最終話
そこまで言って、限界だった。
身体中の栓がゆるめられたかと思うと、隆之介の視界がみるみるうちに再びぼやけ始める。鼻の奥から、ふご、ずご、と変な濁音が鳴った。それを合図に、隆之介の涙腺は決壊した。涙と鼻水が同時に溢れ出た。
「だ、だから、し、」
ひっ、ひっ、としゃっくりのように胸が震える。とても言葉を紡ぐことができない。
「なんで、お兄さんが泣くのよ……」
いつの間にか紫野が、隆之介の腕からすり抜けていた。腕組みして隆之介を見下ろしている彼女の瞳からは、すっかり涙が乾いてしまっている。さっきまで大量の涙をこぼしていたとは思えないくらい、体温の低そうな、いつもの紫野に戻っていた。
「明日、ご近所の噂になるかもよ。夜中に、男がすすり泣く、不気味な声が響いてたって」
「だっ、」
だって、と言い終わる前に紫野に手を引っ張られ、隆之介は上体を起こした。ありがとう、と言いかけるが、また「ずず」という濁音に阻まれる。おいおいと涙を流す無防備な30男を見て、紫野はため息をつく。走るわ転ぶわ泣くわで、彼のスーツはぐしゃぐしゃに皺が寄っていた。きっと安くないスーツだろうに、これはすぐにクリーニングに持って行かないと……そこまで考えて、紫野は気づいたように顔をしかめ、再びため息をついた。
「救急車呼びます?」
「だいじょうぶ、歩けるとおも……ぐぇっ」
隆之介が立ちあがる。しかしそう言ったそばからグラリとふらつくと、イルカが絞め殺されるような声を発した。
紫野は3度目のため息をつくと、右肩を差し出した。
「……つかまって」
隆之介が申し訳なさそうにする間を与えず、紫野は隆之介の腕を自分の肩にかけると、無言で歩き始めた。
「い、いいよ! 大丈夫だから」
「黙っててください」
離れようとする隆之介の腕をがっちりと掴んだまま、紫野は隆之介を振り向くことなく、黙々とまっすぐ歩いていく。まるでワルキューレみたいだと、足をひきずりながら隆之介は思った。戦場の死者を回収してまわるという、北欧神話の伝説の乙女。
戦死した自分を想像して、隆之介は思わず笑った。戦場ではきっと役立たずに違いない。前線ですっ転ぶ自分が容易に想像できた。
「何が面白いの?」
急ににやけた隆之介を、紫野が不審そうに横目で見る。
「いや、やっぱりダメな兄だなと思って」
「もう慣れましたよ」
紫野がふっと笑った気がした。
オーディンの館ではなく、丘の上の白い家へ。ぼやけた月に照らされながら、ふたつの影はゆっくりと歩いた。
翌朝隆之介が目を覚ますと、階下からバターの匂いが漂ってきた。左足を浮かせながらそろそろと階段を下りると、紫野がちょうどフレンチトーストを焼き終えたところだった。
「おはよう」
テキパキと皿に盛り付けながら、紫野が振り返った。それがあまりにも自然だったので、一瞬、隆之介は昨夜のことを疑った。あれは全部自分の夢だったんじゃないか。だが次の瞬間、否定する。足首の痛みが事実を物語っていたし、紫野の格好を見てもそれは明らかだった。身なりに気を使う紫野は、けっして2日連続で同じ格好をしたりしない。しかし今日の紫野は、昨日と同じワンピースを着ていた。紫野いわく、「こんなことになると思ってなかったから、着替えを持ってなかった」のだそうだ。彼女の言っていたとおり、家からは紫野の荷物がきれいに無くなっていた。特に紫野の部屋は、ベッドメイキング後のビジネスホテルのように、塵ひとつなく正しく整理整頓されていた。
「……おはよう。いい匂いだね」
「食パンがあったんで、フレンチトーストにしてみました。多めに作ったから、冷凍しときます。よかったら週末にでも食べてください」
「お皿、運ぶよ」
「怪我人は座っててください。結局、病院行くことにしたんですか?」
