4-2 みなごろし?
【4話】Bパート
静那は走った。
激しく乱れる呼気に声を混じらせ、顔をぐしゃぐしゃにしながら泣きじゃくっていた。
その必死な姿は、さながら『走れメロス』の主人公のように鬼気迫る速度で、夕闇の迫る山道を駆け抜けていった。
泣きべそなんて、命が助かった後でいくらでもかけばいい。
今は何としても生き延びること、それだけが彼女に課せられた唯一の至上命令なのだから。
彼女は、肺が焼けるような痛みを感じながらも、尚も無我夢中で足を動かし続けた。
もし一瞬でも立ち止まれば、背後から音もなく追手がやってきて、自分を殺しに来る。
そんな逃れようのない強烈な妄想と恐怖が、彼女の小さな肉体を限界以上に突き動かしていた。
川沿いの、雑草の生い茂る獣道は、進むにつれて次第に険しさを増していく。
いつの間にか「菊池渓谷」という看板のある場所まで辿り着いたが、辺りに人影がないことを確認すると、彼女は迷わず渓谷の冷たい川を上流へと遡っていった。
ただ「東」という方角だけを頼りに、道なき山道をひたすら走り続ける。
もはや、この命懸けの逃避行に、自分の全人生を賭けるしかなかった。
気づけば靴下はズタズタに破れ、柔らかな足の裏は小石や鋭い枝で切り裂かれ、血だらけになっていた。
痛みで意識が遠のきそうになるたび、脳裏には大好きなみんなの顔が浮かんでは消える。
(ごめんなさい、諭士さん……寮のみんな……今までお世話になりました)
(どうか、私がいなくても生きていて……お願いだから、みんなは死なないで……)
* * * * *
一体、どれほどの距離を走り、どれほどの時間を歩き続けたのだろう。
気づけばあたりは、一寸先も見えないほどの深い暗闇に包まれていた。
流石に足元が見えないまま進むのは危険だと本能で感じ、静那は近くを走るアスファルト舗装された道路へと、這い上がるようにして出た。
そして、重くなった足を必死に引きずりながら、ひたすら東の空を目指して走った。
やがて彼女の目の前に、視界の開けた展望所のような広々とした場所が現れた。
肌を刺すような気圧の変化を感じる、相当な標高だ。
走るのをやめ、激しく高揚していた体の火照りが収まった途端、秋の冷たい山風が容赦なく彼女の体に吹きつけてきた。
ここ標高六百メートル付近の風は、まるで剃刀のように身を切るほど冷たかった。
静那は、ボロボロになって指先が覗く靴下と、薄い室内着姿のままであった。
あまりの寒さに体全体が激しく震えだす。
「あの施設から…我を忘れてここまで走ってきたんだ…」
彼女は震える自分自身の体を抱きしめるように小さく縮こまらせ、呆然としたまま、冷え切った思考を巡らせた。
ふと、涙で滲んだ視線を空へと向けてみる。
空は厚い雲に覆われ、期待していたほどの星は見えなかったが、かつて真也と一緒に見上げたあの圧倒的な星空の記憶が鮮明に蘇った。
雲の切れ間から、わずかに星の光が覗く。
それはまるできれいで温かな、命の灯火のような優しい星々だった。
だが、すぐに容赦ない激しい寒さが、彼女を凍てつく現実の世界へと引き戻した。
自分は、これから一体どこで、どうやって生きていけばいいのだろう。
もう二度と、諭士さんたちとは会えないのだろうか。
もし無理に会おうとすれば、きっと彼らにまで、あの「皆殺し」の魔の手が及んでしまう。
それに、もし敵に見つかってしまったら――本当に、殺されてしまう。
「嫌だ…嫌だよ…っ」
あまりの寒さと孤独、そして将来への絶望に耐えかね、再び大粒の涙が頬を伝い、地面にこぼれ落ちた。
誰かに助けてほしい。けれど、誰も頼ることができない。
展望台から遥か眼下を見下ろすと、山の斜面には民家の明かりがポツポツと、暖かそうに灯っていた。
だが、見ず知らずの他人の元へ助けを求めに行く勇気すら、今の彼女には出なかった。
(死にたくない……でも、私にはもう、どこにも行く場所がない……
まだ、お父さんに再会していないのに。まだ……まだ何もできていないのに……)
故郷から遠く離れたこの異国の地で、自分はこのまま誰にも知られず死んでいくのか。
そんな底知れない無念さを噛みしめながら、彼女はその場に崩れるようにうずくまって、ただ震えていた。
「死にたくない……」
その時だった。
闇を切り裂くような眩いライトの光が、突如として彼女の小さな背中を照らし出した。
「どうしたんですか、こんな夜更けに。何か困っていることでも?」
逆光の中に浮かび上がったシルエットは、少年のような、どこか幼い風貌をしていた。
次の瞬間、その少年が心底驚いたような、喉を震わせる大声で叫んだ。
「静那!? 静那じゃないか! なんで…なんでこんな所にいるんだよ!」
静那は、これがもし夢であるならば、どうか覚めないでほしいとさえ願った。
そこに立っていたのは、展望台周辺を巡回していた、あの真也だった。
すべての緊張の糸がぷつりと切れたように、静那は泣きじゃくりながら、真也の胸の中へと激しく飛びついた。
そして、怯えきった声で、喉が裂けんばかりに叫び、訴えかけた。
「助けて! 殺されちゃう、私たち! 『皆殺し』にするって、あの人たちが言ってたの!
