21-1 萌える闘魂
【21話】 Aパート
知らない天井だ。
最初に意識を取り戻し、ゆっくりと瞼を持ち上げたのは小谷野だった。
視界に映るのは、石造りの壁に囲まれた、質素だがどこか温かみのある部屋の風景。
自分が今、どこかの部屋のベッドの上に横たわっているのだということを、彼は朦朧とする意識の中で理解し始めた。
「ここはどこだろう……」
かすれた声で呟き、状況を確認しようと首を横に向けようとする。
しかし、その瞬間、背骨のあたりから全身を突き抜けるような、電気が走るほどの強烈な痛みが彼を襲った。
「ぐっ……あででで!」
苦悶の表情を浮かべると同時に、あの忌々しい記憶が濁流のように蘇る。
自分はあの、体重160キロはあろうかという巨大な怪物……ファーダーに、なす術もなく一方的に叩きのめされたのだ。
一度は死を覚悟した。首根っこを掴み上げられ、地面に叩きつけられようとしたあの瞬間の絶望。
なぜあの時、あの怪物が急に腕を離したのか、その理由は自分には分からなかった。
ただ、その直後に生一が、ボロボロになった自分たちを強引に担ぎ上げ、あの下水の中へと躊躇なくダイブしたことだけは、かろうじて記憶の隅に残っている。
肺がはち切れんばかりに息を大きく吸い込み……そのまま、闇の中へと意識を失ったはずだ。
だとしたら、ここは一体どこなのだろう。
(あの地下牢獄には、自分たちを治療してくれるような奇特な人間なんていなかったはずだ……なら、ここは天国なのか……? いや、そんなワケないよな。ということは、俺はもしかして、助かったのか……?)
そんな風に、首を固定したまま目だけをキョロキョロと動かしていた彼の様子に、傍らにいた人物が気づいた。
「おう! デビュー戦でフルボッコにされた奴。やっと目が覚めたか」
聞き慣れた、少しぶっきらぼうな生一の声だった。
どうやら生一は、3人の中でも一番軽傷で済んだようだった。
声のする方へと顔を向けようとした途端、再び背骨に電撃のような激痛が走る。
「はうっ!」
あまりの痛みに、小谷野は情けなく顔をしかめた。
「オマエ、とんでもなく不細工な顔になっとるぞ。まぁ、あれだけの勢いで地面に叩きつけられたんやから、無理もないわな…」
生一は、窓辺からこちらへ歩み寄りながら、冷やかすような口調で言った。
「暫くは、体を動かすだけでも相当キツイやろ。大人しく寝っ転がっとけ」
そう言いながら、生一は小谷野のそばに腰を下ろした。
情けない声を上げる小谷野の様子に呆れつつも、生一は無理やりに近いやり方で彼の腕を取り、上体を起こそうとした。
リハビリのつもりだったが、今の彼には少々酷だったかもしれない。
「ほい! 気合入れて起きてみ」
「うわイタたたたたたた! やめろ! こ、こ、殺す気か!」
小谷野が、肺にある空気をすべて吐き出すような悲鳴を上げる。
その騒がしい声に反応して、隣の部屋から一人の女性が駆け寄ってきた。
『キイチさん! この人はまだ動けないんです。そんな乱暴なことはやめてください。』
耳に心地よく響く、鈴を転がすような綺麗な声。
それは英語だったが、高校生活をそれなりにこなしてきた自分たちなら、なんとか聞き取れる内容だった。
小谷野は、その透き通った声の主を確認しようと、痛みを忘れて顔を向けた。
途端に、彼の体中に別の意味で再び電気が走った。
ガガガガーーン!
