19-2 裸の心
【19話】 Bパート
夜明け前だろうか……薄暗い静寂の中、焚火の薪がパチパチと爆ぜる音だけが響いている。
静那がうっすらと目を開くと、そこには目に涙を溜め、泥にまみれた真也の姿があった。
「……良かった……」
本当に、絞り出すような掠れ声だった。
* * * * *
本当に目を開けてくれるのか、正直なところ五分五分だと思っていた。
彼女の凄まじい生命力にも感謝したが、真也は付きっきりで看病し続けていた。
定期的にヨモギ科の葉を患部から取り替え、水で手足、腕、そして頭を優しく洗った。
そして、何度も額に手を当てる。
体温を感じる…
熱はあるが、これは生きている証だ。
彼女の生存を確認しては、再び薬草の採取に出る。
その繰り返しだったが、ついに蓄えていた水が尽きかけていた。
雨は止み、地面の水たまりも既に消え去っている。
水の確保ができないのなら、意識の戻らない静那を背負い、水脈を探して彷徨うことも辞さないと考えていた。
でも“おりこうさん”な事に、水が尽きる寸前で目覚めてくれた。
* * * * *
「真也……」
名前を呼んでくれた、その一言だけで、再び涙が溢れてくる。
自分でも、なぜこんなに涙が出るのか分からなかった。
嬉しくて堪らないからなのか。
それとも、無事に命を取り留められたことへの深い安堵からなのか。
「静那……水……いるだろ」
脱水症状が怖かったので、自分はまずそれを尋ねた。
静那は、力なく、けれど確かに頷いた。
「よし、待ってろ」
水は、すぐに飲めるようにスタンバイしてあった。
横たわっている彼女の後頭部を優しく支え上げ、口元にゆっくりと水を流し込んでいく。
一滴もこぼさないように、細心の注意を払って。
それでも、静那の口元からいくらかの水がこぼれ落ちてしまう。
けれど、彼女は少しずつ、確かに水を飲み込んでくれた。
飲み終えると、彼女は小さく安堵の息を漏らした。
静那が意識を取り戻すまで、実に4日を要した。
その間、彼女の体温は感じていたものの、「もしかしたらこのまま……」という不安は、一秒たりとも消えたことはなかった。
急に容体が悪化することだってある。
自分には医者のような専門知識がない分、それが怖くて仕方がなかった。
命さえ助かれば、あとはどうにでもなる。けれど、もし助からなければ……
そんな、暗い深淵のような不安とも、自分はずっと戦っていた。
その戦いが、彼女の目覚めによって、ようやく一つの終わりを迎えたのだ。
もう水のストックは底を突いているが、静那にはそんな心配をさせたくはなかった。
この密林を歩き回る中で、自分は一つ、新しい知恵を得ていた。
「朝露」だ。
「静那……ちょっと休んでて。
水、持ってくるから」
そう言って、真也はその場を後にした。
静那は無言のまま、不安そうな、けれど信頼を込めた目で自分を見つめていた。
自分は動けない。今は、真也を信じるしかない……彼女の瞳はそう語っているようだった。
夜明け前のこの時期、寒暖の差で草木に付いた朝露を集めれば、飲み水になるはずだ。
そこまで寒暖差が激しい地域ではないが、ここは鬱蒼とした密林だ。
葉の数だけ、集められる水滴は無限にある。
真也は紙コップを手に、一つひとつの葉から朝露を集めていった。
紙コップは、自分たちが着地した後部ユニットの中にストックがあったものだ。
一週間以上もこの環境にいれば、さすがに体が馴染んでくる。
「本当にそうか?」と他のメンバーに突っ込まれそうだが、人間は水源さえ確保できれば、最低限の生存条件はクリアできるのだ。
まぁ、猛烈な空腹であることは認めざるを得ないが。
いつもより力が入らず、膝が笑うのは事実だ。
静那を瓦礫から助け出した時の、あの火事場の馬鹿力が最後だったのかもしれない。
今はとにかく、何か栄養のあるものを口に入れたかった。
* * * * *
そしておそらく、目覚めたばかりの静那だって空腹のはずだ。
