↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/6

最終章 空気、壊していいですか?

本番当日。


乃々香は、目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。


まだ少し暗い部屋。


枕元のスマートフォンを手に取る。


時刻を確認して、そのまま画面を閉じようとして。


ロック画面の犬と目が合った。


「……おはよ」


当然、返事はない。


「今日なんだって」


犬は笑っているように見える。


乃々香はしばらく眺めてから、布団を抜け出した。


不思議だった。


三日前までは、あれほど頭の中を埋め尽くしていた。


間違えたらどうしよう。


ちゃんとしなきゃ。


私でよかったと思ってもらわなきゃ。


それが今朝は、少しだけ静かだった。


答えが見つかったわけではない。


選ばれた理由も。


どうすれば自分を認められるのかも。


全部分かったわけじゃない。


それでも。


昨日よりほんの少しだけ、息がしやすかった。


――怖くなることもある?


そう聞いた時、恋は簡単に答えた。


『あるよ』


センターでも。


何度も前に立っていても。


ある。


だったら。


怖くない人になろうとしなくてもいいのかもしれない。


乃々香は鏡の前で髪を整えながら、自分の顔を見た。


「……よし」


一度頷いて。


すぐに首を傾げる。


「何がよし?」


自分で言って、自分で笑った。


久しぶりだった。


朝から少しだけ。


乃々香らしかった。


◇


会場に入ると、一気に現実になった。


スタッフが行き交う。


ステージから音が聞こえる。


衣装ラックが運ばれていく。


メンバーも、それぞれ準備を始めている。


「乃々香ー!」


振り返る。


莉緒が手を上げていた。


「おはよ」


「おはよ」


「寝れた?」


「まあまあ」


「嘘」


「なんで」


「顔」


「今日みんな私の顔に厳しくない?」


「まだ私しか言ってないけど」


「先を読んだ」


莉緒が笑う。


乃々香も笑った。


少しだけ。


その時。


紡が横から現れた。


「はい」


スマートフォンを差し出してくる。


「何?」


「犬」


画面には、毛布にくるまって顔だけ出している犬。


乃々香の表情が一瞬で崩れた。


「待って、なにこれ」


「本番前の乃々香」


「こんな顔してない」


「してる」


「もっと可愛いし」


「そこ?」


莉緒が吹き出した。


乃々香も声を出して笑った。


その時。


「あ」


紡が言う。


「戻った」


「何が?」


「乃々香」


一瞬だけ。


乃々香は黙った。


でも。


今度は笑ったままだった。


「私ずっといるけど」


「最近ちょっと留守だった」


「失礼すぎる」


そう返して、紡の肩を軽く叩く。


少し離れたところで、楓花がその様子を見ていた。


目が合う。


楓花は何も言わず、親指を立てた。


乃々香は小さく舌を出した。


◇


リハーサル。


本番と同じステージに立つ。


照明がつく。


客席はまだ空っぽ。


なのに、広い。


いつものレッスン場より、ずっと広い。


音が鳴る。


乃々香は前を向いた。


最初の位置。


もう迷わない。


一歩。


ターン。


視線。


身体が動く。


前よりも。


三日前よりも。


ちゃんと動けている。


途中。


ほんの少しだけタイミングが遅れた。


乃々香の胸が跳ねる。


以前なら。


――間違えた。


――次は絶対。


――もっとちゃんと。


そこから頭がいっぱいになっていた。


今日は違った。


次の一拍で戻す。


それだけ。


曲が終わる。


「OK!」


振付の先生の声。


「乃々香」


「はい」


反射的に姿勢を正す。


「今の、よかったよ」


「……ほんとですか?」


「うん」


少し間を置いて。


「前より、顔が見える」


乃々香はきょとんとした。


「顔?」


「前は全部正解しようとしてる顔だったから」


周りで何人かが笑った。


乃々香も苦笑する。


「そんな顔あります?」


「あるある」


「怖」


振付の先生まで笑った。


ほんの一瞬。


ステージの空気が軽くなる。


乃々香は気づいた。


自分が何か特別なことを言ったわけではない。


でも。


今は、ちゃんとこの場所にいる。


間違えないことだけを考えていた時より。


ずっと。


◇


開演が近づく。


衣装に着替え。


髪を整え。


メイクの最終確認。


乃々香は鏡の中の自分を見た。


衣装を着た自分。


メインメンバーとしてステージへ向かう自分。


数週間前なら。


これを見ただけで胸がいっぱいになっていたかもしれない。


今は。


「……似合ってるじゃん」


小さく言う。


「自分で言う?」


後ろから声。


振り返ると、莉緒だった。


「誰も言ってくれないから」


「言おうとしてたのに」


「遅い」


「めんどくさ」


「今なんて?」


「似合ってます」


「よろしい」


莉緒が笑う。


乃々香は鏡に戻る。


「ねえ」


「ん?」


「三日前さ」


「うん」


「ごめんね」


莉緒は少しだけ首を傾げた。


「何が?」


「いろいろ」


「雑」


「細かく言うと長いから」


「じゃあいい」


「いいんだ」


莉緒は乃々香の隣に立った。


二人で鏡を見る。


「乃々香」


「ん?」


「今日、間違えても別に世界終わらないからね」


「縁起悪いこと言わないで」


「違うって」


「分かってる」


乃々香は笑った。


「でも、間違えたくない」