という衝撃音が彼の脳内で鳴り響く。
髪型、顔、体系…モロ好みだ!……すべてが、彼の理想とする女性像そのものだった。
その女性は、小谷野の隣に立つと、英語で優しく問いかけてきた。
『紅茶はお好きですか?』
「大好きです! スポーツマンですから!!」
小谷野は、激痛などなかったかのように、はっきりとした声で即答した。
「オイ! 聞かれたんは紅茶やで。バスケットとちゃうわ。スポーツマンとか関係ないやろ」
生一は思わず、その見当違いな回答にツッコミを入れた。
しかし、小谷野はもう、自分の声など一切耳に入っていないようだった。
『何だね、君は? 私たち二人の愛の時間の間に、野暮な奴が入ってこないでほしいな。』
「……誰が野暮やねん」
小谷野は、恍惚とした表情で女性を見上げ、急に芝居がかった口調で続けた。
『いや~失礼。私の友人が無粋な真似をしたね。ええと、可憐な君のお名前を伺ってもいいかな?』
生一はあきれ果てて、小谷野の肩を小突いた。
「オマエ、さっきまで背中が痛いって騒いでたんと違うんか? もう治ったんか? どんな神経してんのよ。あと、紅茶の返答ちゃんとしろ!」
しかし、小谷野はもはや、生一という存在がこの世にいないかのように振る舞っている。
すでに、彼の脳内では二人だけの完璧な世界が出来上がってしまっているようだった。
女性は、小谷野の必死な様子に少し戸惑いながらも、微笑んで自己紹介をした。
『私の名前は、ネイシャ。
ネイシャ・エフィデスと申します。
意識不明だった小谷野さんの看病をさせてもらいました。目覚めのご気分は、いかがですか?』
「なッッ! ネイシャはFです……だとォォォ!」
小谷野が、日本語で突拍子もない叫び声を上げた。
ネイシャさんは不思議そうに首を傾げたが、小谷野はすぐに英語の「紳士モード」に切り替えて微笑んだ。
『ネイシャさんですか。なんて素敵な名前だ。私はこの通り、もうすっかり大丈夫です。
きっと、あなたの看病が素晴らしかったのでしょうね。
ああ、あなたは私にとって、本当の女神のようだ』
『本当ですか…? あの、本当に無理をしないで。
立てますか?』
ネイシャさんが心配そうに手を差し出す。
「もう勃ってます」
小谷野は、下卑た顔を隠しもせず、日本語でボソリと呟いた。
『ああ、そうですね。立つね。立ちましょう。そう、あなたのために立ち上がってみせましょうか。フンッ!』
すっかり舞い上がった小谷野は、自分の逞しさを見せつけたい一心で、ベッドから勢いよく立ち上がろうとした。
筋肉に力を込め、格好良くキメようとしたその瞬間。
再び、脊髄に雷が落ちたような激痛が彼を貫いた。
気合も色気も一瞬で吹き飛び、小谷野は脱力して、そのままベッドの脇へと崩れ落ちた。
あの巨大な怪物から受けたダメージは、気合だけでどうにかなるような代物ではなかったのだ。
『まぁ、大変! 無茶をしないで!』
ネイシャさんは、悲鳴に近い声を上げて駆け寄り、力なく倒れ込んでいく小谷野を咄嗟に抱きとめた。
別に小谷野が計算して倒れたわけではなかったが、重力に従って落ちていった彼の顔は、ネイシャさんの胸元にダイレクトに着地した。
柔らかな、豊かな胸部全体が、小谷野の顔を包み込むような形になる。
『大丈夫ですか? どこか強く打ちましたか?』
至近距離から、ネイシャさんの吐息が混じった心配そうな声が降ってくる。
すると、小谷野はあまりの感動と幸福感に、大粒の涙を流し始めた。
「ああ……俺はきっと、この時のために……そう、この瞬間のために生まれてきたんだ……」
日本語で静かに、けれど魂を込めて呟いた彼の言葉に、ネイシャさんは困惑した顔をした。
『あの……本当に大丈夫ですか? 頭を打って、意識が混乱しているのでは……?』
『大丈夫です! 男・小谷野、あなたの愛があれば、こんな傷なんて屁でもありません!』
『でも、まだ湿布を張り替えなければなりませんから、一旦ベッドに戻りましょうね。』
ネイシャさんは、小谷野を赤子を扱うような手つきで、優しくベッドへと誘導した。
『ま、まさか……ネイシャさんが、私の体に直接、湿布を張ってくれるというのですか……?』
『何をおかしなことを言っているんですか。
あなたは病人なんですよ。シスターとして、怪我人を看病するのは当然の義務です。』
『シスターさん……そうか、だから天使のような慈悲を感じたのか……』
