16-2 生きて
【16話】Bパート
森が……燃えている。
眼前に広がるのは、あらゆる生命を焼き尽くそうとする業火の海だ。
激しい風が吹き荒れ、飛び火した炎が次々と周囲を飲み込んでいく。
その風に煽られ、悍ましいまでの黒煙が天へと立ち昇り、墜落現場は凄惨を極めていた。
真也は、服の袖で口元を覆い、立ち込める煙と瓦礫をかき分けて被災地の中心部を目指した。
煙という名の「瘴気」が視界を遮り、一寸先も見えない。
機体の残骸すらまだ見えず、ここが中心部だという確証もないが、真也はありったけの声を張り上げ、静那の名を叫び続けた。
普段、大声を出すことなどなかった彼が、今は喉が裂けるほどの絶叫を繰り返している。
だが、静那はおろか、他の生存者の声すら、一切聞こえてこない。
息を吸い込むたびに、熱せられた空気が喉を焼き、肺をえぐる。
あまりの苦しさに、真也は一度、立ち昇る煙の中心から距離を置いた。
荒い呼吸を整え、態勢を立て直す。
彼はとっさに服の一部を引き裂き、口元を覆う簡易的なマスクを作った。
そして再び、炎の壁へと向かい、静那の名前を呼び続けた。
だが、風に乗って舞い上がる黒煙が、容赦なく彼の視界と呼吸を奪う。
「ゲファッ! ゲハッ! ゴファッ!」
肺の奥まで吸い込んだ煙に、真也は激しくむせ返った。
喉がやられ、血が混じるような激しい咳が出る。
それでも、彼は怯まなかった。
再び火の粉の舞う深部へと踏み込み、声を張り上げ続ける。
今の彼にできるのはただこれだけだった。その背中には、言葉にならない悲壮感が漂っていた。
吹き荒れる風の音だけが、真也の虚しい叫びを遠くへと運び去っていく。
* * * * *
奇跡的に助かった勇一たちも、炎が渦巻く中心地へ近づいてきた。
その耳に、静那の名前を絶叫し続ける真也の声が届く。
その壊れた楽器のような痛々しい声を聞いて、全員の目から自然と涙が溢れ出した。
仁科さんは口を両手で押さえ、声を殺して泣き崩れた。葉月も、そんな彼女を支えながら、人目も憚らずに目頭を赤く濡らしている。
煙の向こうから、真也の叫びが、何度も、何度も響いてくる。
その気持ちが痛いほど分かるからこそ、俺たちの胸は、張り裂けそうな想いで満たされた。
空を覆う絶望的な煙と火の粉が、現場の惨状を無言で物語っている。
ふと、荒れ狂っていた風が、一瞬だけ凪になった。
真也はハッとして周囲を見渡し、風向きを見極めた。
今なら、逆側から回り込めば、機体の損傷状況が確認できるかもしれない。
煙をかいくぐり、風が止んだその隙を突いて、真也は飛ぶように反対側へと回り込んだ。
そして、燻る煙の合間から、その「惨劇」の一部を……目撃した。
それは、まさに「地獄」と呼ぶにふさわしい光景だった。
人間という存在は……時速数百キロで激突すれば、これほどまでに無残に砕け散ってしまうものなのか。
真也の視界に、この世のものとは思えない断面が並ぶ。
破裂した腹部から飛び出した腸が、剥き出しの木の枝や根っこに、悍ましい装飾のようにぶちまけられ、巻き付いている。
とてもじゃないが、誰かに描写して伝えることなどできない、正視に耐えない有様だった。
枝に絡まり、だらりと垂れ下がった臓器は、まるで加工されたソーセージのような質感で、そこに「命」があったことさえ疑いたくなるほど、ただの肉塊として散乱していた。
* * * * *
大多数の遺体は、もはや人の形を留めていなかった。
露出した臓器が炎に炙られ、強烈な異臭……焼けたタンパク質と油の、鼻を突く匂いが立ち込めている。これはおそらく、数日間は消えないだろう。