彼女の顔や手足は火傷で腫れ上がり、その体は見る影もなくやつれていた。
早めに何か栄養を取らせなければ、この先は危ないかもしれない。
人間の自己治癒力だけでは、限界があるのだ。
そう考えると、喉の渇きを満たした後は、一刻も早くこの場を離れるのが得策だと思えた。
そういえば、一週間近くも経つのに、先輩方が戻ってくる気配が全くない。
行き違いになっているのかもしれない。
けれど自分は、遺体を綺麗に並べ、最低限の整理は済ませてある。
捜索隊だって、いずれは来てくれるはずだ。
ヘリコプターの音が聞こえたら、声を張り上げて合図を送ればいい。
……いや、やっぱり食べ物がないのはキツイ。
ここから移動……しようか。
静那が意識を取り戻してくれたおかげで、真也の中に「これからのビジョン」が急激に鮮明になっていく。
手に持ったコップにある程度水が溜まったので、静那の元へと急いだ。
「ぎゃあぁああああああ!」
しかし次の瞬間、自分の喉から悲鳴が上がった。
横たわっている静那の頭元に、ハイエナかオオカミのような哺乳類が、彼女の頭に食いつこうとしていたのだ。
真也は水がこぼれないように細心の注意を払いながらコップを地面にそろりと置くと、脱兎のごとく現場へ突進していった。
* * * * *
虫の息で横たわっている静那は、野生動物からすれば格好の餌食に見えたのだろう。
まずは獲物の息の根を止めてから、ゆっくりといただこうとしたのかもしれない。
静那の喉元には牙が食い込んだ痕があり、そこから今なお鮮血が流れていた。
「ごめんよ……ごめんよぉ……!」
動脈までは達していない。
自分は泣きながら、傷口をまず水で洗い流した。
さっき必死に集めてきた朝露は……静那が飲むための数口以外、すべて消毒のために使い切ってしまった。
静那の視界に入る自分は、さっきから泣いてばかりに見えているだろう。
野生動物特有の毒や菌は、入っていないだろうか……
「狂犬病」という言葉が頭をよぎり、背筋が凍ったが、今は「心配ない」と自分に言い聞かせるしかなかった。
さっきから、自分は確証の持てないことばかりを繰り返している。
首の後ろ側も、鋭い歯で噛みつかれていた。
野生の動物はまず獲物の首を噛みちぎるのが鉄則なのだろう。
出血させ、獲物の運動能力を完全に奪う、理想的な狩り。
でも、今はそんなことに感心している場合じゃない!
予断を許さないことだらけの、地獄のような密林。
真也は着ていた上着をビリビリと引き裂き、それを包帯代わりにして静那の首に巻き付けた。
首に仮の包帯を巻くため、彼女の頭を支えて状態を上げようとした時……頭皮にも、獣の歯形がしっかりと刻まれているのが見えた。
「ごめんよ……」
真也はもう、何度も何度も謝るしかなかった。
まだ自力で動けない静那を背中に背負い、自分の体に固定してから歩き出す。
背中に向けて、語りかけるように話した。
「先輩たちが、静那のことを心配してる。みんな、泣いてたんだ。
だから早く会いに行って、みんなを驚かせてあげよう」
水源の確保や食料調達をしなければこの先持たない…というのが本音だったが、静那が「生きよう」と思える原動力が必要だと思い、自分はあえて「先輩たちのこと」を引き合いに出した。
「ん…」
力なくだけれど、背中で静那が確かに返事をしてくれた。
喉の噛み傷の出血も、ようやく止まったようだ。
「先輩たちや八薙君は今、捜索隊を呼びに行ってくれてるんだ…」
これまでの経緯を丁寧に説明しながら、真也は一歩一歩、慎重に歩を進めた。
静那が「ん……うん……」と相槌を打ってくれるたび、己の心に微かな灯がともるようだった。
* * * * *
水脈は、比較的すぐに見つかった。
真也は心の底からホッとした。
阿蘇での生活の中、自然に身を置いて五感を研ぎ澄ませてきた経験が、水脈を捉えるアンテナとなっていた。
少し水を掬い、静那に飲ませる。
出発した時よりも、彼女の喉がしっかりと動いているのが分かった。
