17-1 追憶の彼方
【17話】Aパート
夕刻が迫っていた。
俺たち7名が、あの地獄のような墜落地点から南を目指して歩き始めてから、既に10時間ほどが経過していた。
仁科さんと兼元が腕時計をしていたおかげで、かろうじて経過した時間だけは把握できている。
けれど、激しい時差と入り組んだ密林のせいで、この場所の正確な時刻までは分からなかった。
ただ、木々の隙間から差し込む光がオレンジ色に濁り、影が長く伸びていることで、夜の訪れが近いことだけが肌で感じられた。
皆、弱音一つ吐かずに、ただ一心不乱に獣道を切り拓き、進んでいた。
だが、肌にまとわりつく不快な湿気と、8時間という長丁場の行軍は、確実に俺たちの体力を削り取っている。
とりわけ、喉の渇きが限界を超えようとしていた。
喉の奥が、まるで紙やすりで擦られたかのようにヒリヒリと痛み、唾液を飲み込むことさえ苦痛だ。
水が欲しい。
泥の混じった水たまりの水であっても、今の俺には宝石のように見えるだろう。
何か、一滴でもいいから水分を補給しなければ、意識が遠のいてしまいそうだった。
成人の体の約60%は水だと言われているが、水分を失った人間がこれほどまでに脆いものだとは知らなかった。
まず、正常な判断力が失われていく。
手足の筋力は目に見えて衰え、激しい眩暈と頭痛が、脱水症状の兆候として容赦なく襲いかかってきた。
歩き始めて半日。
まだ絶望に沈みきるほどではないにしても、このままあと3日も水が見つからなければ、俺の体は間違いなく動かなくなる。
「は、は、は……っ……」
すぐ前を歩く葉月の呼吸が、苦しげに乱れているのが聞こえた。
湿った空気を必死に肺へ送り込もうとする、その掠れた音に俺は胸を締め付けられる。
「八薙、ちょっと休憩にしよう。葉月が、少し……」
「えぇ。葉月先輩!大丈夫です?」
先頭を行く八薙が、すぐに足を止めて振り返った。
彼はこの中で最も体力があり、その目はまだ死んでいない。
* * * * *
俺は葉月の顔を覗き込んだ。
彼女の唇は白く乾き、水分不足のせいで喉を鳴らすのも辛そうだ。
「コレ……飲んで下さい」
八薙がズボンのポケットから取り出したのは、液状の酔い止め薬だった。
彼は元々乗り物酔いをしやすい体質で、旅行中はずっとこの薬を肌身離さず持ち歩いていたのだ。
ほんの数口分の液体。けれど、今はそれが命を繋ぐ雫に見えた。
葉月は「心配させてごめん……」という申し訳なそうな視線を送ったが、今の自分には意地を張る余裕がないことを悟り、差し出された薬をゆっくりと飲み干した。
一滴も無駄にしないように、必死に喉を動かす彼女の姿に、俺たちはただ黙って見守るしかなかった。
兼元や小谷野、そして生一も、男のプライドで耐えてはいたが、疲れはピークに達している。
無駄な体力を使わないように皆が一様に無口になり、荒い息遣いだけが密林に響く。
その瞳からは、徐々に精気が失われつつあった。
仁科さんは、どうだろうか。
俺が彼女の方へ視線を向けると、そこには驚くほど強い「光」が宿っていた。
静那に命懸けで助けてもらったこの命を、何があっても無駄にはしない。
そんな凄まじいまでの気迫が、彼女の華奢な体を支えているようだった。
「八薙……日が暮れる前に、そろそろ行こう」
俺は八薙に出発を促した。
いつまでも休んでいたいが、水源を見つけるまでは、俺たちに安息の場所なんてないのだ。
こんな怪物がいそうな密林地帯で、無防備に夜を迎えることなど死を意味する。
「了解です」
八薙は短く頷き、再び鬱蒼とした森の中へと足を踏み出した。
* * * * *
夕闇が迫る中、俺たちは再び無言の行進を始めた。
泥濘に足を取られ、その度に鈍い音を立てて倒れそうになるが、それでも足を止めない。
ここは、おそらくイランという国のどこかだ。
もし人に会ったとして、彼らは一体何語を話すのだろう。
ペルシャ語か、それともヒンディー語か。
どちらにせよ、俺たちには「助けて」の一言すら伝える術がない。
言葉が通じないということが、これほどまでに命に直結する恐怖だとは思いもしなかった。
それでも、脳の隅っこにある記憶を必死に手繰り寄せる。
「ナマステ……」
こんにちは、という挨拶の言葉。これなら、かろうじて言える。
