16-1 生きて
【16話】Aパート
「ゴウン」という、肺を直接揺さぶるような不気味な重低音が機内に響き、旅客機はさらにその高度を下げた。
爆発した右翼から尾を引く黒煙は、無慈悲にも背後の空を汚しながら、俺たちは深い森林地帯へと突き進んでいく。
窓の外を流れる緑の密度が濃くなり、いよいよ「墜落」という現実が、抗いようのない死の宣告として迫っていた。
俺たちの座席は機体後方だったため、前方のパニックの全貌は見えなかったが、耳を劈く悲鳴の合間に、声を殺して泣く声や、一心に祈りを捧げる囁きが、絶え間なく鼓膜を打つ。
極限の恐怖に押しつぶされそうになりながら、見知らぬ乗客たちは皆、人生の最後の一秒まで、自分自身という存在を守るために戦っていた。
もう、あと5分も持たないだろう。
機長が命を削るようにして操縦桿を握り続けてくれているのは伝わってきたが、機内に漂うのは、もはや逃げ場のない「諦念」の空気だった。
震える手でメモを走らせ続ける男性。互いの体を砕けんばかりに抱き合い、声を殺して嗚咽する家族。
網膜に焼き付くこの凄絶な光景を、俺達はおそらく一生忘れることはないだろう。
人は死を目前にしたとき、これほどまでに、誰か大切な人を守ろうとし、誰かに何かを残そうとする生き物なのだ。
俺もまた、ここでの幕引きを静かに受け止めたのか、熱い涙が頬を伝って溢れ出してきた。
もっと自分らしく、もっと必死に生きておきたかった……そう後悔しても、もう遅すぎるのだ。
すべてが、あと二、三分で終わる。
左翼を大きく旋回させ、機長が最期の力で機体を持ち直したが、それも虚しいあがきに見えた。顔も知らないその人の無念を思うと、不思議と憎しみは湧かなかった。
操縦は、ある程度の高度まではオートで行われると聞いたことがあるが、今のこの機体の震えは、間違いなく血の通った人間の、必死の抵抗だった。
* * * * *
極限状態の中、意識が遠のき、奇妙な静寂が脳内を支配し始めたその時、鋭い叫び声が俺を現実へと引き戻した。
その叫びに脳が即座に反応したのは、それが紛れもない「日本語」だったからだ。
静那が、見たこともないような鬼気迫る表情で、喉を引き裂くように叫んだ。
「お願いッ! みんな一番後ろの席に移動して!」
一体何が起きるのか、その理由を考える時間は、俺たちには一秒も残されていなかった。
真っ先に反応したのは、真也だった。
「皆! 静那の言うとおりにしよう! 行こう! 一番後ろ!」
シートベルトを弾き飛ばし、左右に激しくのたうち回る機体の中で、俺たちは倒れ込みそうになりながら、一番後ろの座席へと必死に走った。
「移動したぞ! 武藤さん! 次どうすればいい!」
八薙が、指示を求めて怒鳴る。
すぐに静那から、魂を振り絞るような返答が返ってきた。
「一番後ろの席に座って! シートベルトを締めて! 絶対に座席から離れないように、自分を縛り付けてッッ!」
こんなにも激しい静那の声を聞くのは初めてだったが、俺たちは一秒の迷いもなく、言われた通りに動いた。
真っ青な顔で立ち尽くしていた葉月も、静那の声に我を取り戻し、自分を座席にきつく縛り付けた。
全員が、静那という少女の意志を信じて、そこに賭けた。
だが、死神の足音はすぐそこまで迫っている。
座席をギチギチに締め上げたところで、墜落の衝撃から逃れられる保証など、どこにもないのだ。
機体前方では、依然として地獄のような混乱が続いていた。
* * * * *
前方の悲鳴が、一段と高く、鋭くなった。
いよいよだ、と直感が告げる。
座席の肘掛けや壁に爪を立て、絶叫し始める乗客たち。
窓のすぐ下には、刃のように尖った木々の枝が、高度500メートルという死の至近距離まで迫っていた。
周囲から湧き上がる、ありったけの断末魔。
とてもじゃないが、もう、見ていられる光景ではなかった。
仁科さんは、もう助からないことを悟ったのか、静かに涙を流しながら静那を見た。
「…最後まで、ありがとう」
その一言は、極限状態で彼女が自分自身と向き合い、最後に出した、魂からの感謝だった。
生一はまだ何かを諦めていないようだったが、最後を悟ったのか、微かに笑って静那を見つめた。
一番見えにくい場所にいた真也も、悔しさに顔を歪め、肩を震わせて泣いているように見えた。
小谷野と兼元は、歯をガチガチと鳴らして震えていた。
そんな姿でも勇一は今まで2人が場を盛り上げてくれたことに感謝を感じていた。
