4-1 みなごろし?
【4話】Aパート
秋の澄んだ空気の中に、冬の訪れを予感させる冷ややかな気配が濃くなり始めた、ある日の朝のこと。
静那は、養父である武藤諭士の大きな存在感を隣に感じながら、本来なら通い慣れているはずの、けれど今は高く険しい壁のように見える小学校の校門の前に立ち尽くしていた。
今日は、担任の先生を交えて今後のことを話し合う保護者面談の日である。
この面談は、静那の身に起きた異変を察した諭士が、学校側へ何度も強く働きかけてようやく設定させた、静かな決意の場であった。
学校の重い門をくぐろうとしたその瞬間、静那の頬の筋肉がピクリと引き攣り、表情が目に見えて強張った。
かつては希望に満ちていたはずの、けれど今は自分を無慈悲に拒絶した学び舎。
その殺風景な校舎の景色が視界に入っただけで、彼女の細く小さな指先は、抑えようもなく小刻みに震えだす。
その微かな、しかし切実な身体の変化を、諭士の鋭い眼差しは見逃さなかった。
彼は歩みを止めると、静那の華奢な背中にポンと優しく、重みのある温かな手を置き、彼女の怯える目線に合わせるように腰を落として語りかけた。
「静那、今日は心の中にある思いを、何でも言葉にしていいんだよ。大丈夫だ、僕がすぐ隣にいるからね」
低く、けれど包み込むようなその穏やかな声を聞くと、静那の石のように強張っていた肩の力が、ほんの少しだけふわりと抜けた。
吸い込んだ秋の空気が肺を満たし、彼女はようやく、閉ざされていた対話のスタート地点に立てそうな予感を抱いた。
* * * * *
時計の針を、昨日の夜へと少しだけ巻き戻してみる。
静那が込み上げる涙を拭い、ようやくいつもの落ち着きを取り戻した後、真也と諭士の二人は今の学校生活についての詳しい聞き取りを行っていた。
何度も繰り返された「靴の紛失」という出来事は、決して彼女の不注意やうっかりミスで失くしたわけではなく、誰かの悪意によって奪われていたのだということ。
背中に刻まれた、消えることのない戦争の傷跡のことを「怖い」「まるでお化けのようだ」と残酷に気味悪がられ、そこからクラス全体という巨大な壁に包囲され、扱いが日に日に酷くなっていったこと。
そして静那が何より心を痛めていたのは、自分という異質な存在がいることで、クラスの和やかな雰囲気が最悪なものになってしまったのではないか、という自分自身への深い自責の念だった。
夜の静寂の中で話は深夜にまで及んだが、真也も諭士も、眠気や疲れを見せるどころか、瞬きすら惜しむようにして彼女の震える声を最後まで聞き続けた。
静那は本当は、ただ普通に、クラスのみんなと笑顔で楽しい会話を交わしたかっただけなのだ。
だからこそ、不慣れな異国の地で、あんなにも必死に日本語を勉強したのである。
「学校」という未知の場所で、多様な背景を持つ人々と触れ合い、温かな心を通わせること。
彼女は海を渡る前から、その日を心から、宝石を待ち焦がれるような気持ちで楽しみにしていたのだ。
彼女の魂の根底にある、そのあまりにも純粋で無垢な願いが痛いほどに伝わってきて、聞き手である二人の胸の奥は、万力で締め付けられるような激しい痛みに襲われた。
「静那……みんなと笑い合いたかったのに、ずっと一人ぼっちだったんだね……」
時折、静那の受けた仕打ちに真也が怒りを堪えきれず、拳を握りしめて刺すような険しい表情を見せると、諭士はすぐに落ち着いた声で彼をたしなめた。
「真也、落ち着け。お前がそんな恐ろしい顔をして聞いていたら、静那が怖がって、本当の気持ちを話しづらくなるだろう」
「……この子は、自分が負った心の恨みを誰かに晴らしてほしいなんて、そんな攻撃的な気持ちで話しているわけじゃないんだ。それは、お前が一番よく分かっているはずだろう?」
真也は会話の途中で、つい静那への共感から感情が激しく昂り、周りが見えなくなって自分自身の荒れ狂う世界に没入してしまう癖があるようだった。
諭士はその危うい隙を見逃さず、たとえ静那が話し続けている最中であっても、真也に対しては時に厳しく、親としての注意を与えた。