この水脈を辿れば、必ず大きな川に繋がっているはずだ。
そこから半日ほど歩いたところで、視界が開け、無事に川が姿を現した。
この川に沿って下っていけば、いずれは人の住む場所に出くわすだろう。
だが、今日はここまでにしようと決めた。
日中歩き続けたせいで、静那の体調はまだ万全とは言い難い。
たっぷりの水で彼女の体を洗い、消毒をして、夜は温かくして早めに休ませよう。
川沿いの、周囲からの見通しが良い場所を陣取り、そこに静那を横たわらせた。
ヨモギ科の葉を新しいものに替え、患部に当ててから毛布をかける。
「あり…がと……」
静那が、消え入るような声でお礼を言った。
「とんでもない。今まで、どれだけ俺が静那に助けられてきたと思ってるんだ」
自分は、彼女の耳元で囁くように返した。
先ほどの「ありがとう」という声がしゃがれていたので、川から再び水を汲んできて口元へ持っていく。
腕は……良かった、少し動くようだ。
まだ火傷の跡が生々しい手で、静那は自分からコップを受け取ろうとした。
けれど、その動きはあまりにも弱々しい。
自分がコップを口元へ運ぼうとすると、静那はそれを拒むように、微かな力を込めた。
彼女は、自分の力で「自分で」水を飲みたいのだ。
「じゃあ、体を起こしてるから。自分で飲んでいいよ」
腕の痛みはあるだろうが、これは彼女なりのリハビリなのだろう。
一生懸命にコップを口元へ運ぼうとする静那。
真也はただ、黙ってそれを見つめていた。
生きていてくれた。その事実が、猛烈な空腹さえも忘れさせてしまうほど、ただただ嬉しかった。
何より、自分のこの手で静那を救い出せたということ。
ようやく……たった一つだけれど、自分との約束を果たせたような気がした。
水を飲もうと必死に足掻く静那を見ながら、自分は心の中で何度も繰り返した。
(本当に、生きていてくれてよかった……)
一分ほどかけて、静那はコップの水を飲み終えた。
移動中、何も口にしていなかったから、喉が相当渇いていたのだろう。
急いで川から二杯目の水を汲んでくる。
近くに川があるというだけで、これほどまでに心が軽くなるのか。
彼女にコップを手渡すと、彼女はそれをゆっくりと口へ運んだ。
「ありがとう」
今度は、少しだけしっかりとした口調だった。
まだ夕方には早いが、今日はここで夜を越そう。
川を下れば人がいる。けれど今は焦る必要はない、静那の調子が戻るのを待つのだ。
川沿いは密林の中とは違い、風がよく通り、湿気も気にならない。
「マイナスイオン」という言葉が脳裏を掠める。この環境が、彼女を癒してくれるはずだ。
* * * * *
一時間ほどして、静那が再び水を求めてきた。
「よしきた」と自分は川へ走り、水を汲んできた。
少しずつ辺りは暗くなってきたが、まだ視界は確保できる。
「ん……んん」
今度は、一気に飲み干した。
それだけ、体力が戻り始めている証拠だろう。
「また飲みたくなったら、ここに置いとくからな」
自分はもう一つ、水の入ったコップを彼女の枕元に置いた。
そして、常に彼女を視界に入れられる範囲内で、新しい薬草の採取を行った。
野生動物がいつ襲ってくるか分からない。
大型の猛獣なら、少し目を離した隙に彼女を咥えて連れ去ってしまうかもしれない。
その恐怖から、真也はある程度の草を摘むと、すぐに彼女の元へと戻った。
静那は川風にあたりながら、水を飲んで静かに横たわっていた。
自分はホッとした。
水で濡らした上着の一部をタオル代わりにして、彼女の腕や足、火傷を負った頭皮を優しく洗ってやる。
彼女は気持ちよさそうに、そっと目を閉じた。
手足の汚れを拭き取り、清潔に保つ。
その後、彼女を毛布で温かく包み込み、川で自分の衣服の洗濯を済ませた。
そうして、夜が深く…静かに更けていった。
* * * * *
夜。
ふと、静那が目を覚ました。
真也はずっと見張りをしていたので、彼女の隣で起きていた。
「どうしたの? 寒くなった? それとも水…? さすがに、お腹減ったよな」