死にたくないよ! 真也、このままじゃみんな殺されちゃうかもしれない!
本当に言ってたもん、皆殺しにするって! 嫌だよ、殺されるの!」
一体、何がどうなっているのか。
目の前に今、いるはずのない静那がいること自体が驚天動地であったが、彼女が発した「皆殺し」という余りにも物騒な言葉に、真也はさらに強い衝撃を受けた。
「皆殺しって……一体、何があったんだ!?
静那、その、勤め先の施設に殺人鬼でも押し入ってきたのか?」
「違う! 違うけれど、とにかく怖い! 皆殺しにするって、あのお母さんたちが確かに言ったの! 殺すって!」
「だから逃げよう真也。このまま戻ったら、みんな見つかって死んじゃう。
お願い、どこか遠くに逃げよう! 真也を死なせたくない。みんな死んじゃうのは嫌だよ! 生きていてほしい!」
パニックに陥り、支離滅裂な言葉を叫び続ける静那。
だが、その絶叫を受け止める真也の心は、不思議と少しずつ冷静さを取り戻していた。
何はともあれ、まずは目の前で、彼女の無事が確認できたからだ。
真也は静那の細い肩を優しく、それでいてしっかりと掴んで一旦自分から引き離すと、自分が着ていた厚手のコートを脱ぎ、彼女の震える体に羽織らせた。
そして、彼女の涙に濡れた顔をじっと見つめ、安心させるように穏やかな微笑みを浮かべた。
静那が少しだけ落ち着くのを、彼は何も言わずに待った。
彼女はまだ泣きべそをかき、得体の知れない何かに怯えている様子で、まともに会話ができそうな状態ではない。
夜の阿蘇の風は、ますます勢いを強めて吹き抜けていく。
「ここから一〜二キロ先、歩くには少し遠いけれど、僕が働いている牧場があるんだ」
「そこに事務所があるから、一旦そこまで行こう。寒くて足も痛いだろう? 僕におぶられなよ」
* * * * *
「い、いい……一人で、歩けるから……」
「でも静那、自分の足を見てごらん。靴下が完全に破けて血が滲んでいる。
この辺の道は尖った石がゴツゴツしていて危ない。僕に背負わせてよ。
早く事務所へ行って、足の手当てをさせてほしい。まずは、落ち着こう」
真也の真摯な説得にようやく納得したのか、静那はまだ全身の震えは止まっていないものの、真也の広い背中に素直にもたれかかった。
真也の背中から伝わってくる確かな温もりと、借りたコートの重みのおかげで、彼女の体を凍えさせていた寒さはだいぶ和らいだ。
夜の阿蘇の山は、都会では考えられないほど深く冷え込む。
静那は寒さのせいか、それとも未だ去らぬ恐怖のせいか、真也の背中の上で終始、小刻みに震え続けていた。
「静那……本当に怖かったんだね。でも、もう大丈夫だ。
ゆっくり……呼吸を整えて。落ち着いたらでいいから、何があったのか、少しずつ僕に話してよ」
* * * * *
その頃、熊本市内の中心部では、静那の行方を探す必死の捜索活動が続けられていた。
事態はもはや一施設の騒動を超え、警察を巻き込んだ大変な騒ぎに発展していた。
「金髪の女の子が、裸足に近い格好で走っているのを見た」という、市民からの有力な目撃証言を頼りに、夜の町中での懸命な聞き込みが続けられていた。
暗い道で交通事故に巻き込まれてはいないか。
あるいは、言葉の不自由な彼女が、悪意ある何者かに誘拐された可能性は…
もしかすると、足元が暗くなって川に転落したのではないか――
最悪の事態を想定し、現場に集まった捜索隊の面々や、施設のお母さんたちの表情は、夜が更けるごとに険しく、沈痛なものへと変わっていった。
「あんたたち、何してるのよ! まだ見つけられないの!」
焦燥のあまり、警察官の胸ぐらを掴みかねない勢いで叱りつける、介護施設のお母さんたち。
彼女たちもまた、自分の本当の娘のように可愛がっていた静那の失踪に、正気を失いかけていたのだ。