黒焦げになったバラバラの肢体と、無造作に散乱した色鮮やかな手荷物。
折り重なるようにして、最期まで離れなかったであろう家族の死体。
その凄惨な光景に、真也は顔をしかめ、胃の底からせり上がる嘔吐感と必死に戦った。
凄惨という言葉すら生温いその現場で、それでも彼が目を逸らさず、一歩ずつ足を踏み出すのには明確な理由があった。
誰でもいい。
一人でも生存者はいないのか…それを自分の目で確認するまでは、ここを離れるつもりはなかった。どれほど惨たらしい残骸が転がっていようとも、彼にはその覚悟があった。
暫くして、再び風が吹き始め、火が勢いを増した。
真也が立っていた場所はあっという間に黒煙に包まれ、火の粉が牙を剥く。ここに留まり続けるのは、もはや限界だった。
焼き付いた光景を脳裏に刻み、彼は一旦、炎の海から距離を置いた。
離れたところで、再び服の端をちぎり、新しいマスクをこしらえた。
煙がもたらすダメージは、想像を絶するほどに身体を蝕んでいた。
並の人間であれば、とっくに酸欠で意識を失い、倒れ込んでいただろう。
そこへ、重い足音が聞こえてきた。
遅れて勇一たちが、凄惨な現地へと到着したのだ。
真也は……狂ったように捜索を続けていたのか、ハァハァと口で荒く息を吐き出していた。
煙にさらされた目は真っ赤に充血し、絶え間なく涙が流れている。
激しい業火の熱気が、周囲の酸素を奪い取っていく。
息をすることさえ困難なその場所で、最初に口を開いたのは八薙だった。
「どうだった……? 武藤さん、いたか……?」
状況が絶望的であることは、目の前の惨劇を見れば分かる。それでも、聞かずにはいられなかった。
「いや……まだだ。見づかって……ない……」
真也の声は、短く、ひどくしゃがれていた。大声を出し続け、煙に喉を焼かれたせいで、もはや原型を留めていなかった。
「もう少し風が止んだら、みんなで静ちゃんを探そう! 全員で探せば、きっと……だからー」
仁科さんの震える呼びかけを、切り裂くような怒鳴り声が遮った。
「来るなァッ!!」
真也の叫びに、全員が弾かれたように静まり返った。
こんなにも激しく、拒絶するように怒鳴る真也を、俺たちは初めて見た。
辺りには、パチパチと木々が燃える乾いた音だけが響いている。
少しして、真也は喉を激しく詰まらせ、むせ返りながら、皆に伝えた。
「ごめん……怒鳴ったりして……ごめんなさい、仁科先輩」
「(大丈夫よ)」と、仁科さんは蒼白な顔で小さく首を振った。
「この先には……来ないでほしい。お願いだから、立ち入らないでほしいんだ。
煙も危ないけど……皆には、この先の光景は……見て……ほしくない!
お願いだ、ここから先は僕一人にやらせてほしい。
死体を弔うのも……生存者を探すのも……僕がやると言ったからには、きちんとやるから……」
絞り出すように発せられたその言葉。
学校も違う真也が、俺たちに向けてこれほど切実な「願い」を口にしたのは、これが初めてだった。
彼がどれほど真剣なのか、その決意の重さが俺たちに伝わってきた。
そして、その先に広がる光景が、どれほど残酷であるかということも。
「先輩方と亮二は、捜索隊を呼んできてほしい。
僕も今、冷静に考えてみた……
今は救助を呼んで、この機体を引き上げる作業が何より大事だと思う」
真也は、激しく咳き込みながら言葉を継いだ。
「僕たちが闇雲に動いても、煙にやられるだけだ。
見てよ、向こうの方。ドス黒く沸き上がるような煙……あれをさっき吸い込んだだけで、気絶しそうになった。
とてもじゃないけど、素人が手作業でどうにかできる規模じゃないんだ。
