1時間勘違いしていた。
別の部署の課長は口約束ばかりでメールを残さない。
若手社員は声が大きい。
受付の花瓶は少し斜めだ。
会議室の椅子が一脚だけ揃っていない。
廊下の消火器カバーに埃がついている。
そんなことまで気づく自分にも、修司は苛立っていた。
なぜ自分だけが気になる。
なぜ周囲は平気でいられる。
なぜ、みんなこんなに不完全なんだ。
3
夜、会社を出たときには、頭の内側からイライラが止まらない。
まっすぐ帰る気になれず、修司は駅とは反対の細い路地へ足を向けた。
湿った風が流れていた。昼の熱気が下がりきらず、アスファルトの表面が生ぬるい匂いを放っている。
通り慣れない道だった。
どうも商店街の通りだったらしい。
だったらしい、というのはここがかつて商店街だった、という過去形だからだ。
外灯以外何もない薄暗い通りだった。
いや、一軒だけ、明かりが灯っている店があった。
それは薬局だった。
「今宵薬局」
どこにでもあるだろう薬局の佇まい。ガラス戸の向こうには、柔らかな光が漏れている。
こんな場所に、こんな店が、以前からあっただろうか。
修司は記憶を探った。
思い出せない。
それがどうも気持ち悪い。
思い出せないのだが、最初からここにあったような気もする。
そういえば、このイライラを緩和する漢方薬のようなものでも売っているだろうか。
修司は薬局の戸を開けた。
ガラス戸を開けると、カラン、カラン、と鈴が鳴った。
店内は思ったより広かった。
修司は店内を見回した。棚には、見たこともない薬が並んでいる。「根拠なきプロテイン」「嘘を見抜く目薬」「注目のトローチ」「終わりなき睡眠剤」。どうも一般的な薬局とは扱っているものが違うようである。
「いらっしゃいませ」
穏やかな声。店の奥から、一人の人物が現れた。
年ごろは20代後半だろうか、中性的な顔立ち。眼鏡をかけ、黒髪を後ろで結び白衣を着ている。
「お客さま、今日はどのようなものをお求めでしょうか」
「あ、ああ……、このところイライラが止まらなくてね。精神的に疲れているようだ。良い漢方薬などないだろうか」
店主は修司の顔を少し眺めたのち、こう言った。
「他人が雑なのが、許せないのでしょう」
修司は、困惑の顔が隠せないでいた。
店主は続けて話す。
「あなたは毎日他人が“なぜちゃんとできないんだ”と思っている。部下。妻。同僚。たぶん、通りすがりの他人にも」
「どうして、それを……」
「四十代となると部下を複数指示する立場、それでイライラが止まらない、と眉間を寄せて話されるのですから、大体は予想できるのです」
分かるのか、この苛立ちが。
「ああ、そうなんだ」
修司は気づけば、素直に答えていた。
「みんな、どうして平気なのか分からない。誤字脱字。約束の曖昧さ。余計な口出し。その度指摘して修正するよう伝えるが、一向に治らない」
店主は小さく頷いた。
「私は完璧であれとか言うつもりはないんだ、ただ最低限の筋を通せってだけなんだ」
店主は小さく頷いた。
「なるほど。それだと漢方薬による自律神経の整えより、こっちがよろしいかと」
店主は棚の奥から、小さな瓶を取り出す。掌に乗るほどのサイズの、細長い硝子瓶だった。中には、白い液体が半分ほど入っている。
不自然な白だった。白すぎる、と修司は思った。光を反射して白いのではない。液体そのものが、光を吸ってなお白かった。
「整いのシロップです」
「整い?」
「人の中にある“濁り”を整える薬です」
店主の長い指が瓶を撫でた。撫でられた白が、内側からかすかに脈打つように見えた。
「たとえば、部下の不注意。妻のおせっかい。人の癖、綻び、むら――そういった、あなたを苛立たせる部分を整えることができる」 「消せる、ということですか」 「白く整えられます」
店主は、修司の目を見て、ゆっくり続けた。
「濁りが整うと、人はきれいになります」
「……副作用は」
「それは、使った方の感じ方次第でしょう」
曖昧な答えだった。
「どうやって使うのかね」
「ひと口飲み、相手の消したい部分を強く念じるだけです。欠点、欠陥、不快の源――あなたが“それさえなければ”と思うものを」
修司は瓶を見つめた。心のどこかで、冗談だ、詐欺だ、帰れ、という声がしていた。しかしもう一つ別の声があった。もし本当なら、という声だ。
もし本当に山田のミスが消えるなら。 もし真由美が余計なことを言わなくなるなら。 もし世界が、少しだけ正確になるなら。
「……いくらかね」
「お代は結構です」
「いや、そういう訳にはいかないだろう」
「これは試供品ですよ。効果がなかったとしてもこちらも言い訳が立つというものです」
「いい加減ではないかね」
「そうですね。だから試供品なんです」
煙に巻いたような店主の言動に思うところはあったが、修司はその瓶をもらうことにした。
「飲みすぎにはご注意を」
「どれくらいが適量なのか」
「人の白さに、限度はありません」
店主は微笑んだ。
その笑みを見た瞬間だけ、修司は帰るべきだったと思った。口元は笑っているが、どうも別の意図を感じる目つきであった。
しかし、次に瞬きをしたときには、もう普通の目だった。
修司は瓶をポケットに入れ、店を出た。
外の空気はぬるかった。だが、店の中よりは、いくらか生き物じみていた。
欠けた月の看板が、風もないのにかすかに揺れていた。
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