介護施設から静那の暮らす寮までのエリアを、総出でしらみつぶしに探していく。
時刻は、夜の二十一時の声を過ぎた頃。
寮の方へ、真也から「静那をこちらで保護している」という、救いのような連絡が入ったという知らせが、諭士の元に届いた。
驚愕した諭士は急ぎ寮へ戻り、真也がその日働いていたという阿蘇の牧場の事務所へと、折り返しの電話をかけた。
町中での捜索は一旦中断され、関係者や寮の面々が、固唾を呑んで電話機の周りに集結した。
諭士が、震える手で代表として受話器を握りしめた。
彼の背後では、施設のお母さんたちが手を合わせ、祈るような目で見守っている。
「あのっ、三杉です。今、牧場の事務――」
「真也か!!」
諭士の、怒鳴り声に近い必死の叫びが、受話器のスピーカーを激しく震わせた。
真也が状況を冷静に説明し終えるのを待つ余裕など、今の彼には一秒たりとも残されてはいなかったのだ。
「静那は!? 静那はどこなんだ、本当にそこにいるのか!? 無事なのか!? 生きているんだな、返事をしてくれ!!」
矢継ぎ早に問い詰める諭士の声は激しく震え、掠れていた。
もし彼女の身に万一のことがあれば、彼女を命懸けで自分に託してくれたあのミシェルさんに対して、顔向けができない。
その逃れられない重圧と絶望が、彼を精神的な極限まで追い詰めていた。
電話の周囲で見守る職員やお母さんたちの目にも、受話器を握りしめて立ち尽くす諭士の表情はあまりに悲痛で、見ていられないほどに映った。
しばらくの間、受話器の向こうから沈黙が流れた後、真也の落ち着いた、けれどどこか重く沈んだ声が返ってきた。
* * * * *
「……あの、落ち着いてください、諭士さん。静那は、間違いなくここにいます」
「裸足で険しい山道を何キロも走り回ったせいで、足にひどい怪我を負っていますが、命に別状はありません。無事です。
……ただ、ある深刻な理由があって、今はまだ誰とも……たとえ諭士さんであっても、電話で話したくないと言っていて……」
「そうか……そこに……間違いなく無事で、いるんだな……」
真也のその確かな言葉を聞いた瞬間、諭士の全身から一気に緊張の糸が解け、力が抜け、危うく受話器を床に落としそうになった。
「ああ……よかった。本当に、本当によかった……!」
その震える呟きを合図にするかのように、後ろで息を呑んで見守っていたお母さんたちからも、一斉に安堵の溜息が漏れた。
夜の九時を過ぎ、本来なら各自の家へ帰宅していてもおかしくない時間である。
それでも誰一人として帰ろうとせず、自分の娘を救い出すような思いで、彼女の無事をただひたすらに祈り続けていたのだ。
静那がどうやって熊本市内から、阿蘇の山奥というそんな途方もない距離を自力で辿り着けたのか、その移動の謎はまだ何一つ解けない。
だが、とにかく彼女が生きて、信頼できる真也の保護下に置かれている。その揺るぎない事実だけで、今は十分だった。
しばらくの間、受話器越しには諭士の荒い呼吸だけが響き続けていたが、やがて真也が静かに、そして重々しく切り出した。
「すみません。静那はまだひどいパニック状態で、まともに会話ができる状態ではありません。ですから、僕の方からこれまでのいきさつを、彼女から聞いた通りに説明してもいいですか?」
「ああ……頼むよ。
本当に、一体何が起きたというんだ。みんな、本気で神隠しにでもあったんじゃないかと大騒ぎしていたんだぞ。靴も履かずに、突然姿を消してしまうなんて……」
諭士は片手で目元を強く抑え、絞り出すような低い声で応じた。
それを受けて、真也は静かに、けれど言葉を一文字ずつ噛みしめるようにして、真実を話し始めた。
「その……実はですね……」
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