『天使なんて、大げさですよ。でも、目覚めて早々にこれだけお元気なら良かったです』
そう言って、ネイシャさんは屈託のない笑顔を見せた。
その慈愛に満ちた表情は、年上の落ち着いた女性特有の包容力に溢れていた。
一旦、小谷野を横たわらせると、ネイシャさんは机の上にある花瓶の、萎れた花を入れ替え始めた。
生一の視点から見れば、その鼻の下を伸ばしきった小谷野の表情は「キモい」の一言に尽きた。
彼は、花を活けるネイシャさんの後ろ姿を、穴が開くほどジロジロと見つめている。
赤毛が混じった、フワッとした長い髪。年齢は……おそらく二十歳前後だろうか。
そして首元までしっかり隠れた清楚な修道服を着ているが、それでも隠しきれない胸元の曲線。
そこには、確かな重量感があった。
先ほど、顔全体で受け止めたあのクッションのような感触を思い出し、小谷野は恍惚として呟いた。
「やっぱ……Fかぁ……」
『違いますよ、小谷野さん。エフィデスです』
ネイシャさんが、作業の手を止めずに指摘する。
「あ! はい、すいません。Fですね」
『エフィデスです』
「エフィデス……です、ですか?」
『エフィデス……です』
「エフィデス……です……か?」
『そうです。もう、間違えないでくださいよ。でも、私は普段、上の名前で呼ばれることが多いんです。
ネイシャの方が、呼びやすいでしょう?』
『はい! そうですね! すいません!』
『もう、小谷野さんったら、変な人』
ネイシャさんは、クスッと楽しげに笑った。
その時、小谷野はようやく、隣で冷ややかな視線を送っている生一の存在に気づいた。
「なんや、お前。おったんか」
「いるわ、ボケェ! ずっとここにおったわ!」
「あんなぁ、生一。目が覚めた時、ここが天国なワケないよなって思ってたんやけど、今確信したわ。ここ、間違いなく天国や!」
小谷野の能天気な言葉を聞きながら、生一はあの凄絶な夜を思い出していた。
あの時、生一は意識を失った二人を抱え、濁流の中を必死に泳いだ。
かろうじて意識があった自分が、二人をなんとか川岸へと打ち上げ……その後、力尽きて意識を失ったのだ。
気が付くと、この下流近くにある修道院で、シスター・ネイシャに匿われていた……というのが事の真相だった。
あの山賊軍団「バーサビア」の連中に発見されなかったのはまさに奇跡だった。
ネイシャさんは、自分たちにとって命の恩人以外の何者でもない。
「まったく、お前は……。俺がどんな死ぬ思いして、お前らを引き上げたと思ってるんよ。完全に舞い上がってからに……
まだ兼元は、意識が完全に公に戻ってへんのやぞ! お前だけ浮かれてる場合か!」
「ホンマなん?」
生一の言葉に、小谷野の表情がようやく真剣なものへと変わった。
* * * * *
小谷野のベッドから、壁を一枚隔てた隣の部屋。そこに兼元が寝かされていた。
兼元は、要塞で受けたチョークスラムによって気絶した状態で、あの下水へとダイブしたのだ。
その衝撃で一瞬だけ意識が戻ったものの、そこは排泄物の混じった汚水の中だった。
『おそらく、驚いて汚水を大量に飲み込んだ後、パニックのあまり再び気を失ってしまったのでしょう』
ネイシャさんが、悲しげな表情で推測を口にする。
その慈悲深い横顔を、小谷野はまたも見惚れながら見つめていた。
正直なところ、3人の中で兼元が一番危険な状態だった。
意識はあるものの今も、閉じた瞼の下で苦しそうに眉間に皺を寄せている。
『少し、荒療治をしますね』
ネイシャさんは、意識の戻らない兼元の上体を抱き起こした。
そして、ためらうことなく兼元の唇に自分の口を重ね、強く息を吹き込んだ。
いや……よく見ると、彼女は何かを「吸い出して」いるようにも見えた。
そのあまりにも密接な光景に、小谷野の顔が一瞬で驚愕のあまり白黒になったが、生一は黙って彼の肩に手を置いた。
「今、大事なとこやねん。これは“ノーカン(ノーカウント)”として考えろ」
小谷野は、必死に嫉妬を抑え込み、兼元の容態を見つめた。
ネイシャさんが三度ほど、マウストゥマウスのような行為を繰り返した直後。
「ガはハッ!」
兼元が激しくむせ込み、激痛に耐えるように体を丸めた。
そして、口から胃液と一緒に、濁った茶褐色の水を思い切り吐き出した。
部屋の中に、汚水特有の、鼻を突く嫌な異臭が広がる。
あの時、無意識のうちに飲み込んでしまったものだろう。