…僕は静那を探す。絶対に探すよ。生きてるかどうかは…分からない。
でも、見つけるまで諦めない。救助が来るまで、僕がここに残って探してるから…
だから先輩方、まずは助けを呼んできて。
お願いだ。僕たち、どのみち食べ物も水もないんだ。ここに全員でいたら、肺をやられて全滅しちゃうよ」
言い終わるのと同時に、俺……勇一は反応した。
「分かった。行こう、皆。
俺は、真也の考えに賛成だ。ここにいても捜索の力にはなれない。
一刻も早く、助けを呼びに行こう」
「…そうだな。あんまり迷ってる暇は、なさそうすね」
八薙が、唇を噛み締めながら頷いた。
「ありがとう……先輩」
「……『生きて』って言うてたからな。俺ら、絶対に生きんとあかんぞ」
生一が、静那の最期の言葉を噛みしめるように言った。
静那が遺した、あの言葉を思い出した。
「じゃあ、早速助けを呼びに行ってくる。捜索隊を呼んで、なるべく早く戻ってくるから。だから真也君……気持ちは分かるけど、焦らないで。無茶はしないで。……ね?」
仁科さんが、諭すように真也を見つめた。
「はい…ありがとうございます、仁科先輩。その…さっきは怒鳴ったりして、本当に…」
「もう、気にしてないよ。
私たちのことを思って本気で言ってくれたのが、分かったから。
だから、私たちは私たちのやれることをやる。まずは、この状況を打開しましょう」
「はい……先輩。お気をつけて」
「もう一回確認! 絶対に、無茶はしないこと。いい?」
真也は、力強く、何度も頷いた。
「…その、まず川を見つけて、川沿いに下流へ向かって進めばいい…みたいな話を、どこかで聞いたことがあるで」
珍しく、小谷野がためになる情報を口にした。
「じゃあ、急いで川を見つけないとね。頼りにしてるわよ、あんたでも」
こんな状況だからこそ、俺たちは一人ひとりの大切さを、心の底から噛み締めていた。仁科さんもまた、極限の悲しみの中から、明日を生きるために心を前向きに切り替えようとしていた。
「じゃあ、助けを呼んでくる。さっきの仁科さんの言葉、くれぐれも忘れるなよ、真也」
尚も熱風と煙が舞い上がる中、俺たちは一旦、二手に分かれることになった。
* * * * *
真也一人を残し、俺たちは川を目指して、未知のジャングルへと足を踏み入れた。
ジャングルといっても、写真で見るようなアマゾンの秘境というよりは、密度が高い密林といった趣だ。
だが、絶望的な状況であることに変わりはなかった。
燃え広がる墜落現場からは離れつつあるが、遠くから振り返っても、その炎が収まる気配は微塵もなかった。
一度まともな雨でも降らない限り、この火災は森林の広範囲を焼き尽くし続けるだろう。
静那は…ここにいる全員がもう助からないと感じていた。
だが、今はそんなことを考えたくなかった。
感じたくさえなかった。
考えれば、涙で前が見えなくなるからだ。
だから、今はこの場所から生き延びること。
まず、そこにだけ全神経を集中させよう。
静那の最後の言葉……「生きて」が、頭の中で何度も何度もリフレインしていた。
森の中は沼地も多く、足場は最悪だった。
聞いたこともないような野生動物の不気味な鳴き声が、常に背後から追いかけてくる。
けれど、考えたくないことから意識を逸らすには、この過酷な環境すら、今の俺たちには必要だったのかもしれない。
俺は機内で最後にマップを見た時の映像を、必死に思い出した。
このまま南下すれば、きっとペルシャ湾付近に出るはずだ。その湾岸に通じている川、あるいは水脈を、まずは目指す!
……生きるんだ!