自分にはないものをたくさん持ってるこいつらは、なんだかんだ言って自分たちのメンバーに無くてはならない存在だったんだ…
葉月は家族の事を思ったのか涙を流していた。小さくて聞き取れなかったけど「お父さん…ごめんなさい」と言っていたんだと思う。
そんな姿を見ていたら、仲間のすべてが、たまらなく愛おしくなった。
俺はもう一度、霞む視界で皆の顔を順番に見渡した。
よくもまあ、自分の元に、これほど素敵な仲間が集まってくれたものだ。
きっかけはこの目の前の少女だったけれど、最高の仲間たちが、そこに集ってくれていた。
自分は、こんなにも幸せな人間関係の中にいたんだ。
みんな……ありがとう。本当に。
静那……ごめんな。お父さんを見つけてやれなくて。
俺の目からも、抑えきれない涙が溢れ出してきた。
けれど、死ぬ直前に、これほどの感謝を心から感じられたことは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
俺の人生は、無駄じゃなかった。
退屈でも、つまらないものでもなかった。
みんな……大好きだ。静那みたいにうまくは言えないけれど。
「ありがとう!」
その瞬間、俺は我に返った。
今の「ありがとう」という声は、俺の唇から出たものではなかったからだ。
……なら、一体、誰が。
「……ありがとう」
機体が完全な墜落体勢に入る直前。
静那が、俺たち全員に向けて、噛み締めるようにその言葉を発した。
彼女は、座席に縛り付けられた俺たち一人ひとりの顔を、しっかりと、記憶に焼き付けるように見つめている。
「生きて! みんな、大好きだから!」
そう告げたかと思うと、静那は俺たちからパッと視線を逸らし、機内真横の壁際へと、激しい揺れを無視した足取りで移動した。
移動した彼女の手先から、一瞬光が静那の手先から発せられる。
それから、閃光のような衝撃が走り、何が起きたのか俺には理解できなかった。
だが、次の瞬間。
静那が立っている位置を境にして、俺たちが座っている機体後部が、まるで巨大な刃で輪切りにされたかのように、鮮やかに切断された。
静那がどうやってそれを成し遂げたのか、知る由もない。
繋がりを失った「機体のしっぽ」は、猛烈な慣性の法則に振り回されながら、ゆるやかに飛行機本体から切り離され、木々が荒れ狂う森の中へと落ちていった。
静那は、俺たちの落下を見届けてから、燃え盛る機体前方へと、迷いなく走っていった。
そこで彼女と目が合ったのが、最後の瞬間だった。
飛行機ごと静那と別れたその瞬間、誰かが絶叫していたような気がする。
だが、急激に機外の気圧に放り出されたためか、耳の奥が激しく痛み、何も聞こえなくなった。
俺たちを乗せた鉄の塊は、木々をなぎ倒し、乱暴にバウンドしながら、深い緑の底へと叩きつけられた。
衝撃で首が折れるかと思ったが、奇跡的に、俺たちの体に目立った外傷はなかった。
シートベルトできつく固定されていたおかげで、体が機外へ投げ出されることは免れた。
幸いにも、切り離された後部ユニットが爆発炎上することもなかった。
だが、剥き出しになった配線から火花が散り、ショートした電気系統がいつ爆発してもおかしくない。
俺たちは必死でシートベルトを緩め、よろめきながらも、機内からの脱出を急いだ。
全員が這い出したその直後……
ドォォォォォォォンッ!
という、大地を揺らす凄まじい爆発音が轟き、二、三キロ先で旅客機本体が墜落した。
天を突くような巨大な火柱が立ち上がり、無数の火の粉が、夜空を埋め尽くすように舞い上がる。
周辺の森は、一瞬にして猛烈な炎に包まれた。
静那は……
彼女は、一体どうなった。
全員が絶望に顔を青ざめさせる中、ものすごい形相で真也が、一人業火の海に向かって走り出した。
そして、やっと状況の把握をする。
切り離された自分たちの後部座席は炎上せずに荒い着陸に留まったが、静那の乗った旅客機はそのまま森の中に墜落してしまったのだ。
「行こう!」
八薙が叫んだ。俺たちも真也の後を追い、煙が渦巻く火中へと向かった。
あのアナウンス……あの爆炎……あの舞い散る死の灰。
自分たちが助かったという喜びなど、微塵も湧かなかった。
誰もが彼女の……最悪の事態を、想像せずにはいられなかった。
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