第12話 うそを見抜く目薬 12-6
10
誠一郎は家に帰った。
洋子はもう眠っていた。
誠一郎は書斎に入り、目薬の瓶を取り出した。
透明な液体が、瓶の中で静かに揺れている。
(これのせいで……いや、違う)
誠一郎は首を振った。
(これを使った、俺のせいだ)
目薬は道具だ。
その道具を、どう使うか。
それは、自分が決めることだった。
社内の不正を暴くためには、役に立った。
でも、妻の優しさも、親友の気遣いも、同じ「嘘」として切り捨てた。
それは正しかったのか。
(清濁併せ呑む度量が……俺には、なかった)
誠一郎はゴミ箱の前に立った。
少し迷った。
でも、目薬をゴミ箱に捨てた。
カラン、という乾いた音が、静かな書斎に響いた。
11
翌朝、誠一郎は洋子に声をかけた。
「昨日は……悪かった」
洋子は驚いた顔をした。
「俺は、お前の嘘の意味を考えなかった。嘘をついていることだけを見て、疑っていた」
「誠一郎……」
「お前が俺を心配してくれてたのに、俺は疑ってた。本当に申し訳なかった」
洋子の目に、涙が浮かんだ。
「私こそ……ごめんなさい。ちゃんと話せばよかった」
「いや、お前は何も悪くない」
誠一郎は洋子の手を握った。
25年ぶりに、そんな気がした。
「これからは、ちゃんと話し合おう。お前が隠しても、俺が隠しても、距離ができるだけだから」
洋子は頷いた。
「ええ……そうしましょう」
倉田にも電話をかけた。
「昨日は、ありがとう。正直に話してくれて」
「なんだよ、急に改まって」
「俺、お前に対してよそよそしくしてた。それは……俺が間違ってた」
電話の向こうで、倉田が少し黙った。
「……まあ、お互い様だ。俺も黙ってたことがあったわけだし」
「またメシ行こう。前みたいに、気楽に」
「もちろん。そうしよう」
会社でも、誠一郎は変わった。
目薬を使わなくても、人の話を聞くようになった。
幹部の報告に対して、数字だけを見るのではなく、その背景を聞くようになった。
「これはなぜこうなった?」
「その判断は、どういう理由だ?」
時に、部下たちは言いにくいことを遠回しに言う。
それは、社長である誠一郎への気遣いだ。
以前なら、その遠回しな言い方を「嘘」と判断して切り捨てた。
でも今は、その遠回しな言い方の奥にある意味を、自分で考えるようにした。
(目薬がなくても、わかることはある)
(わからないことは、聞けばいい)
12
半年が経った。
会社の業績は、さらに回復していた。
新しい幹部たちは、誠一郎に対して率直に意見を言うようになっていた。
「社長、この案件、少しリスクがあります」
「どんなリスクだ?」
「納期が厳しく、製造部が苦しい状況です。正直に言えば、品質に影響が出るかもしれません」
「わかった。では、納期を見直す交渉をしよう」
以前なら、そういう報告を黙って隠す幹部ばかりだった。
今は、言いにくいことを言える組織になっていた。
それは、誠一郎自身が変わったからだ。
ある日、誠一郎は倉田と食事をした。
「最近、顔が明るくなったな」
倉田が言った。
誠一郎は目薬を持っていない。
倉田が本当のことを言っているかどうか、確認する術もない。
でも、誠一郎は素直に受け取った。
「そうか。ありがとう」
「会社、うまくいってるのか?」
「まあ、少しずつな」
倉田は笑った。
「それが一番いい。急がなくていい」
誠一郎も笑った。
その笑顔は、久しぶりに、本物だった。
帰り道、誠一郎はあの薬局を探した。
店主にお礼を言いたかったからだ。
(もう、見えないか)
誠一郎は少し立ち止まった。
「ありがとうございました」
誠一郎は静かに呟いた。
真実を見る目は、時に必要だ。
でも、真実だけを見ていたら、大切なものを見失う。
人の心は複雑で、嘘の中にも温かさが宿ることがある。
それを知った上で、どう判断するか。
それが、経営者としての、そして人間としての、誠一郎の新たな出発点となった。
13
今宵薬局。
店の奥で、「 」は水晶球を眺めていた。
球の中には、誠一郎の姿が映っている。
「嘘は必ずしも悪いものではありません。どちらかと言えば相手を思いやるやさしい嘘が多いものです。嘘が無い世界は、恐ろしく残酷な世界です」
「 」は微笑んだ。
「お客さまは清濁を合わせ飲み組織を纏めていく長となりました。彼ももう少しお客さまのようなところがあれば結果が違っていたかもしれませんね。散々振り回した私が言うのも何ですが……」
「 」は水晶球を布で覆い、静かに店の明かりを消した。
また、誰かが困りごとを抱えて、この店を見つけるまで。
「 」は、静かに待ち続ける。
第13話 ココロの目薬 -了-
作品・続きにご興味をお持ちいただけたのでしたら下の★をクリックしていただけると嬉しいです。