静那はすべての出来事を一通り話し終えた後、自分の個人的な問題で場の空気を重く沈ませてしまったことを過剰に気にして、しきりにすまなそうに謝っていた。
だが、真也は彼女の目を見つめ、「静那が謝ることなんてないんだよ」と、霧が晴れるような優しい微笑みを返した。
その揺るぎない包容力を感じさせる佇まいは、かつての荒んでいた真也には決してなかったものであり、どこか彼女の父親であるミシェルの温かな影を彷彿とさせた。
彼が意識して、静那を安心させるためにミシェルのような立ち居振る舞いを真似たのかどうか、それは本人にしか分からない。
だが、真也の短期間での精神的な成長と、静那に対する深すぎるほどの思いやりには、長年彼を見てきた諭士も驚きを隠すことができなかった。
今の静那に向ける真也の澄んだ瞳には、かつて彼自身を縛り付けていた「自分に対する自信のなさ」や「未来への迷い」といった翳りは、もはや微塵も感じられなかったのである。
* * * * *
「ええっ!? 諭士さん、今まで一度も結婚してなかったの?」
静那は意外な事実に触れたかのように、吸い込まれそうな大きな瞳を丸く見開いた。
「ああ、そうだよ。僕くらいの年齢の男なら、今のこの日本では誰もが結婚して家庭を持っているのが普通だろうけれどね」
「でも、そんな型に嵌まったことなんて、別に大した問題じゃないんだよ。
日本だっていつかは、結婚するもしないもそれぞれの自由で選べるような、もっとしなやかな社会になるはずだ。いや、僕がしてみせる、と言いたいところだが……きっとそうなっていくんじゃないかな」
「学校に行くか行かないかという選択についても、同じことだよ。
もっと大らかで、子供たちの個性を尊重する自由な場所になればいい。人はみんな違っていて、だからこそ、みんな唯一無二で素敵なんだから」
諭士が紡いだその最後の言葉に魂が反応したのか、静那の沈んでいた表情が、パッと花が咲いたように明るく輝いた。
「それ……お父さんも、いつも言ってた。『みんな違ってみんな素敵』って……諭士さん、お父さんと同じこと言ってる!」
「そうか、そりゃあ良かったよ。お前の尊敬するお父さんと一致していたなんて。ははは、光栄だね」
そこからの帰り道、二人の足元を叩くアスファルトの音は、驚くほど軽やかだった。
「学校に行かない」という、自分が選ぼうとしている道は、決して世間から指を差されるような「ダメなこと」ではない。
その確信が、彼女自身の幼い心の中に、ストンと音を立てて落ちたのだろう。
最初の頃は、学校を辞めることに「逃げ」のような申し訳なさを感じていた静那だったが、今は胸のつかえが取れたような、秋晴れの空のごとき晴れやかな顔つきに変わっていた。
初めて経験した日本の学校生活は、残念ながらうまくいかなかった。
けれど、新しい、自分が自分らしくいられる環境でもう一度やり直そう。必ず、やり直すんだ――
そんな、前を向こうとする力強い決意の光が、彼女の瞳の奥に宿っていた。
* * * * *
季節の行事やボランティアなどで、静那たちの暮らす児童養護施設に時々顔を出して、賑やかに笑い声を振りまいてくれるおばあちゃんたちがいた。
彼女たちがスタッフとして在籍しているのが、地域でも評判の介護施設「草秋」である。
静那は、この施設で朝早くからお昼過ぎまでの時間、入居者のために真心を込めた給食を仕込む手伝いをすることになった。
午後からは使い終わった食器を丁寧に片付け、調理場の掃除を担当する。
仕事が一段落した後は、施設の空いている机を自由に借りて、心ゆくまで日本語の勉強に励んでもよいという条件であり、彼女にとってはなかなか恵まれた待遇だった。
この介護施設で働く人々には、地元・熊本の出身者よりも、結婚や家庭の事情で県外からやってきたという人が多く勤めていた。
そのためか、人生経験が豊富で個性の強い「お母さん」たちが大勢揃っており、調理場は常に会話の絶えない、活気に満ちた職場となっていた。
料理長を務める日野さんは、聞けば長野県の出身だそうで、かなり遠方の山奥からこの地へ流れてきたのだという。
