5-1 上流階級
【5話】Aパート
「……なんで自分も行かないといけないんだ」
真也は、眉間に深い皺を寄せ、いかにも気乗りしないといった不機嫌な表情を隠そうともせず、ホームに滑り込んできた新幹線の冷たい金属質のドアをくぐり抜けた。
今日は静那の誕生日祝いを兼ねた、彼女にとって初めてとなる東京観光旅行の日だ。
真也にとっては少々落ち着かない「旅行」ではあるが、隣で瞳を輝かせ、浮き立つ足取りで無邪気にはしゃぐ静那の姿を間近に見て、彼は「まぁいいか……」と、胸の奥で小さく折り合いをつけていた。
中学に入ってからの真也は、阿蘇市周辺の学校に通い始めてはいたが、授業が終われば一目散に山へと向かい、休みの日やわずかな隙間時間さえあれば、一人で深い緑の中に籠もっていた。
野生の獣のように山を駆け回り、自らを限界まで追い込む過酷なトレーニングに明け抜ける日々。
いつ連絡しても寮には不在で、泥にまみれて帰ってくる彼の様子を見かねた武藤諭士が、半ば強制的な「息抜き」として、この大都会への旅行を提案したのである。
もちろん真也は最初、そんな軟弱なことはしたくないと強く反対した。
しかし、静那の誕生日が目前に迫っていること、そして彼女のために何か特別で思い出に残るお祝いをしてあげてほしいという、諭士からの切実な眼差しを含んだ希望を聞き、最終的には折れる形でその提案を呑むことにしたのだ。
それでもまだ、つまらなそうに頬杖をつき、高速で流れていく窓の外の景色をぼんやりと眺めている真也に、諭士が苦笑いを浮かべながら穏やかに語りかける。
「いい加減、山の中を走り回ってばかりいたら、ただの体力バカになってしまうぞ」
たまには都に出て、最先端の都会の文化も肌で学ぶんだ。もっと見聞を広めないと、大人になっても知らないことだらけになって、恥をかくことになってしまうぞ」
「……“みやこ”って。一体いつの時代の人間だよ、諭士さんは」
真也が呆れたように言い返すと、隣の席で地図を広げていた静那が、身を乗り出して会話に割り込んできた。
「でも真也、東京へ行くのは初めてなんでしょ?
私、昨日から一生懸命予習しておいたから、お勧めスポットを案内してあげようか?」
「いやいやいや。さすがにそれは、僕の役目じゃない気がする。そこは、一応……僕に案内させてよ。
僕だって男の子なんだしさ。なんか、日本人の僕が、外国人の静那にリードされるっていうのも、格好がつかないだろ」
真也が少し照れくさそうに視線を逸らし、けれど少年らしい意地を張って答えると、静那は「ふふっ、どっちでもいいよ。東京が楽しめるならね」と、どこか大人びた余裕のある微笑みを浮かべた。
その屈託のない一言に、「ははは、そりゃそうだな」と諭士が声を立てて笑い、真也もようやく「まぁ、楽しむために行くんだもんな……」と、岩のように強張っていた肩の力を少しだけ抜いた。
実は真也は、東京に行ったら静那に何か特別なプレゼントを贈ろうと、牧場でのアルバイトでコツコツと貯めてきたなけなしの貯金を、密かに下ろして懐に忍ばせてきていた。
学校も別々になり、たまにしか顔を合わせることができなくなってしまった今だからこそ、何か彼女の心の底から喜ぶ顔が見たかったのだ。
素直に言葉にできない不器用な性格ながらも、真也なりに、静かに情熱を持って準備を重ねてきていた。
それに、「誕生日」というキーワードは、二人にとって――特に、過酷な過去を持つ静那にとっては、決して幸福な色彩だけで彩られた思い出ではない。
十歳の誕生日。
あの日、彼女は愛する父親と暴力的に離れ離れになってしまったのだ。
だからこそ、真也は心の奥底で強く誓っていた。
これからは静那に、誕生日という日を、痛みを忘れるくらいに思いっきり楽しんでほしい。
あの時味わった、焼けるような辛い記憶をすべて差し引いても、たっぷりとお釣りが来るくらいの幸せを感じてほしいのだと。
不器用な自分に何ができるのか、真也は車内の微かな振動を感じながら、その方法を模索し続けていた。
