第8話 リピート錠 8−3
4
その日は、春子にとって幸福そのものだった。
誠一と映画を観て、喫茶店でコーヒーを飲み、夕暮れの公園を散歩した。
誠一は春子に優しく、笑顔を絶やさなかった。
そして、日が暮れる頃、誠一は春子の手を握り、こう言った。
「春子。俺、お前と一緒にいると幸せだ」
春子は涙を堪えながら微笑んだ。
「私も……です」
そして、夜が訪れた。
春子がベッドに横たわると、再び視界が白く染まった。
気がつくと、また朝だった。
同じ大学のキャンパス。
同じ桜の花びら。
そして、後ろから同じ声。
「おい、春子!」
春子は振り返った。
誠一がそこにいた。
ループが始まった。
5
春子は何度もその日を繰り返した。
二回目、三回目、四回目――。
毎回、誠一は同じように笑い、同じように優しく、同じように春子を愛してくれた。
春子はその時間に溺れた。
現実の夫は、春子のことを忘れている。
だが、ここでは誠一はいつも春子を覚えていて、愛してくれる。
――このままでいたい。
――ずっと、ここにいたい。
春子はそう思い始めた。
間話
今宵薬局の奥で、葉月は再び水晶球を見つめていた。
球の中には、ループの中で笑顔を浮かべる春子と若い誠一の姿が映っている。
葉月は静かに呟いた。
「ループの中に留まり続ける……それは、逃避ですね」
水晶球の中で、春子の表情が少しずつ変わっていく。
最初は喜びに満ちていたが、次第に焦燥感が滲み始めている。
葉月は目を細めた。
「そろそろ、気づく頃でしょう」
6
春子は五回目のループを迎えていた。
いつもと同じ朝。
いつもと同じ桜。
いつもと同じ誠一。
だが、春子の心には、少しずつ違和感が芽生え始めていた。
――このままでいいのだろうか。
――誠一は、本当にここにいるのだろうか。
映画を観た後、喫茶店でコーヒーを飲んでいると、誠一がふと春子を見て言った。
「なあ、春子」
「はい?」
「お前、最近……何か忘れてないか?」
春子は息を呑んだ。
「え……?」
誠一は真剣な表情で続けた。
「お前、今日……病院に行く予定があったんじゃないか?」
春子の心臓が跳ねた。
「病院……?」
「ああ。俺……なんか、そんな気がするんだよな」
春子は震える手でカップを置いた。
「……どうして、そんなことを……」
誠一は優しく微笑んだ。
「わかんねえけど……お前、今、大事なことを忘れてる気がする」
春子の目に涙が浮かんだ。
「誠一さん……」
誠一は春子の手を握った。
「お前、ちゃんと現実に戻れよ。俺、お前が幸せでいてほしいんだ」
春子は涙を堪えきれず、泣き崩れた。
「でも……現実のあなたは……私のことを……」
誠一は優しく春子の頭を撫でた。
「それでも、お前は俺の妻だろ? 俺がどんな状態でも、お前は俺のそばにいてくれる。それが、お前の愛だろ?」
春子は顔を上げた。
「……そうです」
誠一は微笑んだ。
「じゃあ、行けよ。俺、ここでちゃんと待ってるから」
春子は頷いた。
「……はい」




