9-1 乗り物と建物
【9話/B面】Aパート
新年度が始まってまだ一ヶ月足らず。
校内には春特有の埃っぽさと、新しい生活への期待が入り混じった独特の空気が漂っていた。
授業終了を告げるチャイムが鳴り響くと、放課後の気だるい喧騒が廊下に溢れ出す。
校舎西側の二階、突き当たりにある「日本文化交流研究部」の部室に、今日も一人、また一人とメンバーが集まってくる。
窓から差し込む西日はオレンジ色を帯び始め、椅子の影を長く伸ばしていた。
一番乗りで部室にやってきたのは、一年生の静那だった。
彼女はまず、冬の間に溜まった空気を追い出すように、重いアルミサッシの窓をガラガラと大きく開けた。
入り込んできた春の風が、彼女の白みがかったブロンドの髪をふわりと躍らせる。
彼女は鞄から一冊の日記帳を取り出すと、窓際の机でペンを走らせ始めた。それは彼女が日本に来てから欠かさず続けている、大切な日課だ。
「お疲れ。静那、一人?」
少し遅れて、部長の勇一が部室に姿を現した。彼は肩にかけたバッグを下ろし、自分の定位置に腰を下ろす。
「勇一、お疲れ様。……うん。今日は私が一番かな」
静那はペンを置き、勇一に向かって柔らかな笑みを浮かべた。彼女は五月に入って少し気温が上がっても、頑なに制服の下に黒のアンダーシャツを着ていた。
女子高生にしては少し不釣り合いな服装だと感じる勇一。他にインナーのストックがないのだろうか。
「静ちゃん一人? あ、換気してくれたんだ。ありがとうね」
続いて椎原さんと仁科さんが、楽しげな話し声を響かせながら入室してきた。
「お疲れ様。今日はボス……遅いですね。いつもなら、誰よりも先に来てるのに」
静那が、生一の座るはずの空席を見つめながら尋ねた。
「あぁ、あいつ? テストがダメだったからさ。
さっき職員室の前を通ったら、三枝先生に捕まって補習の説明を受けてた。もうちょっとかかるんじゃない?」
仁科さんが、呆れたように答えてくれた。
「それにしても進級したての四月なのに、いきなりテストだなんて大変だったな」
勇一が同情するように呟くと、仁科さんは「進学校はそんなものよ」と即座に返した。
「普通だったら中間テストと期末テストだけなんだけどね。ここはちょっと特殊かも」
「アメリカも?」
その問いに、椎原さんは記憶を辿るように少し視線を上げた。
「中学にあたるジュニアハイスクールも、勉強とテストばかりのカリキュラムだったかな。
知識を定着させるため……っていう名目なんだろうけれど。
だから学校が終わったら、何らかの形で発散しないと気が詰まりそうだったよ。これは、どんな優等生でも例外なくってトコかな」
椎原さんは少しだけ困ったように微笑み、窓の外を眺めた。
「そうよね、発散したいよねぇ。静ちゃんは? 何かで発散してる?」
「はい……。長い間歩いてたら、気持ちが晴れてくるっていうか。これ、発散ですかね」
静那の答えに、仁科さんは目を丸くした。
「随分と健康的な発散方法だこと! ちなみに、どこまで歩いて行くの?」
「空港のあたり……かな」
静那が事も無げに答えると、勇一が驚きすぐに問いかける。
「いやいや、ここからだと滅茶苦茶遠いって! 片道十五、六キロはあるだろ。あそこまで歩いて行くなら、さすがにバス使いなよ」
「まぁ、さすがにそうですよね」
静那はやり始めたらトコトンやる性格のようで、その行動の規模は時折、周囲を困惑させるほど大きい。
「静ちゃんは、まだ電車とかバスを使ったことは……さすがにあるよね」
椎原さんの問いに、静那は「それは、まぁ」と頷いた。
「回数は少ないですが、新幹線だって乗った事ありますよ」
「じゃあ、日本の乗り物は結構知ってるんだ。地下鉄……メトロなんかも?」
「地下鉄は、東京に行った時に乗りましたよ。都会は上の道だとすぐ渋滞になりますからね」
静那が少し得意げに答えると、仁科さんが感心したように相槌を打った。
「分かってるじゃない。
渋滞を避けようとすると、必然的にそうなるよね。やっぱり東京へ行くと乗り物が多いから、それだけで違う感じがするなぁ。静ちゃんの国とは、どう違ってた?」
静那は少し目を伏せ、かつての故郷の景色を思い描いた。
「私の国も、鉄道はあった……けど、日本みたいに奇麗じゃなかったな。
日本の電車内もそうだったけど、車内でタバコ吸う人が多くて、すごく煙たかったイメージがあるよ。でも密室で逃げられないし。……あれは、タバコ吸わない人にはつらいな~って感じました」
彼女は不快な匂いを思い出したような仕草をした。
「ただ、清潔さなら、まだ日本が良かったかな。
新幹線なんか早くて清潔で、おまけにお弁当を売りに来たりで、すごいなって感じてた。乗り物の最先端だと思ったし。
あれって、九州とか東北にもまだ伸ばしていくんでしょ。さすがに北海道までは伸ばせないって、思うけど」
「日本の新幹線って、やっぱりすごいんだ」
勇一が誇らしげに言うと、静那は力強く頷いた。
「うん……。多分、欧米にもこんなに速い電車は無いと思う。なんだか日本人ってすごい技術力持ってるのかなって感じたよ」
「確かに早いもんね。じゃあさ、建物!