新幹線の圧倒的な加速と滑らかな走りに、最初は驚きを隠せず窓に張り付いていた静那だったが、やがて落ち着きを取り戻し、ゆったりとシートに背を預けた。
彼女はふと、手帳を鞄に仕舞ったばかりの諭士に、純粋な疑問を投げかけた。
「諭士さん。新幹線っていつ頃できたの?」
諭士は彼女の問いを優しく受け止め、記憶を辿るように答える。
「そうだな。確か、僕がまだ子どもだった頃に開通したんじゃなかったかな」
「東京から大阪まではもっとずっと前だったけれど、この岡山までの区間が開通した時の式典は、僕も父に連れられて見に行った思い出があるな……」
「そうなんだ。やっぱり、日本ってすごいね。こんなに速くて、静かな乗り物が作れるんだから」
「静那の国のシベリアにある鉄道だってすごいんだぞ。一万キロ近い長さがある世界で一番長い歴史ある鉄道なんだからね」
「でも、あっちの列車はこんなにかっこよくないよ。乗る前に新幹線の先頭を見たけれど、形がとってもスマートだった。鼻の長いムーミンみたいで、可愛いね」
「ムーミンかぁ。フィンランドに近いから、そちらの国でも親しまれているんだね。……というか真也君、君はさっきから黙り込んで話に入ってこないのかい?」
諭士に急に話を振られ、真也は気まずそうに唇を噛み、俯いた。
「僕は……そんなこと、あんまり知らないからさ。その……静那に教えてあげられるような立派な知識も、ないし……」
「だからこそ、見聞を広めに行くんだよ、真也」
諭士は冗談めかした口調を収め、真剣な眼差しで少年の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「いいかい。体を鍛えて強くなるのも大事だ。だが、世の中の色々なことを知るのもそれと同じくらい、あるいはそれ以上に大切なことなんだよ。
一つのことだけで突き進んでいけるほど、この世界は狭くないんだ。
学校内の狭い世界がすべてではなかったように、君がまだ肌で感じたことのない世界がこの先には沢山広がっている」
諭士は静かに、けれど胸に響くような熱を持って言葉を重ねていく。
「僕だってそうだ。
辞書に書いてある文字が、世界のすべてじゃない。
大人と一概に言っても、実に多種多様な考えを持つ人がいる。
そういう生々しい現実を知って、静那はもちろん、これから出会う仲間たちと色んな“知らないこと”を分かち合うのが、人生の醍醐味なんじゃないかな?
だから、すべてのことを知ったかぶりをするより、知らないことを素直にさらけ出して、新しい世界へ飛び込んでみよう。
今日は、そのための記念すべき初日だ」
「……うん」
「うんっ!」
諭士の、心に深く染み渡るような説得力のある問いかけに、二人は力強く頷いた。
何にせよ、目の前の大切な相手に、最高に楽しんでもらえる一日にしたい。
新幹線の空調の音が微かに響く車内で、三人はそれぞれ抱く思いのベクトルこそ違えど、共通の願いを確かに胸に抱いていた。
* * * * *
東京に到着したものの、そこは二人が頭の中で想像していた姿とは少しばかり違っていた。
奥行きこそ果てしなく続いていたが、ホーム自体の横幅はそれほど広くも大きくもなく、二人はどこか意外そうな表情を浮かべた。
二人はガイドブックの写真で見た、赤レンガの「東京駅・丸の内駅舎」を想像しており、もっとゴシック造りの重厚で歴史の重みを感じさせる建物を期待していたのだ。
だが、実際に降り立った現代的な新幹線のホームは、清潔ではあるが、二人がイメージしていた駅の姿とはかなりの乖離があった。
「駅から出てすぐのところにある、大きなホテルを予約してあるから、まずは荷物を預けにチェックインしに行こう」
使い込まれた旅行鞄を手に、颯爽と歩き出す諭士の後について、二人は人混みを縫うように歩き出した。
諭士にはこれから、二人には伏せているある重要な予定が入っていた。
とある有力な国会議員との、密な面会である。
諭士が多忙な合間を縫って、わざわざ東京まで足を運んだ真の理由は、実はこれであった。
