第9話 ココロの絆創膏 9−3
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それから三ヶ月が経った。
拓也は、会社で「やり手」として知られるようになっていた。
ある日、田中部長が拓也を呼んだ。
「佐々木、大口の顧客との交渉を任せたい」
「はい」
「相手は業界でも有名な『厳しい』担当者だ。過去に何人もの営業マンが泣かされてきた」
田中部長は真剣な顔で言った。
「でも、最近の君なら任せられると思う」
拓也は静かに頷いた。
「わかりました。やってみます」
交渉の日。
会議室に入ると、相手の担当者――50代の男性が、腕を組んで座っていた。
「御社の提案、拝見しました」
男性は資料を指差した。
「この納期は無理です。もっと余裕を持たせてください」
拓也は冷静に答えた。
「納期は貴社からのご要望通りです。今から変更するのは困難です」
男性は眉をひそめた。
「価格ももう少し下げていただかないと」
拓也は即座に切り返した。
「価格も適正です。これ以上は下げられません」
男性は驚いた表情を浮かべた。
拓也は一切動じない。感情が揺れない。
「無理なら、他社を検討されてはいかがですか?」
その一言に、男性は黙り込んだ。
しばらくの沈黙の後、男性は深く息を吐いた。
「……わかりました。御社の条件で進めましょう」
オフィスに戻った拓也を、田中部長が大絶賛した。
「佐々木! やったな! あの難しい相手からあの条件を引き出すとは!」
「お前、いつの間にこんなタフネゴシエーターになったんだ!」
拓也は誇らしかった。
(僕は変わったんだ)
(もう弱い人間じゃない)
(これでやっていける)
同僚たちも拓也を見る目が変わった。
「佐々木さん、すごいですね」
「あの取引、誰もできないと思ってました」
拓也は満足していた。
5 間話
今宵薬局の奥で、店主は水晶球を見つめていた。
球の中には、自信に満ちた表情で働く拓也の姿が映っている。
店主は静かに呟いた。
「お客さまは変わり、傷つかなくなりました」
水晶球の中で、拓也は取引先と冷静に交渉している。
「それは彼が望んだことです」
店主は目を細めた。
「しかし、痛みを感じなくなった心は、他人の痛みも感じなくなるものです」
水晶球の中で、後輩の田村が拓也に相談しようとして、遠慮がちに引き下がる姿が見える。
「優しさは、痛みを知ることから生まれ、共感は、傷ついた経験から育つもの」
店主は深く息を吐いた。
「お客さまはまだ気づいていない。自分が何を失ったのかを」
水晶球の中で、拓也は一人、デスクで資料をまとめている。
周囲には誰もいない。
「いずれ、気づく日が来るでしょう。その時に理解するか、否か」
店主は静かに呟いた。
「私はただ、見守るだけです」
6
拓也は気づいていなかった。
後輩の田村が、もう相談に来なくなったことに。
同僚の山田が、昼食に誘わなくなったことに。
取引先の人々が、事務的な対応しかしなくなったことに。
拓也にとって、それらは「どうでもいいこと」だった。
感じないから。
ある日の昼休み。
拓也は一人で食堂でカレーライスを食べていた。
少し離れたテーブルで、同僚たちが話している。
「佐々木さん、最近変わったよね」
「うん…なんか、冷たいっていうか」
「前はもっと優しかったのに」
「話しかけづらくなった」
拓也の耳にその声は届いていた。
でも、何も感じなかった。
胸の痛みが、ない。
(別にいい。仕事ができればそれでいい)
拓也は黙々とカレーを食べ続けた。
後輩の田村の様子がおかしかった。
顔色が悪く、明らかに疲れている。
デスクで資料を見つめたまま、動かない時間が増えた。
同僚の山田が心配そうに拓也に言った。
「佐々木さん、田村君、最近大丈夫ですか? 様子が変ですよ」
拓也は資料から目を離さずに答えた。
「大丈夫でしょ。仕事はちゃんとやってるし」
山田は複雑な表情で拓也を見た。
「でも……」
「心配しすぎですよ、山田さん」
拓也は冷たく言い放った。
山田は黙って去っていった。
ある日、以前から付き合いのあった取引先から電話がかかってきた。
「佐々木さん、実は今回の納期なんですが、社内事情で少し延ばしていただけませんか?」
相手の声は申し訳なさそうだ。
以前の拓也なら、事情を聞いて、柔軟に対応していた。
しかし今は違う。
「契約は契約です。こちらも予定を組んでいます。変更はできません」
「で、でも…ウチも事情があって…」
「守れないなら、今後の取引を考え直させていただきます」
電話の向こうで、相手が息を呑む音が聞こえた。
「…分かりました」
力なく、相手は電話を切った。
拓也は何も感じなかった。