「うん」


「ちゃんとやりたい」


「うん」


「それも私だから」


莉緒は一度だけ頷いた。


「じゃあそれでいいじゃん」


短い言葉。


でも。


今の乃々香には、それで十分だった。


◇


開演十分前。


Rain Crownの16人がステージ袖に集まっていた。


このあと、それぞれ立つ曲も、出番も違う。


それでもライブが始まる前だけは、いつものように16人がここにいる。


客席から響く声が、壁越しでも分かる。


さっきまで喋っていたメンバーたちが、少しずつ静かになっていく。


誰かが深呼吸する。


誰かが手を握る。


恋が前を見ている。


楓花が全員の顔を確認している。


紡まで、今日は大人しい。


乃々香はその空気を感じた。


胸が鳴る。


自分も緊張している。


喉が少し乾いている。


手も冷たい。


怖い。


ちゃんとしたい。


失敗したくない。


全部。


まだある。


でも。


同時に。


何かが懐かしかった。


この空気。


張りつめて。


誰も一言目を出せない感じ。


乃々香は周囲を見る。


莉緒と目が合う。


紡とも。


楓花とも。


なぜか。


一人。


また一人。


乃々香を見る。


「……なに?」


誰も答えない。


「え、なに?」


紡が口元を押さえている。


「なんで笑ってんの」


「いや」


「何」


紡が言った。


「待ってる」


「何を?」


「いつもの」


乃々香は少し黙る。


「いつものって何」


「それ言わせる?」


莉緒が笑いを堪えている。


楓花まで、


「私もちょっと待ってる」


と言った。


「え、怖」


乃々香が一歩下がる。


「なにその圧。私今めちゃくちゃ緊張してるんだけど」


「知ってる」


「じゃあ助けてよ」


「だから待ってる」


「意味分かんない!」


一人が吹き出す。


それにつられて、もう一人。


まだ。


少し足りない。


乃々香は全員を見た。


張りつめた顔。


緊張している顔。


自分と同じだ。


誰だって。


怖い。


誰だって。


ちゃんとしたい。


それでも。


ここからステージへ行く。


乃々香は息を吸った。


「……ねえ」


全員が見る。


ほんの一瞬。


言うのを迷った。


ちゃんとしなきゃ。


そんな声が、まだ頭のどこかに残っている。


でも。


その声に向かって。


乃々香は心の中で初めて言った。


うるさい。


そして。


笑った。


「この空気、壊していい?」


一瞬の静寂。


「遅い!」


莉緒だった。


全員が笑った。


「ずっと待ってた!」


「今日遅すぎ!」


「乃々香、仕事して!」


「これ私の仕事なの!?」


笑い声が重なる。


乃々香も笑う。


腹の奥から。


久しぶりに。


何も考えず。


笑った。


「じゃあ」


乃々香は両手を広げた。


「今日もいい意味で、ぶち壊していきまーす!」


「言い方!」


「いい意味でだから!」


もう一度、笑いが起きる。


その時。


開演を知らせる声がかかった。


空気が変わる。


でも。


今度は、重くなかった。


◇


やがて、乃々香たちの出番が来た。


ステージへ出る。


光。


歓声。


一瞬、視界が白くなる。


乃々香は走った。


最初の位置へ。


音楽が始まる。


これまで何度も練習した曲。


それなのに。


今日は違って聞こえた。


身体が動く。


歌う。


笑う。


前を見る。


客席を見る。


少しだけ間違えそうになる。


でも、戻る。


次へ行く。


莉緒と目が合う。


恋が前にいる。


楓花が横にいる。


全部。


ちゃんと見える。


途中。


客席のどこかから。


「乃々香ー!」


声が聞こえた。


一瞬だけ。


乃々香の目が大きくなる。


自分の名前。


呼ばれている。


胸の奥が熱くなる。


でも。


今度は止まらない。


そのまま笑う。


踊る。


自分のパート。


自分の立ち位置。


自分の表情。


選ばれた理由なんて。


まだ分からない。


これから先も。


全部は分からないかもしれない。


それでも。


今。


ここにいる。


メインメンバーとして。


凪野乃々香として。


それだけは。


ちゃんと分かった。


◇


曲が終わった。


大きな歓声。


乃々香は息を切らしながら頭を下げた。


顔を上げる。


客席いっぱいの光。


綺麗だった。


「……すご」


思わず声が漏れた。


隣の莉緒が聞き取る。


「何?」


「なんでもない」


「絶対なんか言った」


「言ってない」


「言った」


「ステージ中だよ!」


「そっちが喋ったんじゃん!」


二人で笑う。


その笑顔のまま。


次の曲の位置へ向かう。


乃々香は一度だけ、客席を見た。


自分を選んだ人たちが、何を見ていたのか。


まだ全部は分からない。


でも。


少なくとも。


選ばれた場所で、


別の誰かになる必要はなかった。


真剣にやることも。


緊張することも。


失敗したくないと思うことも。


くだらない一言で誰かを笑わせることも。


全部。


凪野乃々香だった。


「乃々香」


恋の声。


「次」


「あ」


慌てて位置につく。


近くから笑い声がする。


「ちゃんとして」


「それ今言う?」


乃々香も笑った。


そして。


音楽が始まる直前。


ほんの一秒だけ。


乃々香は客席を見た。


もう。


その笑顔を、置いていかなかった。



ーー続く

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。