もう、道端で誰かに会ったら、ナマステと叫びながら助けを求めるしかない。
恥も外聞も捨てて、なりふり構わず叫んでやろうか……
俺がそんな極限の思考を巡らせていた、その時だった。
先頭を歩いていた八薙と生一が、弾かれたように何かに反応し、走り出したのだ。
「どうした生一! 何かあったのか!」
「分からん、けど先に行って確認してくる! お前らはゆっくり来い!」
何らかの“希望”を見つけたのだろう。
それが川であれ、小さな水脈であれ、どうか命を繋ぐものであってくれ。
俺たちは祈るような思いで、重い足を引きずり、二人の後を追った。
* * * * *
生一と八薙が辿り着いた場所……そこには、小さな湖が広がっていた。
それは学校のプールほどの広さしかない、天然のオアシスだった。
歩き始めて10時間。
遅れて到着した俺たち5人も、その水面を目にした瞬間、地獄から生還したような深い安堵に包まれた。
小谷野が、我慢しきれないといった様子で湖へと駆け寄った。
水を、その手に掬おうとした、その時だ。
「あッ! 待っ……ッ!」
八薙が掠れた声に近い怒鳴り声を上げ、小谷野の後ろ襟を鷲掴みにした。
そのまま、暴力的なまでの力で後ろへと引き戻す。
小谷野はむち打ちのような勢いで背中から地面に叩きつけられ、激しく悶えた。
「カハッ! 何すんだよ、お前…!」
怒りを含んだ小谷野の声に、生一が無言で湖の一点を示した。
そこには、水面から顔を出した大きな岩…ではなかった。
ゴツゴツとした、生き物の背中が浮かんでいた。
ワニだ。
湖の主と言わんばかりの、巨大なワニの背中。
小谷野はそれに気づいた瞬間、「あわわわ……」と声にならない悲鳴を上げながら、無様に後ずさりした。
* * * * *
俺も、あの背中をただの岩だと思い込んでいた。
喉の渇きで、俺の脳も狂っていたのだ。
もし、小谷野ではなく俺が先に湖へ向かっていたら。
八薙が止めてくれなかったら、俺は今頃、あの濁った水の中に引きずり込まれ、ワニの餌食になっていただろう。
水分を失うと、人間はここまで冷静さを欠くのか。
俺は自分の浅はかさに、背筋が凍り付く思いだった。
「……その、八薙……ありがと……ハァ、ハァ……」
小谷野はパニックになりながらも、必死に呼吸を整えていた。
「危なかったすよ。まだ他にも潜んでるかもしれないし……」
八薙の言葉に、俺たちは湖の静寂が、恐ろしい死の罠に思えて仕方がなかった。
けれど、希望はまだ残っていた。
生一が湖を挟んだ対岸の方向を、力強く指さしたのだ。
そこには、獣道ではない、明らかに「人間」が通るために作られた平坦な道があった。
あの道を辿れば、きっと人が住む集落へ辿り着けるはずだ。
俺たちはワニを刺激しないよう、湖を大きく半周するように森の中を迂回し、その道を目指した。
* * * * *
やがて俺たちは、人の手が加わった形跡のある道へと足を踏み入れた。
日は今にも沈みそうだったが、この道の発見は、俺たちに新しい活力を与えてくれた。
明らかに、これまでの森の中とは歩きやすさが違う。
簡易的ではあるが、人の手によって整備された、間違いのない「道」だ。
これなら、現地の人と出会うのも時間の問題かもしれない。
俺たちの足取りは、自然と軽くなっていった。
* * * * *
そしてついに、俺たちは待望の“人間”と遭遇した。
道を歩いてきたのは、3人の男性だった。
やっと助かる、その一言が胸に込み上げ、俺たちは安堵の表情で彼らを見つめた。
けれど……葉月の目だけは、鋭く彼らを警戒していた。
中東の服を纏った男たちは、俺たちを舐めるようにジロジロと眺め回すと、何やら不穏な言葉を吐き散らした。
そして、一人の男が俺の腕を強引に、乱暴に掴んできた。
その瞬間だった。
葉月が電光石火の動きで男の腕を捻り上げ、俺から引き離したのだ。
「何をしているんだ!」と驚く俺に、葉月が掠れた声で叫んだ。
「この人たち、山賊よ! 逃げて!」
考える余地などなかった。
俺たちは山賊が現れた道を、無我夢中で突き抜けるように走り出した。
一人の男は葉月に腕を極められて地面を這っていたが、残りの二人は脇から小型の槍のような武器を抜き放った。
山賊……追い剥ぎだ!
