第13話 華麗なる女優 13-6
7
撮影は三日間だけだった。
けれど紗英にとって、その三日間はこれまでの数年分にも思える濃さだった。
現場は厳しかった。待ち時間は長く、準備は細かく、ひとつの台詞を撮るのに何度も角度やテンポを変えた。主演の役者たちは集中力が高く、スタッフの動きも無駄がない。ぼんやりしていれば、すぐに置いていかれる世界だ。
紗英は必死についていった。
台本に付箋を貼り、導線を確認し、空き時間に監督の指示をメモした。共演者の芝居をよく見て、どこで息を吸い、どこで間を置いているかを盗んだ。以前なら緊張で固まっていた場面でも、今は「見られること」を怖いだけのものとは思わなくなっていた。
トローチは使わなかった。
不安がまったくなかったわけではない。現場に向かう朝、ポーチの中の銀の缶が気になったことは何度もある。だが、取り出さなかった。
一日目の撮影を終えた帰り道、鏡に映った自分の顔を見て、紗英は少し驚いた。
疲れているのに、目が明るい。
誰かの視線を集めていた日のような、不自然な高揚ではない。もっと地に足のついた、生身の充実感だった。
二日目の昼、助監督が紗英に声をかけた。
「小鳥遊さん、さっきのカット良かったです。監督が“あの人、ちゃんと画面に残るね”って言ってました」
紗英は思わず聞き返した。
「……画面に、残る?」
「はい。なんか、派手じゃないけど目がいくって」
その言葉は、紗英が長いこと求めていたものの、ほとんどそのままだった。
彼女は礼を言ってその場を離れ、誰もいない廊下で小さく拳を握った。
派手じゃないけど、目がいく。
それでいい。
いや、それがいいのかもしれない。
撮影最終日、最後のカットを終えたあと、監督は紗英の前に立って言った。
「またどこかで会えそうですね」
それは社交辞令かもしれない。現場ではよくある言葉だ。
けれど紗英は、それを以前のように「どうせ本気じゃない」と受け取らなかった。
会えるように、なる。
次も呼ばれるように、積み上げる。
そう思えた。
8
それからの一年で、紗英の生活は少しずつ変わった。
爆発的に売れたわけではない。
一夜にしてスターになったわけでもない。
だが、確実に階段を上り始めていた。
端役だった役が、名前のある脇役になった。
舞台でも、群衆の一人ではなく、空気を動かす役を任されるようになった。
オーディションでは、審査員の視線を受け止めても萎縮しなくなった。
カフェのアルバイトはシフトを減らし、やがて辞めることができた。
何より、芝居の現場で「小鳥遊さん」と名前で呼ばれることが増えた。
それはささやかな変化だが、紗英にとっては奇跡に近かった。
もちろん、落ちる仕事もある。演技が浅いと言われる日もある。自分より圧倒的に華やかな役者と並んで、また小さくなりそうになる瞬間もある。
けれど以前の紗英は、そのたびに「やっぱり私なんて」と消え入りそうになっていた。今は違う。足りないなら鍛える。届かないなら届く方法を探す。そう思えるようになっていた。
ある雑誌のインタビューで、「あなたの強みは何だと思いますか」と聞かれたとき、紗英は少し考えてからこう答えた。
「静かな場面でも、目が離せなくなる芝居をしたいです。強い光ではなくても、あとから思い出してもらえるような」
そう言った自分の声が、以前よりずっと自然で、まっすぐだった。
家に帰った夜、紗英は机の引き出しを開けた。
奥に、青い小箱がある。
最後に触れたのは、半年以上前だった。そっと取り出して蓋を開ける。中には三粒のトローチが、変わらず静かに並んでいた。
紗英はそれを見つめて、少しだけ笑った。
「ありがとう」
誰に向けたのか、自分でもよく分からなかった。
だが、その感謝はたしかにあった。
この薬がなければ、自分は一度も「見られる」感覚を知らないままだったかもしれない。
けれど、この薬だけでは、ここへは来られなかった。
小箱を閉じ、引き出しにしまう。
もう二度と使わないかもしれない。
それでも、捨てる気にはなれなかった。
それは弱さの証ではなく、自分が闇の中から最初の一歩を踏み出した夜の記念品のように思えたからだ。
エピローグ
今宵薬局の夜は、いつものように静かだった。
店の外では街路樹が風に揺れ、時折、遠くの車の音が通り過ぎていく。店内では、棚の薬瓶が微かな灯りを受けて鈍く光っていた。
「 」は水晶球を覗いていた。
球の内側には、舞台の上に立つ紗英の姿が映っている。大劇場ではない。小ぶりなホールだ。だが客席は満ち、息を潜めた観客たちの視線が舞台へ注がれている。
紗英は中央に立っていた。
派手な衣装ではない。豪奢な演出でもない。
それでも、確かに人の目を引いている。
大きく押し出すのではなく、静かな熱で場を支えている。台詞のない数秒の沈黙でさえ、観客は彼女から目を逸らさない。
「 」は、ほんのわずかに目を細めた。
「借りたスポットライトも、使い方を誤らなければ、己の灯を知る鏡になりますか」
水晶球の光がゆらめく。
紗英の芝居が終わり、客席から拍手が起きる。大きな歓声ではない。けれど、深く、長く、確かな拍手だった。
あの夜、「せめて私がここにいるって分かってほしい」と言った娘が、今はその場所に立っている。
見つけてもらうだけではなく、見たいと思ってもらえる場所に。
「 」は水晶球から目を離し、棚の一角へ視線を向けた。
そこには、まだ多くの薬が静かに並んでいる。
誰かの弱さを少しだけ押し出し、誰かの願いを一時だけ叶え、そしてその先をその人自身に委ねる薬たち。
店の扉の鈴が、ちりんと鳴った。
新しい客が来たのだろう。
「 」はいつもの微笑みを浮かべ、顔を上げた。
「いらっしゃいませ。今夜は、どのようなお悩みで?」
夜はまだ長い。
今宵薬局の灯りも、まだ消えない。
第14話 華麗なる女優 −了−
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