第13話 華麗なる女優 13-3
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3
最初にトローチを使ったのは、三日後のワークショップだった。
映像演技に強い監督がゲスト講師として来るということで、参加者たちは皆、いつも以上に気合が入っていた。人気監督の目に留まれば、ちょっとした端役や宣材の仕事につながることもある。小さなチャンスだが、この世界では、その小さな穴をどれだけ掴めるかが命運を分ける。
紗英は朝から緊張していた。
カバンの内ポケットに入れた銀の缶が、妙に重く感じられる。
使うべきだろうか。
やめるべきだろうか。
迷った末、休憩時間にトイレの個室へ入り、缶を開けた。小さな飴色の粒を一つ取り出し、そっと舌の上に乗せる。
最初は普通のトローチと変わらない、やや薬草めいた甘さだった。
だがゆっくり溶けていくにつれ、喉の奥がひんやりと澄み、胸のあたりに小さな灯がともるような感覚が広がった。体が熱くなるのではない。むしろ輪郭が整うような、不思議な感覚だった。呼吸が深くなり、背筋が自然と伸びる。鏡の中の自分は変わっていないはずなのに、視線を上げたとき、いつもより顔がはっきりして見えた。
稽古場に戻ると、すぐに変化は現れた。
監督が参加者をざっと見渡した時、その視線が一度、紗英の上で止まった。
「そこの人、じゃあ次やってみて」
いつもなら、紗英は「そこの人」として呼ばれることすらなかった。心臓が跳ねる。けれど、不思議と足はすくまなかった。
前に出て台本を持つ。照明もない稽古場の中央なのに、周囲の空気が少しだけ明るくなったような気がした。
相手役と向き合い、台詞を言う。
声が、まっすぐ届いた。
いつもより少しだけ低く、よく通る。抑えた感情も、消えずに残る。自分の目線が、逃げない。相手の顔を捉え、客席の先まで抜ける。
終わったあと、監督が頷いた。
「今のよかったね。名前、何ていうの?」
それだけで、紗英の胸はいっぱいになった。
自分の名前を聞かれた。見てもらえた。覚えようとしてもらえた。
ワークショップの終わりには、これまで挨拶程度だった参加者から「さっきの芝居、すごく雰囲気あったね」と声をかけられた。帰り際には、講師助手のスタッフから名刺を渡され、「今度の自主映画のオーディション、興味があれば」と言われた。
店を出て夜道を歩いているとき、紗英は何度も自分の喉に触れた。
まだほのかに冷たくて、現実味がなかった。
薬の効果だ。分かっている。
けれど、それでも嬉しかった。
初めて、世界の側がこちらを向いてくれた気がした。
4
それからの紗英は、トローチを「ここぞという時」にだけ使うことにした。
大きなオーディションの日。
劇団の通し稽古の日。
自己紹介だけで印象が決まる初対面の現場。
使うにしても一日に一粒まで。
使う日は連続させない。
今宵薬局店主の忠告だけは守ろうと思った。
すると、驚くほどに周囲の反応が変わっていった。
劇団の読み合わせでは、演出家が初めて紗英の意見を求めた。
「小鳥遊、今の場面どう感じた?」
その一言で、紗英は少しだけ胸を張れるようになった。
カフェでも、常連客が「あの子感じいいね」と店長に言ったらしい。新人の教育役を任されたり、表に立つ時間が増えたりした。同僚たちも、以前より自然に話しかけてくる。笑う時の顔が柔らかいとか、意外としっかりしてるとか、今まで言われたことのないことを言われるようになった。
だが、一番変わったのは、紗英自身だった。
人の目が自分に向く。その経験は、単純な高揚だけではなく、姿勢や声や表情を意識的に整えるきっかけになった。注目されるなら、それに見合うだけのものを返したい。そう思うようになったのだ。
紗英は発声練習の時間を増やした。
腹式呼吸の見直しをした。
立ち姿を研究するために、映画の中の女優たちの所作を繰り返し観察した。
鏡の前で、目線だけで感情を出す練習をした。
演技レッスンでは、今まで怖くて避けていた「大きい感情」の表現にも挑戦した。
すると、薬を使っていない日でも、以前より人の反応が良くなっていった。
もちろん、劇的ではない。急に全員が自分を見るわけではない。けれど、前より声が届く。前より自分の発言に間が生まれる。前より「そこにいる」と感じてもらえる。
紗英はそれがたまらなく嬉しかった。
トローチは確かに借り物の光だった。だが、その光に照らされることで、自分の中にまだ育ちきっていなかった芯が見えてきたのだ。
ただ――問題がないわけではなかった。
薬を使った日と、使わない日の落差は、どうしてもあった。
使った日は人の視線が集まり、話しかけられ、場の空気が自分の周りにできる。
使わない日は、やはりそこまでではない。
以前より改善しているとはいえ、その差を知ってしまった後では、ときどき不安になった。
これは本当に私の力なんだろうか。
みんなが見ているのは私じゃなくて、薬で作った“オーラ”なんじゃないだろうか。
そう思う夜には、銀の缶を取り出しては、残りの粒を数えた。
あと七粒。
あと六粒。
減っていくたび、安心と不安が同時に増した。
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