「新生児や乳児の養育を放棄した親、いわゆる“ネグレクト”からの子供の保護」に関する法案を、直接政治の場へ直談判しに行くのだ。
だが、その法的な詳細や政治的な駆け引きは、中学生の二人にはまだ難しいだろうと判断し、詳しい説明はあえて控えていた。
しかし、諭士が事前に話した「真也のような“親の庇護が無い子たちを守るための、新しいルール(きまりごと)”を国に作ってもらい、悲しい思いをする子が一人でも増えないようにしようとしているんだ」という簡潔な説明だけで、二人の胸には十分に響いていた。
自分の足で児童養護施設を運営しながら、さらに一歩進んで、未来のために法律を作るべく政治家まで動かそうとしている諭士の背中を、真也は改めて「やっぱりこの人はすごいな」と深く尊敬した。
だからこそ、自分も腕力だけでなく、もっと勉強をして知識を蓄えなければならない、という思いを今までになく強くする。
法律に関する教養がなければ、不条理なルールを変えることも、その意味を正しく理解することさえできないからだ。
真也の中に眠っていた学習意欲(勉学への意欲)が、都会の乾いた風に吹かれ、静かに、けれど確かに目覚めた瞬間だった。
とりあえずは、せっかく辿り着いた憧れの東京だ。
色々な名所を見て回り、何より静那に心から喜んでもらおう。
今日は夕食の時間までは、静那と二人でホテルの部屋で留守番をすることになった。
案内されたホテルの部屋は、家族用の大型ツインルームで、二人で過ごすには非常に広々とした空間だった。
二人は、中学生の子どもには十分すぎるほど大きな、白いシーツが整えられたベッドの上に、持参した観光マップを数冊広げた。
そして、静那と明日、一体どこの観光地を巡るのか具体的なタイムスケジュールの相談を始めた。
真也は今までそんな意識を微塵もしていなかったが、肩を並べて観光地巡りの相談をしている今の状況は、端から見ればまるでデートのようだった。
だが、無邪気にマップを指さし、瞳を輝かせて話しかけてくる静那を見る限り、彼女にはまだそんな甘い意識は欠片もないようだと感じ、少しだけ苦笑する。
でも、今はそれでいい。
明日を彼女にとって最高の一日にして、静那に何かとっておきの、一生の宝物になるようなプレゼントを買ってあげるのだと、真也は自分自身に固く誓っていた。
そんな考えが頭をよぎったため、観光名所の話をしていた最中、真也は我慢できず、とっさにプレゼントに関する話題を切り出してみた。
「そういえばさ、静那。今、何か個人的に欲しいものとかある?」
「えー。そうだね。うんとね……」
静那にしては珍しく、すぐには答えを出さず、視線を泳がせて考え込んでいる。
普段、料理のメニューなどは率先して美味しそうなものを提案する彼女だが、自分の欲しいものという質問には、急に歯切れが悪くなってしまったようだ。
「私……今は、諭士さんや真也、みんながそばにいてくれるし、それだけで十分。何もいらないよ」
少しの沈黙の後、彼女はどこか申し訳なさそうな、けれど確かな充足感を湛えた表情でそう答えた。
“みんながいる”――その言葉が、彼女の過去の喪失に対してどれほど重い意味を持つのか、真也はこの時まだ、その深淵を完全には理解できていなかった。
普段は寡黙で口数の少ない真也だったが、観光スポットの話になると、お互いの「好き」や「興味」を素直に語り合うような形で、驚くほど会話が弾んだ。
お互いの興味があることを遠慮なく言い合える対話だったからだろうか、テニスボールを打ち合うようにポンポンと意見が出てくる。
静那も真也の話を聞きながら本当に楽しそうな笑みを絶やさずにいた。
“会話”とは、本来こういう温かな体温を持つものなのだろうか。
自分の「好き」や「嫌い」をお互いに正直に伝え合いながら、共通の時間を分かち合うこと。
新幹線の車中で聞いた諭士の言葉を反芻しながら、二人の賑やかな観光巡りプランの相談は、窓の外が夕闇に包まれ始めるまで、しばらくの間続いた。
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