第13話 華麗なる女優 13-4
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転機が訪れたのは、春先のことだった。
ある映画監督が、新作の脇役オーディションを行うという情報が、劇団経由で回ってきた。小さな役ではあるが、台詞があり、印象次第では次につながる可能性が高い。しかも、その役柄は「目立つタイプではないが、場の空気を変える静かな存在感を持った女性」と書かれていた。
紗英はその役の説明を読んだ瞬間、自分のことかと思った。
だが同時に、怖くなった。
「静かな存在感」――それこそ、ずっと欲しかったものだ。
けれど、そのためにまたトローチを使うのか。
もし使って受かったら。
それは私が受かったことになるのだろうか。
前日の夜、紗英は銀の缶を机の上に置いて、長いこと見つめていた。
ひと粒使えば、きっと有利になる。
それはもう、何度も実感している。
でも、ここを越えられなかったら、これから先もずっと、自分は大事な場面で薬に頼るのではないか。
その夜、紗英は夢を見た。
舞台の中央に立っている。強い照明が当たっている。客席は真っ暗で見えない。けれど、無数の目がこちらを見ているのだけは分かる。熱く、眩しく、甘い視線。
それなのに、台詞を言おうとすると声が出ない。
喉に何かが詰まっている。
喉元に、飴色のトローチが溶けずに残っているのだ。
飲み込めない。吐き出せない。
照明だけが熱く、自分の中身は空っぽだった。
目が覚めたとき、胸がひどく苦しかった。
朝、オーディション会場へ向かう電車の中で、紗英は何度もポケットの箱を指でなぞった。会場に着いてからも、待合室の椅子に座っている間、膝の上の手は落ち着かなかった。
前の順番の子が呼ばれる。
その次が自分だ。
紗英はトイレへ立った。個室に入り、青い箱を開ける。
とローチが、ひとつ、掌に転がった。
使えばいい。簡単なことだ。
今日のために取っておいたのだから。
けれど、紗英はその粒をしばらく見つめたあと、そっと缶に戻した。
「……今日は、私で行く」
小さく呟いて蓋を閉める。
足は少し震えていた。喉も乾いていた。
それでも、戻るしかなかった。
呼ばれて部屋に入る。
審査員は4人。机の上に書類。カメラ。無機質な白い壁。いつもの風景だ。いつもなら、その光景を見ただけで自分の輪郭が薄くなっていくのを感じた。
だが今日は違った。
怖い。
怖いけれど、ここまで練習してきた。
何度も失敗して、何度も悔しくて、それでも来た。
その積み重ねだけは、本物だ。
紗英は一礼し、自分の名前をはっきりと言った。
声は少し震えた。けれど、ちゃんと届いた。
芝居が始まる。
相手に向かって台詞を言う。沈黙を恐れずに待つ。目線を逃がさず、感情を押しつけすぎず、でも隠さない。これまで何度も「薄い」と言われてきた自分が、薄さを消そうとして過剰になるのではなく、その静けさの中に熱を置くように意識した。
終わったあと、部屋は少し静かだった。
失敗したのかもしれない、と一瞬思う。
だが、その後で中央の女性審査員が口を開いた。
「小鳥遊さん、面白いですね」
紗英は顔を上げた。
「派手ではないんだけど、視線が残る。立ち上がりの呼吸も良かったです」
別の審査員が資料に何かを書き込む。
監督らしき男が、「もう一パターン見たい」と言った。
それは、紗英にとって初めてのことだった。
オーディションで、追加演技を求められる。
ちゃんと見てもらえている証拠だった。
部屋を出たあと、紗英は廊下の壁にもたれて、しばらく動けなかった。
薬は使わなかった。
それでも、見てもらえた。
胸の奥の、長いこと凍っていた場所に、じんわりと温かいものが広がっていく。
泣きたいわけではないのに、目の奥が熱くなった。
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