そんなパワフルで包容力のあるお母さんたちの輪の中に、静那は驚くほどすんなりと受け入れられた。
「まあ! まるでお人形さんみたいに可愛いわね〜!」という、圧倒されるほどの熱烈な歓迎から始まり、いざ料理を任せてみれば、彼女の指先の丁寧な手つきと集中力に、ベテラン一同は感心しきりだった。
これまでの孤独が嘘のような、静那自身が戸惑うほどのアイドル的な扱い。
職場に通い始めてすぐ、かつての学校の女子グループが見せた冷淡さとは正反対の、賑やかで太陽のように温かな集団が、彼女の周りに形作られた。
給食班はそれほど大人数ではないため、大きく分けて二つの得意分野を持つグループが存在していた。
一つは、甘い香りを漂わせる「お菓子作りグループ」だ。
彼女たちは、どんなに不機嫌な人でも笑顔にするという、全年齢に通用する万能スキルであるお菓子の作り方を、静那に優しく伝授してくれた。
もう一つは、より実践的で厳しい技を持つ「包丁グループ」である。
「静那ちゃん、外国人であってもね、包丁の使い方が一人前に上手くなれば、この先一生仕事に食いっぱぐれることなんてないよ~」
そう言って笑いながら、彼女たちは銀色に光る包丁を使い、新鮮な魚の捌き方を静那の体に叩き込んでいった。
静那はそれまで、生の魚に触れ、包丁で捌くという経験が全くなかった。
最初は魚独特のヌルリとした感触や、死んだ魚の瞳に見つめられることに怯えていたものの、次第にその繊細な技術の奥深さに、強い興味を持つようになっていく。
アジなどの扱いやすい小魚から練習を始め、彼女は毎日、地道に、黙々と包丁を研ぎ、練習を重ねていった。
* * * * *
きれいに、骨に身を残さず「三枚おろし」ができるようになれば、戦場のような料理チームでは即戦力として認められる。
一刻も早く、自分を温かく受け入れてくれたお母さんたちの役に立ちたいという一心で、静那は他の何よりも包丁の扱いを優先的に練習した。
「まあまあ、もうこんなに手際よく、迷いなく魚を捌けるようになったの? まだ小学生なのに、感心しちゃうわねぇ!」
「うちの息子が五年生だった頃なんて、もっと手元がおぼつかなくて不器用だったわよ。本当に、静那ちゃんはしっかりしてるね~」
「あんた、将来はうちの地元の、兵庫・明石の料亭に来なさいな! 私が紹介してあげるから!」
お母さんたちは、ことあるごとに彼女の頑張りを見つけ出し、やたらと褒めちぎってくれた。
しかし、かつての学校での、あの「ある日突然、石を投げられるような」辛い経験が深い傷として尾を引いているせいか、そのあまりの幸福なギャップに、静那はまだ戸惑いを完全に隠せずにいた。
(……もしかしたら、明日には急にそっぽを向かれるかもしれない。
理由も分からず、また急に冷たくされるかもしれない……)
背中に刻まれた忌まわしい傷跡のことは、この職場ではもちろん誰も知らない。
客観的に見れば、今の彼女が心配する必要など何一つないのだが、初めての就職先という緊張感や、周りが海千山千の大人ばかりという環境もあり、静那はまだ、完全に心の鍵を開ききるまでには至っていなかったのだ。
そんな、ある日の午後のこと。
静那は、まるで背筋に氷を押し当てられたかのような、衝撃的で物騒な会話を偶然耳にすることになる。
* * * * *
その日も、山のように積み上がった食器の洗い場での雑務をテキパキとこなした静那は、洗い終えた洗濯物やエプロンを外に干すため、ベランダへと続く長い廊下を通っていた。
その時である。
廊下に面した障子越しに、休憩中のお母さんたちの低く籠もった話し声が漏れてきた。
紫煙を漂わせるタバコの匂いと共に聞こえてくるその声は、何やら不穏で、どこか迷惑そうな、重苦しい口調だった。
料理長の日野さんを囲んで、何か重大な密談をしているかのような空気感だ。
「……ねえ、例のアレ、一体どうするつもりなのよ?」
「いつも色々、気を遣ってしてくれてるけれど……アレ、結局どうするん?」
気怠げで、突き放すような冷たい声。
「アレ」とは、まさか、自分のことなのだろうか?
