15-1 ある旅客機での出来事
【15話】Aパート
空港で、保護者である諭士さんと別れを告げてから、かなりの時間が経過していた。
目的地のインドにあるハブ空港へ到着するまでのフライト時間は、およそ10時間……だという話だった。
普段は部室の騒がしい空気の中で饒舌な面々も、高度一万メートルの機内では、エンジンの重低音に圧されて大人しく座っているしかなかった。
離陸して間もない頃は、初めての海外という高揚感にワクワクを抑えきれない様子だったが、次第にやることもなくなり、機内は静まり返っていった。
仁科さんが『旅の指さし手帳シリーズ』を熱心に捲っている以外は、女性陣は皆、微睡みの中にいるのか動きがない。
そんな中、小谷野と兼元の二人だけは、静那の隣の席という特等席を巡って、周囲に漏れないような小声で醜い争いを続けていた。
当初、静那の隣には真也が座っていたのだが、兼元が執拗に「席を替われ」と視線で圧力をかけ続けた。
そこで真也があっさりと席を譲ってくれたところまでは、兼元にとって計算通りだった。
しかしその後、フライトの疲れからか、眠くなった静那がうつらうつらし始めた。
やがて彼女は、無意識のうちに兼元の肩へとコトンと寄りかかるようにもたれ、規則正しい寝息を立て始めたのだ。
この状況を千載一遇の好機と捉えた兼元は、小谷野や俺の方を向き、勝ち誇ったような「ドヤァ」という表情を浮かべて見せた。
これに猛烈に憤慨した小谷野が、歯を食いしばりながら小声で怒鳴る。
「お前、ズリィぞ……! あと10分経ったら替われよ! そこの席!」
「やーだね。ベロベロベロ~、ここはもう俺の指定席やもんね~。替わるかよバーカ。お前はそこで指をくわえて悶々(もんもん)としてな!」
兼元は火に油を注ぐような挑発を続け、小谷野の苛立ちは頂点に達した。
小谷野は怒りのあまり、手元に置いてあった包み紙入りのキャンディーを、兼元ではなく寝ている静那の肩へと軽くぶつけた。
その感触に、静那はハッと目を覚まし、ゆっくりと頭を上げ、周囲を見渡した。
「ん……あぁ……私、寝てた? ごめんね、寄りかかったりして」
寝起きの少し掠れた声で、申し訳なさそうに眉を下げて謝る静那。
彼女が体勢を真っ直ぐに戻してしまうのを見て、小谷野が勝ち誇ったように小声で言い返す。
「一人で優越感に浸らせるかよ! お前こそ、さっきの感触を思い出しながら悶々としてろ! ダァホ!」
「てめぇ……どうやら分かってないみたいやなぁ。今の俺とお前の決定的な立ち位置の差をよぉ」
兼元は怒りつつも、静那の隣という絶対的な陣地を確保している余裕を崩さない。
“まぁ見てな。新婚旅行への景気づけだ”とばかりに、兼元は静那の寝顔へとじわりと顔を近づけていく。
静那の方はといえば、再び睡魔に襲われたのか、既に瞼を閉じて夢の中ではないか。
「おま……ちょッ!」
兼元の動きは、明らかに寝ている静那への“キス”を狙ったものだった。
機内は照明が落とされ、死角が多い。はっきりとその犯行現場を捉えられたのは、真横の列に座る小谷野と、自分だけだった。
女性メンバーと真也は数列前の席に座っているため、この不届きな動きには全く気づいていない。
コイツ、静那の寝込みを襲って唇を奪うつもりか……!