「ああ、うん。さっき会社に電話して、午前半休にしてもらった」
フレンチトーストが運ばれてくる。甘い香りが、ダイニングテーブルの上に弧を描いた。横にはミルクたっぷりの紅茶。鼻孔を刺激される。
「いただきます」
紫野が席に着いたところで、隆之介は手を合わせた。ナイフを入れると、フレンチトーストの黄金の腹がくにゅ、と甘美に曲がった。一口切って口に入れると、香ばしさが瞬時に脳まで達し、なんともしあわせな気持ちになる。
「なんだか、ものすっごく美味しい」
「別に、普通のレシピですけど」
「いや、本当に美味しいよ」
「昨日いっぱい泣いたからじゃない?」
紫野が淡々と言った。隆之介が紫野の顔を見る。紫野は規則正しく手と口を動かしていた。
「泣いたら疲れて糖分がほしくなる、とか言うじゃないですか」
その理論から言えば、紫野も隆之介と同じ具合のはずだったが、それを口に出して揶揄するのははばかられた。隆之介は視線を手元の皿に戻す。
自分が知る限り、紫野は7年ぶりに泣いたはずだった。もしかしたら隆之介の預かり知らぬところで泣いたこともあったのかもしれないが、昨夜の様子を見ると、やはりあの涙は特別だった、と思う。暗闇の中でとめどなく涙を流す紫野の姿が、隆之介の目にはくっきりと焼き付いている。だがこうして日が昇ってみると、遠い昔の幻のようにも感じられた。少なくとも目の前の紫野の表情からは、昨夜の出来事の影響は少しも感じ取れなかった。
「病院って、駅前のコンビニの上の整形外科?」
紅茶をすすりながら紫野が訊いた。隆之介ではなく、窓のほうをぼんやりと眺めている。外は快晴だった。
「うん。あそこの先生にはずっと見てもらってるし」
「じゃあ、下まで付き添いますよ。そこから私、駅に行くので」
それはつまり、予定の半日遅れで、新居に向かうということだろう。結局、紫野がこの家を出てどこに行くのか、隆之介は知らないままだった。訊くタイミングを逃してしまっていたし、一晩明けた今、隆之介は自信がなくなっていた。
昨日の自分が伝えた言葉は、まぎれもない本心だ。紫野にもちゃんと伝わったと思う。だが、確約を得られたわけではない。家を出てどうするかは、紫野が決めることだ。二度と帰って来ない可能性は充分にあった。だが、そのことを改めて話題にするのは野暮な気がして、隆之介はフレンチトーストの最後の一切れを口に含んだ。
30分後に家を出た。ドアを開けた瞬間、日差しの強さに隆之介は思わず目を細めた。玄関ポーチの扉が、光を鈍く反射している。昨夜の名残は、太陽によってすっかり塗り替えられ、更新されていた。
ほとんど無言でふたりは歩いた。バスに乗って10分ほどで、駅前のロータリーに着いてしまう。バスが揺れるたび、隆之介は吊革につかまる紫野の横顔を眺めたが、紫野は何も言わなかった。
病院の並びにクリーニング店があり、紫野は隆之介を外に待たせたまま、店に入って行った。戻ってきた紫野は控えを隆之介に手渡す。
「来週にはできてるって」
「ん……」
心ここにあらずで、隆之介は控えを財布に収める。やはり紫野はいつものとおり、淡々としていた。紫野は病院の看板をちらりと見ると、隆之介に向き直った。
「私はここで」
ついに来てしまった。覚悟していたはずなのに、隆之介は紫野の顔をまっすぐ見られず、バッグに添えられた彼女の手に視線を合わせる。昨日、自分が握った細い手首。珍しく大胆な行動に出られたのも、夜というマジックのおかげだったのだろうか。
「うん、それじゃあ……」
何か言うべきだと思っているのに、何を言うべきかわからなかった。紫野も何も言わなかった。コンビニへ向かう客が、隆之介の横を通りすぎていく。その流れに身を任せるように、隆之介は足を踏み出した。
「またね、お兄ちゃん」
空耳かと思った。
