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今宵薬局  作者: 蟷螂
48/63

第9話 ココロの絆創膏 9−3

4


それから三ヶ月が経った。


拓也は、会社で「やり手」として知られるようになっていた。


ある日、田中部長が拓也を呼んだ。


「佐々木、大口の顧客との交渉を任せたい」


「はい」


「相手は業界でも有名な『厳しい』担当者だ。過去に何人もの営業マンが泣かされてきた」


田中部長は真剣な顔で言った。


「でも、最近の君なら任せられると思う」


拓也は静かに頷いた。


「わかりました。やってみます」


交渉の日。


会議室に入ると、相手の担当者――50代の男性が、腕を組んで座っていた。


「御社の提案、拝見しました」


男性は資料を指差した。


「この納期は無理です。もっと余裕を持たせてください」


拓也は冷静に答えた。


「納期は貴社からのご要望通りです。今から変更するのは困難です」


男性は眉をひそめた。


「価格ももう少し下げていただかないと」


拓也は即座に切り返した。


「価格も適正です。これ以上は下げられません」


男性は驚いた表情を浮かべた。


拓也は一切動じない。感情が揺れない。


「無理なら、他社を検討されてはいかがですか?」


その一言に、男性は黙り込んだ。


しばらくの沈黙の後、男性は深く息を吐いた。


「……わかりました。御社の条件で進めましょう」


オフィスに戻った拓也を、田中部長が大絶賛した。


「佐々木! やったな! あの難しい相手からあの条件を引き出すとは!」


「お前、いつの間にこんなタフネゴシエーターになったんだ!」


拓也は誇らしかった。


(僕は変わったんだ)


(もう弱い人間じゃない)


(これでやっていける)


同僚たちも拓也を見る目が変わった。


「佐々木さん、すごいですね」


「あの取引、誰もできないと思ってました」


拓也は満足していた。



5 間話


今宵薬局の奥で、店主は水晶球を見つめていた。


球の中には、自信に満ちた表情で働く拓也の姿が映っている。


店主は静かに呟いた。


「お客さまは変わり、傷つかなくなりました」


水晶球の中で、拓也は取引先と冷静に交渉している。


「それは彼が望んだことです」


店主は目を細めた。


「しかし、痛みを感じなくなった心は、他人の痛みも感じなくなるものです」


水晶球の中で、後輩の田村が拓也に相談しようとして、遠慮がちに引き下がる姿が見える。


「優しさは、痛みを知ることから生まれ、共感は、傷ついた経験から育つもの」


店主は深く息を吐いた。


「お客さまはまだ気づいていない。自分が何を失ったのかを」


水晶球の中で、拓也は一人、デスクで資料をまとめている。


周囲には誰もいない。


「いずれ、気づく日が来るでしょう。その時に理解するか、否か」


店主は静かに呟いた。


「私はただ、見守るだけです」


6


拓也は気づいていなかった。


後輩の田村が、もう相談に来なくなったことに。


同僚の山田が、昼食に誘わなくなったことに。


取引先の人々が、事務的な対応しかしなくなったことに。


拓也にとって、それらは「どうでもいいこと」だった。


感じないから。


ある日の昼休み。


拓也は一人で食堂でカレーライスを食べていた。


少し離れたテーブルで、同僚たちが話している。


「佐々木さん、最近変わったよね」


「うん…なんか、冷たいっていうか」


「前はもっと優しかったのに」


「話しかけづらくなった」


拓也の耳にその声は届いていた。


でも、何も感じなかった。


胸の痛みが、ない。


(別にいい。仕事ができればそれでいい)


拓也は黙々とカレーを食べ続けた。


後輩の田村の様子がおかしかった。


顔色が悪く、明らかに疲れている。


デスクで資料を見つめたまま、動かない時間が増えた。


同僚の山田が心配そうに拓也に言った。


「佐々木さん、田村君、最近大丈夫ですか? 様子が変ですよ」


拓也は資料から目を離さずに答えた。


「大丈夫でしょ。仕事はちゃんとやってるし」


山田は複雑な表情で拓也を見た。


「でも……」


「心配しすぎですよ、山田さん」


拓也は冷たく言い放った。


山田は黙って去っていった。


ある日、以前から付き合いのあった取引先から電話がかかってきた。


「佐々木さん、実は今回の納期なんですが、社内事情で少し延ばしていただけませんか?」


相手の声は申し訳なさそうだ。


以前の拓也なら、事情を聞いて、柔軟に対応していた。


しかし今は違う。


「契約は契約です。こちらも予定を組んでいます。変更はできません」


「で、でも…ウチも事情があって…」


「守れないなら、今後の取引を考え直させていただきます」


電話の向こうで、相手が息を呑む音が聞こえた。


「…分かりました」


力なく、相手は電話を切った。


拓也は何も感じなかった。


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