……というより、静那のファーストキスはもう済んでいるのだろうか。
もし子どもの頃だとしたら、やっぱり相手は真也なのか。いや、真也側がそこまで大胆に動くとは思えない。
じゃあ、あの諭士さんという、落ち着いた雰囲気の中年イケメンの方だろうか。……いや、さすがに年齢が離れすぎているか。
頭の中では、突如として様々な想像……いや、妄想が猛烈な勢いで駆け巡り始めた。
いや! そんな妄想で頭をかき混ぜている場合じゃない。
今、この閉ざされた機内で、まさしく卑劣な”リップテロ”が執行されようとしているんだ。
もしもこれが静那にとっての“初めて”だったとしたら、こんな形で奪われていいはずがない。
当の静那は、そんな危機も知らずに、安らかな寝息を立ててスヤスヤと眠っている。
その姿は、あまりにも無防備で、無垢だった。
「ん……」
眠りの中で、静那が小さく漏らした吐息。
その微かな声に過剰に反応したのか、兼元はビクッと顔を少し後ろへ引っ込めた。
そして、呼吸を整えるように体勢を仕切り直す。
それはまるで、野球のピッチャーがセットポジションに戻ったかのような、奇妙な静寂だった。
しかし、静那の唇のピンチが去ったわけではない。
少し離れた席に座っている俺たちは、このテロが淡々と執行されていくのを、ただ黙って見守ることしかできないのか……
チラリとこちらを伺うような視線を向けてから、兼元は再び、粘つくような動作で静那の唇へと顔を近づけていく。
アイツ、ホントに気持ち悪いな……俺と小谷野の視線は冷え切っていた。
静那と兼元の唇の距離が3センチを切ろうとした、その刹那。
『ポーン』という航空機特有のインターフォンが機内に響き渡った。
おそらくは、機体が乱気流に差し掛かるという合図だろう。
頭上のシートベルト着用サインが、パッとオレンジ色に点灯した。
その音に驚いた兼元は、またしてもビクッとして、慌てて唇を引っ込めた。
………なんだか、見ているこちらの方が白けてきた。
ここまでの腰の引け方は、もはやビビりのヘタレ以外の何物でもない。
そこまでキスがしたけりゃ、とっとと済ませろとさえ感じ始めていた。
兼元が三度目のテロにトライしようと身を乗り出したものの、インターフォンの後に流れた機内アナウンスの音量が大きく、ついに静那がパチリと目を覚ましてしまった。
* * * * *
「当機は乱気流に入りましたので、シートベルトを御着用下さい」というアナウンスが、英語、ヒンディー語、そして日本語の順で機内に流れた。
そのアナウンス中、眠たそうに目をこすっていた前方の仁科さんに向かって、小谷野が小声で呼びかける。
「あのさ、もう寝るんだったら、その『旅の指さし手帳』、俺に読ませてくれへん。」
仁科さんは眠気が勝っていたのか、特に拒む様子もなく、あっさりと本を貸してくれた。
小谷野は受け取った本を手に取ると、小声で「静那ッ! 静那ちゃん!」と呼びかけた。
そして、仁科さんの本を静那の手元へと、ふわりと軽く投げ渡した。
「仁科さんが『読んでみて』だってさ。退屈しのぎにホラ。」と小声で告げる小谷野。
仁科さんがわざわざ私に……と、静那はそれを好意的に受け取ったようだった。
アナウンスが終わった後、静那は借りた本をじっくりと読み始め、完全に覚醒してしまった。
決定的なチャンスを潰された兼元が、親の仇のような目つきで小谷野を睨みつける。
それに気づいた小谷野は、勝ち誇ったように「させねーよ」と口角を上げてニッコリと笑ってみせた。
現地に着くにはまだ早すぎる上に、日本との4時間という時差が、身体の感覚を少しずつ狂わせていく。
かくして、夜の旅客機で密かに企てられた“リップテロ”は、未遂のまま幕を閉じた。
* * * * *
インディラ・ガンディー国際空港のロビーにて、俺――白都勇一を含めた9名は身体を休めていた。
形式的な手続きを終え、俺たちは無事にインドの地へと降り立つことができた。
手元にある赤いパスポートの余白に、新しいスタンプが一つ刻まれる。
静那や女性陣は、機内でいくらか眠りについていたためか、少しだけすっきりとした表情を浮かべていた。
男性陣もそれなりに休めたはずだが、兼元と小谷野、そして俺の三人は、抜けない重い眠気に襲われていた。
この空港から次の目的地、モルドバへのフライトに乗り換えるまでには、まだかなりの待ち時間がある。
俺は先月買ってもらったばかりの携帯電話を取り出し、メール機能を使って「インドまでは順調です。」という報告を西山や椎原さんに送ろうと試みた。
しかし、画面のアンテナは一本も立たず、電波の影響からか送信エラーが繰り返される。
どうやらここは、日本の電波が届かない圏外の場所らしい。空港なのにちょっと変だ。
少し腹ごしらえをしようと空港内の店舗を見て回るが、夜間のためか殆どのシャッターが閉まっていた。
インドの現地時刻は、夜の12時を少し回ったところだ。
しかし、俺たちの腕時計の針は、日本の時刻である午前4時を指している。……眠いわけだ。
幸いにも英語が話せるスタッフがいたようで、葉月と静那が何やら身振り手振りを交えて話をしていた。
その間、俺たちの手荷物は真也が周囲を警戒しながら見守ってくれている。
スタッフの話によれば、各ゲートから少し離れた奥まった場所に、軽食が買える売店があるらしい。
重い足取りでゾロゾロと売店フロアーへ向かうと、確かに2〜3店舗だけが、薄暗い明かりの中で営業を続けていた。