しかし、ネイシャさんは怯むことなく「ビンゴ!」と確信したような顔をした。
彼女はさっきよりもさらに真剣な表情で、兼元の鼻を片手で抑え、口移しの要領で彼の喉の奥に詰まった汚物を吸い出し始めた。
兼元に意識があるのかは分からなかったが、彼女が処置を行うたびに、兼元は泥混じりの汚水を何度も吐き出していく。
吐き出された汚水は、ベッドのシーツや、ネイシャさんの修道服、そして彼女の顔にも容赦なく飛び散った。
しかし、彼女はお構いなしに、何度も口づけをしては息を吹き込み、汚物を吸い出し続けた。
そのあまりにも献身的で、崇高な姿を見て、さすがの小谷野も胸に迫るものを感じたようだった。
一人の命を救うために、汚れも厭わず真剣に向き合う彼女の姿。
生一は、小谷野の横で静かに告げた。
「本当は黙ってようと思ったんやけどな……
お前も、同じような感じで口から汚物吐き出させてもらってたんやで、ネイシャさんに。
……全然覚えてなかったやろ?」
小谷野はそれを聞き、目から堰を切ったように涙を流し始めた。
そして、ネイシャさんを励ますように、掠れた声で叫んだ。
『ネイシャさん、もう少しだ! 頑張って!』
『ええ。兼元君は、私が絶対に助けるから』
彼女は、胃液まみれの汚水を何度も何度も吐き出させ、根気強く処置を続けた。
すると……兼元の呼吸が、荒々しく、けれど自律したものへと変わった。意識が戻り始めたのだ。
周囲に充満する異臭など、今の彼らには関係なかった。
ネイシャさんは、必死に呼びかけ続けた。
『兼元さん! 大丈夫、兼元さん! 大丈夫よ!』
彼女が叫ぶ「ダイジョウブ」という日本語は、おそらく生一が小谷野に付きっきりで看病していた時に教えたものだろう。
ネイシャさんが再び顔を近づけようとした、その瞬間。
兼元が反射的に、口に残っていた汚水を勢いよく吐き出した。
それは、至近距離にいたネイシャさんの顔面に、思い切りかかった。
しかし、ネイシャさんは顔を拭うことさえせず、兼元の名前を呼び続け、彼の上体を支え続けた。
自分の顔よりも先に、まずは兼元の口の周りをタオルで綺麗に拭き取りながら……
そんな彼女の聖母のような献身的な姿に、小谷野はいつの間にか涙が止まらなくなり、彼女という存在に心の底から惚れ込んでいた。
(自分を介抱し、目覚めさせてくれる時も……このFの女神が、俺のために……ここまでしてくれたのか……)
それから程なくして、兼元は完全に意識を取り戻した。
* * * * *
「なんだね、君! なれなれしいではないか、私の女神に対して!」
「そちらこそ、私が彼女から看病を受けている時に、壁際から悪霊のように覗くのはやめていただきたいのだが!」
意識が回復して間もないというのに、病室では小谷野と兼元の低レベルな言い争いが始まっていた。
「はぁああ? 嫁の仕事を見守るのは、夫として当然の事やろうが!」
「誰が嫁やと! ネイシャさんは俺の嫁なんですけどォォォ!」
「じゃあ、体力が戻ったら旦那の権限かけて決闘やな……!」
日本語で喚き散らしているため、すぐ近くで床を掃除しているネイシャさんには、二人が何を話しているのかは分からない。
「……うん、正常やな。二人とも、英語がこれだけ達者なのは驚いたけど、中身は変わってへんわ」
生一は、すっかり「通常モード」に戻った二人を見て、心から安心していた。
彼女、ネイシャさんの献身的なお世話に、3人は文字通り心底惚れ込んでしまったのだ。
生一もまた、彼女に対しては言葉に尽くせないほどの好意と、深い感謝の念を持っていた。
しかし、生一は彼女たちとの穏やかな時間に浸り切ることはできなかった。
あの山賊軍団……「バーサビア」の連中に、どうやって一泡吹かせてやるか。そのことばかりを、自分は真剣に考え続けていた。
(無事にとは言えんかったけど、あの要塞からは脱出できた。でも、まだ何も終わってへん……
こいつらは嫌がるかもしれんけど、早いこと他の村に現状を知らせに行ったり、この国の政府機関に助けを求めに行かんと……勇一たちがもたんかもしれん。
悠長にしてられる時間は、一秒も残ってへんのや。
八薙だって……まだ生きてるんか分からんのやから……)
生一は一人、窓の外に広がる、今にも雨が降り出しそうな曇り空をじっと睨みつけていた。
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