俺たちは残された最後の一滴の体力を振り絞り、必死に逃走を試みた。
だが、異変に気づいた八薙がすぐに足を止めて振り返る。
信じられないことに、葉月が一人、武器を持った男たちを相手に応戦していたのだ。
相手の手には、殺傷能力のある鋭い刃物が握られている。
「葉月先輩っ!」
八薙の叫び声に、葉月は振り返ることなく、日本語で短く、けれど強く怒鳴った。
「仁科先輩を命懸けで守りなさい。約束して!」
彼女は、俺たちを逃がすために一人で盾になる覚悟を決めていた。
女性一人に任せるなんて無茶だ。
俺は一瞬、彼女に加勢しようと身を翻そうとした。
だが、八薙は違った。
彼は苦渋の表情を浮かべながらも、仁科さんの肩を強く叩くと、「こっちだ!」と叫んで再び走り出した。
葉月は幼少期から空手一筋で鍛え上げてきた。体は小さくても、並の男よりは強い。
けれど、これは試合じゃない。相手は刃物を持っているのだ。
しかも、葉月はこの中で最も体力を消耗していたはずだ。
このまま逃げるという判断が、果たして正しいのか、俺には分からなかった。
けれど、「見殺しにしたわけじゃない」と自分自身に言い聞かせるように、俺もしんがりを務めながら全力で走り続けた。
山賊たちが追いかけてくる気配は、今のところない。
葉月の悲鳴も、聞こえてはこない。
彼女はまだ、たった一人で3人を食い止めてくれているのだろうか。
絶対に死なないでくれ、と心の中で何度も叫ぶ。
しかし、俺たちの体力も限界だった。
喉を焼くような息遣いは、いつしか「ガッ、ガッ」という喉の奥から漏れる異音に変わっていた。
頭はクラクラと熱を帯び、意識が飛びそうになるが、今はただ逃げるしかなかった。
まず俺たちが生き延び、体勢を整えなければ、葉月を助けに行くことさえできないのだから。
俺たちは各々の限界を振り絞り、その道の先にある広場へと飛び出した。
* * * * *
そこには、小さな川が流れていた。
今度はワニのいる湖ではない。透き通った水が流れる、救いの川だ。
あそこまで……!
そう思った瞬間、俺たちの前に、希望を粉々に砕く絶望が立ち塞がった。
広場には、大勢の山賊たちが待ち構えていたのだ。
その数は、あまりにも多すぎた。
周囲の小高い丘の上にも数名の影が見え、完全に包囲されていることが分かった。
八薙が山賊たちを鋭く睨みつけたが、すぐにその表情から力が抜けた。
誰か一人を守りながら、この絶望的な包囲を突破することは、不可能だと悟ったのだ。
八薙は隣にいた生一と俺に視線を投げると、静かに、観念のポーズを取った。
仁科さんを守るための、苦渋の選択だった。
俺たちは捕らえられ、後ろ手にロープを回された。
入念に、かつ痛いほどきつく縛り上げられ、6人全員が芋虫のように連結させられた。
賊たちが連行の準備を進めている中、10名ほどの男たちが、一人の少女を乱暴に運び込んでくるのが見えた。
「葉月!」
仁科さんが絶叫した。
運ばれてきた葉月の肩口には、痛々しい刺し傷があった。
傷口はそれほど深くはないようだが、鮮血が彼女の服を赤く染め、見ていられないほどだ。
多勢に無勢。10人を相手に、彼女は俺たちのために死力を尽くして戦ってくれたのだ。
一人の女性に対して、これほど酷いことを……
俺は煮えくり返るような怒りを感じたが、手足を縛られた俺たちには何もできなかった。
八薙は唇を噛み締め、悔しさに顔を歪めていた。
葉月もまた連結され、棒で何度か叩かれた後、無理やり歩かされた。
疲弊しきった足腰に、縄の重みが食い込む。
彼らは、俺たちを一体どこへ連れて行こうとしているのか。
こんな状況で、本当に真也の元へ捜索隊を送ることなんてできるのか。
だが、何よりも優先すべきは、葉月の治療だった。
出血したまま、ぐるぐる巻きの縄に縛られて歩く彼女の姿は、俺の心をこれ以上ないほどに抉った。
とっさに体をはって命懸けで俺たちを守ってくれた彼女を、こんな目に合わせてしまった。
俺たちは、自分の無力さに、ただ歯を食いしばるしかなかった。
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