静那が真っ先に店へと向かい、片言の英語とジェスチャーを駆使して注文を終えた。
彼女は買ったばかりの熱いコーヒーを手に取ると、一番に兼元の元へと運んでいった。
「はい。一番眠そうにしてたから、お先にどうぞ」
「おお、ありがとうな。……静那ちゃん」
「それと、唇!」
静那が不意にそう口にした瞬間、兼元は心臓が止まったかのように激しく驚き、直立不動になった。
「唇…って、静那ちゃん…? あ……れ」
兼元の顔からみるみると血の気が引いていく。
「うん、唇のところが切れて血が出てるよ。どうもビタミンが足りてないようですなァ」
静那は心配そうに覗き込み、わざと男爵のような口調を混ぜて茶化した。
「あ……あああ、ああ。そうだね~~きっとビタミン不足だね~」
兼元は滝のような冷や汗を流しながら、ものすごく焦った様子で返答していた。さぞかし、肝を冷やしたことだろう。
「眠い人は、ちょっと待合室で横になって寝とく? 真也君も、荷物は私が見とくから、今のうちに休みなよ。目的地まではまだまだ先なんだから、遠慮しないで」
既に機内で睡眠をとっていた仁科さんが、周囲の疲れを察して気遣いを見せた。
女性だけを残すのは気が引けるが、ここは警備の厳しい国際空港のフロア内だ。特に危険はないだろう。
何より、人生で初めて経験する“時差”という感覚が、俺たちの体力をじわじわと削り始めていた。
現地に入り、本格的な捜索を始める前に、できるだけ体内時計を現地の時間に合わせていきたい。
* * * * *
ゲート内の待合室は、空調設備が程よく効いていて、肌寒さを感じるほどに快適だった。
このような長時間の待ち時間でも、深夜帯であっても、乗客がゲート内で待機できるように配慮されているようだった。
椅子も冷たいプラスチック製ではなく、クッション性のある素材だったため、横になって身体を休めることができた。
* * * * *
どのくらいの時間が経っただろうか、ふと俺は意識の底から目を覚ました。
インド時間でいえば、午前3時を回った頃だろうか。
始発の便が出るのが5時過ぎなので、搭乗を知らせるアナウンスが鳴り響くのは、あと2時間後くらいのはずだ。
隣を見れば、他の男性陣は皆、深い眠りに落ちていた。
少し離れた場所では、仁科さんと葉月、そして静那が静かに座っている。
静那は一点を見つめるように本を読み耽っていた。あまり眠くないのだろうか。
俺が起きたことに気づいたのが葉月だったので、彼女に向けて小声で伝えた。
「ちょっと、お手洗いに行ってくる」
俺は静まり返った深夜のゲートを、足音を忍ばせながら一人で歩き出した。
お手洗いは俺たちが休憩している広場のすぐ近くにあったのだが、一応自分たちが搭乗するゲートの正確な場所を確認しておきたかった。
少し距離はあるが、運動がてら歩いてみることにする。
ゲートの番号を確認すると……一桁番代だった。
どうやら、このターミナルの最果てにある端っこの場所のようだ。深夜のため人影は一切ないが、天井の明かりだけは煌々とついている。
搭乗ゲートの場所は把握できた。
あとは……このゲート前のお手洗いに寄ってから、みんなのところへ戻ろう。
そう思い、壁にあるトイレのアイコンに従って、タイル張りの入口へと入っていった。
当然、深夜のこんな場所だ。誰もいるはずがない……
…
……
……いや!
誰かいる。
今、一瞬だけ、背筋が凍るような気配を感じた。
奥の個室か? それとも掃除用具入れの中か? ……違う。
天井だ。
寝起きで意識が朦朧としていたせいか、前方への意識は向けていたが、上空に対しては完全に無防備だった。
俺は焦って、反射的に首を跳ね上げるように上を見た。
確かに、そこには何かの気配があった。
その、天井の影に張り付いていたもの……
一瞬の出来事だったが、蜘蛛の足のような、異様に細長い何かが視界を掠めた。
その「手」は信じられないほど細く、真っ黒で、長い。人間とは思えない異形の生き物は、天井を蜘蛛のような動きでつたい、音もなく素早くトイレから出ていった。
何者だ、一体……!?
恐怖で足が震えたが、俺はすぐに手洗い場を飛び出した。何とかして後を追おうとする。
ロビーに出て、血走った目で辺りを見渡した。
同時に、天井の四隅にも視線を走らせる。
少し手洗いから離れ、さらに周辺の天井や広々としたロビーを隈なく探した。
しかし、先ほどの“人間”にしては異様に手が細長かった、あのバケモノの姿はどこにもない。
通気口の中にでも、逃げ込んだというのか……
何度見回しても、この広大なロビーにいるのは、俺一人だけだった。
俺の心臓の鼓動は、耳の奥で激しく打ち鳴らされ、呼吸が荒くなる。
「(ロビー内に、よく分からない生き物がいる……あんな気味の悪いのが、この中に……まさかとは思うが)」
不吉な想像はしたくない。
実際、体内時計が狂いに狂っており、極度の寝不足から幻覚でも見ていたのか?
でも、あの天井に張り付くような確かな気配を感じたのは、紛れもない事実だ。
俺は極限の警戒を続けながら、仲間たちが休んでいるフロアへと、背後を気にしながら戻っていった。
ただの杞憂であってほしいと願うが、何か、これから乗るフライトに対して、拭いきれない大きな不安が胸に兆していた。
【読者の皆様へお願いがございます】
ブックマーク、評価は大いに勇気をくれます!
現時点でも構いませんので、ページ下部↓の【☆☆☆☆☆】から評価して頂ければ非常に嬉しいです!
よろしくお願いします!