申し訳なそうに問いかける自分に対し、彼女は微かに微笑んで、こう言った。
「…いい。ここに、いて」
見上げれば、星空が驚くほど綺麗だった。
月と星の光に照らされた、静那の顔を見つめる。
「星が、きれい…」
星空の美しさに当てられて起きてしまったのだろうか……
そんな彼女に対し、真也は心からの優しさを込めて、言葉を投げた。
「静那…生きていてくれて、ありがとう。
もう……どこにも行かないでほしい。
二度と一人でいなくなるなよ。
その…すごく、寂しかったんだ。
それに、先輩たちだって、寂しかったに決まってるだろ」
その言葉を投げた瞬間だった。
さっきまで穏やかだった静那の表情が、急に、苦しげに強張った。
「…じゃあ…じゃあ、なんで……?」
堰を切ったように、静那の唇から、震える、けれど絞り出すような感情が溢れ出した。
それは、驚くほどはっきりとした、重い言葉だった。
「じゃあ、なんでいつも……私の前からいなくなるの?」
「弱いのが嫌だから? 強くならないと、駄目だから……?」
「でも……強くなくてもいいよ! 弱くてもいいから、ここにいてよ!」
「弱くてもいい! 弱くてもいいのに……なんで、どこか行っちゃうのよ!」
「強くならなくてもいいから! そばにいてくれたら、それでいいのに!」
「居て……くれたら、それで良かった……」
「弱くてもいいから、一緒にいてよぉ!」
「なんで……居てくれなかったの……」
「寂しくて……寂しくて……寂しくてさ……話をしたいのに……」
はっきりとした声だったが、途中から激しい涙声に変わっていた。
精一杯の力を振り絞り、魂を削るように叫んでいるのが伝わってきた。
「真也は、自分のことしか見ていない」……そんな、隠し続けてきた怒りが、剥き出しの言葉となって突き刺さる。
彼女がどれほどの孤独に耐え続けてきたのか。その深淵に、真也はようやく気づかされた。
これが、あの穏やかな笑顔の下に隠されていた、彼女の本当の心だった。
暗闇の中でも分かるほどの大粒の涙を流しながら、彼女は今出せる限りの声を張り上げた。
折れそうなほど細い指先で、驚くほど強く、自分の肩を掴みながら。
「……なんでもっと、一緒に居てくれなかったの?」
「なんで……何も言わずに居なくなるの?」
「なんでもっと、自分と一緒に居てくれなかったの?」
「なんで……」
「なんでよぉ……!」
「私……寂しかったよ。」
「私、寂しかった……」
「寂しくてさ……もう、それだけだった……」
「だから……」
「もう、そばにいてよ……!」
「どこにも行かないで! もう行かないで!」
「寂しかった! 寂しかったよぉ!」
「話がしたかった! 一緒に学校に行って、みんなと仲良くしたかった!」
「仲良くしたかっただけなのに……」
「本当はさ…クラスのみんなと仲良くしたかった。女子のみんなと、お話したかった!」
「ちゃんとみんなと…仲良く、お話したかった…
なんで…なんで、うまくいかな…かったのか、分かんなくて。
すごく、辛かった! 一人で、寂しかった!」
「寂しかったよぉ!」
「私が、何か悪いことしたのかなって……
一緒に、お話がしたいのに……みんな、私を……む……し……して……」
「寂しかったの!」
「仲良く……したかった! したかったのに……!」
「うわぁぁぁぁぁあああ、ぉぉおおおおおおお……!!」
そこから彼女は、真也の腕の中で、子供のように声を上げて泣き続けた。
さっきまでのか細い声からは想像もつかない、力強く、芯のある叫びだった。
人間が本気で心の底から泣くときは「わああん」という泣き声ではなく、腹の底から絞り出される「咆哮」になるのだと、自分はかつて聞いたことがある。
自分の裸の心を、醜いところも、弱いところも、全てさらけ出しながら。
彼女は今、まさに、心の底から叫び、泣いたのだった。
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