やっぱり東京タワーとかも凄いって思った?」
仁科さんの質問に、静那は意外な反応を見せた。
「いや……塔のような建物よりも、印象深いのは乗り物とか車の方ですね。
すごい大きくて立派な装飾のある建築物は、私の故郷にも競い合うように建ってるけど……なんだか『力を誇示する』みたいであまり『見入る』って感じの建物じゃなかったな」
彼女は窓の外に見える、古い校舎の隅っこに視線を移した。
「日本にある、どっちかというと小さめの……古い民家みたいな建物の方が素敵だなって思います。あれは国の権力なんかを誇示するために建てられたものじゃないと、思うから」
「あの古びた民家みたいなのが……意外ね。海外の人が見てる部分って」
椎原さんが少し驚いたように呟いた。
「私がたまたま、そこに注目したっていうケースもありますよ。
日本の建物だって、まだそんなに見てないですし。
橋だってすごいですもんね。私が日本に来るほんの少し前に開通したっていう、あの橋。……『瀬戸大橋』も、電車からの景色だったけど思い出に残ってる。
でも……あんな素敵な雰囲気の建物は見た事なかったな」
静那は言葉を大切に選ぶ。
「今までだいたいコンクリート造りの家ばかりだったから、木材をふんだんに使ってるのはもちろんだけど、自然の素材で作られているのがお洒落に感じますよ。
あれ、確か『合掌造り』っていうんでしょ。絶対に他の国にはない、お洒落な建物ですよ。
そうですね。いつかは……『世界遺産』になるんじゃないかって思うんですけど」
「あんな昔のボロ民家が、世界遺産になるわけないと思うんだけどな~
……でも静那の国からしたら、すごく独創的な建造物に見えてるんだよな。
クーラーも電気も通って無さそうなのに」
勇一が首を傾げると、静那の瞳がさらに熱を帯びた。
「うん。私、こっちに来る前に日本が紹介された本で見たのが、古民家の写真だった。
雪が屋根に積もってて奇麗だったよ。
だから、こっちに来るまでは、あれが日本の原風景だって思ってた」
彼女は少しだけ残念そうに肩をすくめた。
「実際に日本に到着したのが大阪だったけど、車から見える景色は全然違っていて。
ああいう民家がまったく無くて、残念だったけどね。
ここで生まれた文化とか暮らしはどうなってるんだろうって、知りたいところかな。
なんだか昔の人の暮らしの知恵が詰まってる感じがして。
まずは……泊まってみたいな。あそこって、昔の『日本の故郷』みたいな場所なんでしょ?」
「そうね。ああいう日本の原風景が残されているエリアも実際にあるから、いつか見に行きたいよね。
確か長野県だったと思う。私もまだ行ったこと無いから何とも言えないけどね」
椎原さんが優しく微笑んだ。
「そこ、行ってみたいな。遠いだろうけど」
「電気、あるのかなぁ、あそこ……」
勇一の呟きに、仁科さんが「もう!」と声を荒らげた。
「勇一、気にするのってそこじゃないでしょ! 静ちゃんと見てるところが全然違う!」
「え……私も気になるよ。冷蔵庫とかあるのかなって。食べ物の保存とかどうしてるんだろうって思ったし」
静那の言葉に、仁科さんは「え~、静ちゃんも?」と意外な声を挙げた。
「まずは食べ物の確保。そこで生きていくなら保管は大事ですよ」
静那は至って真面目な表情でそう締めくくった。
この年の十二月。
日本にある「白川郷」の合掌造り集落は、十二世紀半ばの貴重な建造物としてユネスコの世界文化遺産に登録されるのだが、それはまだ少しだけ先の話である。
『B面』では、勇一達が立ち上げた部活「日本文化交流研究部」での日常トークを描いています。時々課外活動で外出もします。各話完結ですので、お気軽にお楽しみください。
尚、本編のストーリーとB面の話数は所々リンクしています。こちらを読んでから本編を読み進めていくとより楽しめます。
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