静那は心臓が早鐘を打つのを感じながら、ピタリと足を止め、薄い障子一枚を隔てた廊下でじっと聞き耳を立てた。
「こんなに手を尽くしてやっても、まだ残っているし。あくる(飽きる)し、もう……いっそ『半殺し』にする?」
「そうやねぇ。これ以上あっても、邪魔になるだけだし」
「半殺し」という、あまりにも物騒で非日常的な単語が鼓膜を叩いた瞬間、静那の体は凍りついた。
まだやるべき仕事はたくさんあるというのに、一体自分は何をされるというのか。
会話の内容を周りが気にかける様子もなく、一人の母親世代のスタッフが、どっこいしょと腰を上げて話を締めくくった。
「せっかくだけど、半殺しに……いや、もう面倒だから『皆殺し』にしとこうか。
後々、ずく(手間)を出さないよう、今のうちにしっかりと手を打っておきたいしね。
今はもう、私もごしたい(疲れた)し」
(※注:信州の方言で「半殺し」はお米の粒を残して潰すこと。「皆殺し」はお米を完全に潰して餅状にすることを指し、おはぎを作る際などの表現です。また「ごしたい」は長野の方言で「疲れた」を意味します)
「そうやねぇ。そうしましょう。それが一番手っ取り早いし」
「じゃあ決まりね、皆殺しにしよう。あの子……確か『静那さん』よね? ちょっと誰か、あの子をここに呼んできて」
障子越しに、はっきりと自分の名前を呼ばれた瞬間、静那の脳裏からは一気に血の気が引いた。
猶予はない。今すぐここを離れなければ、何をされるか分からない。
静那は、あのお母さんたちが自分を見つけ出し、本当に「皆殺し」にしにやって来る前に、この恐ろしい施設から脱出することを、震える足で即座に決断した。
一体、どこへ逃げればいいのだろう。
養父である諭士の待つ施設へ戻るべきだろうか。
いや、あそこに逃げ込んだとしても、執念深い大人たちの手にかかればすぐに見つかってしまうに違いない。
もし自分が不用意に逃げ込んだら、大切な他のみんなまで、あの恐ろしい「皆殺し」の標的にされてしまうかもしれない。
静那は心臓が口から飛び出しそうなほどの動悸を感じながら、走り続ける頭の中をフル回転させた。
靴を履く余裕すら、彼女には残されていなかった。
薄い靴下だけの心許ない足元で施設を飛び出し、冷たいアスファルトの上を東へと向かって、なりふり構わず走り続ける。
「殺される! 本当に皆殺しにされる!」
その逃れようのない強烈な死への恐怖だけが、今の彼女の思考のすべてを支配していた。
とにかく、誰の手も届かないところまで逃げ切らなければならない。
(そうだ、真也のところ……! 真也が仕事で行っている場所……確か、阿蘇だったはず!)
あそこなら、きっと自分を匿って、この理不尽な暴力から守ってくれるかもしれない。
「湯浦」という名の牧場で、肉の加工や開墾を手伝っていると以前に聞いていた。
先日施設に届けてくれたあの馬肉も、確かそこからのお裾分けだったはずだ。
人通りの多い国道を行くべきか、それとも裏道を行くべきか。
だが、国道は車のライトや人の目が多すぎるし、もし警察官に見つかって補導でもされたら、強制的にあの施設へ連れ戻されてしまう。
それは今の静那にとって、即ち「確実な死」を受け入れることと同義であった。
「山道に入ろう……川の下流から上流へ続く道なら、きっと人影もほとんどないはずだ」
とにかく人目の多い主要道路を避け、彼女はひたすら険しい山の中へと逃げ込む道を選んだ。
「死にたくない……捕まったら終わりだ。みんな殺される!」
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