* * * * *
俺たちは、ひたすら森を歩き続けた。
日本人が誰もいない、ここがどこかも分からない異国の森の中。
日が少しずつ傾き始め、周囲の木々の影が長く伸びていく。
夕暮れが近づくにつれ、えも言われぬ不安が重くのしかかってくる。
この先、どうなるかなど誰にも分からない。
夜が訪れる前に、せめて川に出られるのだろうか。
闇に紛れて、野生動物が襲ってきたりはしないだろうか。
俺たちは、火も、ライターも、明かりも持っていない。
それらはすべて、預けた旅行鞄の中に置いてきた。
おそらく今は、あの爆炎の中で灰になってしまっているだろう。
無事に着地できた直後は、自分の持ち物なんてどうでもいいと思っていた。けれど、いざ我に返ると、俺たちは驚くほど何も持っていないことに気づく。
最も大切な「水」すら、一滴もなかった。
あるのは、この傷ついた体一つだけだ。
人間は、三日も飲まず食わずでいれば意識を失い、倒れてしまうと聞いたことがある。
そうなれば、俺たちのタイムリミットも……あと三日、なのか。
いや、この精神状態と環境下では、一昼夜耐え抜くのが限界かもしれない。
誰もが正常な精神を保つのが難しい、極限の淵に立たされていた。
ただ、静那の最後の言葉……「生きて」だけが、折れそうな俺たちの心を支えていた。
彼女が命懸けで切り離してくれた、この命。絶対に、無駄にはできない。
ここで死ねば、俺は静那に合わせる顔がないのだ。
最後まで諦めずに生き抜くこと。それが、彼女に対する、俺たちなりのせめてもの償いになる。
皆、口には出さないが、それは共通の認識だったのだと思う。
誰一人として、弱音を吐く者はいなかった。
しかし、「最悪の事態」への想像は、どうしても拭いきれない。
口を閉ざして歩いていると、思考は底なしの沼のように、暗い方へと引き寄せられてしまう。
そんな周囲の沈滞した空気を感じ取り、俺は唐突に、自分でも驚くような大声で話し始めた。
「あのさ……俺、今から独り言をしゃべるからさ。……気が紛れるなら、聞いててほしい。聞いてるだけでいいから。」
少しでも、みんなの辛さを紛らわせたかった。
先頭を歩くのは八薙。俺は前から4番目を歩いていた。ちょうど、前後全員に声が届く位置だった。
「これ、昔実際にあった話でさ…英語の授業で聞いたことがあるエピソードなんだ。
言うよ……1971年。17歳の少女が、お父さんに会いに行く話なんだけど。」
17歳、お父さんに会いに行く……そのフレーズだけで、全員の脳裏に静那の面影がよぎった。
彼女のことを思い出して胸が疼くが、それでも皆、黙って俺の話を聞いている。
「美しいブロンドで、陽気な少女だった“ユリアナ”っていう子。
家族と飛行機で、お父さんに会うためにアマゾンの奥地へ向かったんだ。
でも途中で、確か雷の直撃を受けて、飛行機が墜落してしまう。
…ユリアナはただ一人、折れ曲がった座席のクッションに守られて、運よく着地できた。
でも、生存者は90名近い乗客の中で、ユリアナただ一人だったんだ。
…そこは、出口のないジャングルの樹海。
地形も何も分からない場所に、17歳の女の子が一人きりで放り出されたんだよ。
アマゾンといったら、ピラニアや巨大な蛇がうじゃうじゃいて、陸にも川にも安息の場所なんてない、地獄のような密林だ。ここなんかより、ずっと過酷だったと思う」
草をかき分ける足音だけが聞こえる中、俺は構わず話し続ける。
「夜になれば猛獣の鳴き声がひっきりなしに聞こえて、疲れていても眠ることすらできなかった。
極限の精神状態が続いたと思う。
でも彼女は、必死にジャングルを彷徨い続けて、10日目にはその地獄を脱出することができたんだ。
…お父さんに言われていたんだって。“もし密林で迷ったら、水の流れる方を辿れ”って。
どんな小さな流れも、やがては大河になる。
その先には、必ず人が住んでいるからって。
彼女はお父さんのその声を頼りに、注意深く地形を見ながら歩き続けた。
結果、奇跡的に地元の人に保護されて、助かったんだ」
道なき道を行く仲間に、その話が微かな「熱」を与えたのは間違いなかった。
皆、依然として無言だった。
けれど、さっきまでの、死を待つような悲壮感は消えていた。
* * * * *
その頃……
真也は、一向に収まる気配のない業火の海の中。
焼け焦げた鉄の匂いと、死の異臭が立ち込める惨劇の淵で。
静那の名前を、何度も、何度も叫びながら、捜索を続けていた……
絶望的な可能性の中でも、彼は決して目を逸らさない。
ただ一人の少女の名前を、彼は叫び続ける。
何度も…
何度も……
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