だがそれは紛れもなく紫野の声だった。――自分がいよいよ発狂したのでなければ。駅前のざわめきをすり抜け、その言葉は一筋の光のように、隆之介の耳に差し込んできた。
振り返ると、同じ場所に紫野はいた。いたずらそうな上目づかいで、うっすらと笑みを浮かべて。暑さのせいか、白い頬がほんのりと染まっていた。
唖然としていたら、突然、プッと紫野が噴き出した。ますます唖然とする隆之介をほったらかしにし、くっくっくと声を漏らしながら、小刻みに肩を震わせている。それも押えきれなくなったのか、ついには声をあげて笑い始めた。
「あー、やっぱりキャラじゃないわ」
目の端に涙すら浮かべながら、紫野は笑った。
「もう二度と言わない」
つられて、隆之介も笑った。道行く人が怪訝な顔をするのもお構いなしに、ふたりは笑い続けた。
8年目の光が、過去も未来も等しく照らすように、風変わりな兄妹の上で輝いていた。
完
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ここからは、僭越ながら後書きのようなものを書きたいと思います。ご興味のある方はどうぞお読みください。
ゴールデンウィーク前に、急に思い立って書き始めた作品でしたが、小説を書くのがほぼはじめてということもあり、予想以上に大変でした。想定したより長い話になってしまい、反省する個所も多々ありますが、ひとまず書きあげられたことに満足・安心しています。これからまた全体を推敲して、より良い形に直していくつもりです。
「さよならお兄ちゃん」のアイデア自体は、実は5年ほど前からありました。ただ、小説を書きあげるなんてムーリー!という感じで、いつか何かの形で発表できたらいいなあ、くらいに考えていました。
ちなみにそのときは恋愛モノとして構想しており、姉が失踪した理由も違いました。小説情報に「ほのかに恋愛要素も含まれる」と書いていたのはこのためで、実は書き始めてからも、結末をどうするかしばらく決めていませんでした。オリジナルに添って、隆之介と紫野をくっつけることも考えていました。
ただ不思議なもので、物語って書き始めると自分でも予期しなかったほうに動き出すというか、登場人物が自然に動いてくれるようになり、「このふたりじゃ、やっぱり恋愛はないな!」という結論に至り、このようなラストとなりました。
小説を書きたい、というよりはこの話を書きたい、という気持ちのほうが強かったので、今後「小説家になろう」で定期的に作品を発表できるかどうかは、私自身よくわかりません。ただ、「いやいや官能小説を書いている女の子の話」や「クイズに青春をかける冴えない少年少女の話」など、書いているうちに新たにアイデアが湧いてきたのも確かです。
執筆中にインスピレーションをもらった音楽を記載しておきます。
●Snow Patrol--「Hands Open」「Run」「Take Back The City」など
ベスト盤『Up To Now』を、勝手にこの作品のサントラだと思って聴きまくっていました。特に「Run」は別れの歌詞だったので、いろいろ思うところがありました。
●トルネード竜巻--「言葉のすきま」
静かでせつなくリリカルな楽曲で、こういう雰囲気の文体が書ければなと思っていました。
「伝えたいことがいっぱいで でも言えることは少なくて
でも そうでしょ? せつないのと痛いののあいだをちゃんと言おう」
という歌詞がとても好きです。
●Natalie Imbruglia--「Smoke」
息苦しくどこか突き放した乾いた感じが、紫野の心情にぴったりだなと勝手に思っていました。
最後に、お読みいただき本当にありがとうございました。
感想・評価等お待ちしております。
本当にありがとうございました。