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第三章 私でいいの?

本番まで、あと三日。


その日のリハーサルは、最初から少し空気が重かった。


通しが始まって十分もしないうちに、一度止まった。


二度目。


また止まる。


三度目。


今度は、乃々香だった。


「あっ」


移動が一拍遅れた。


ほんの少し。


それでも前方にいる分、ズレが目立つ。


「一回止めよう」


振付の先生の声で音楽が切れた。


「乃々香、今のところ、もう少し早めに動き出そうか」


「はい。すみません」


乃々香はすぐに頭を下げる。


位置に戻る。


「じゃあ、そこから」


音楽。


もう一度。


今度は合った。


そのまま進む。


だが、数分後。


今度は歌い出しで一瞬、息が遅れた。


「ごめんなさい」


乃々香が言った。


誰も責めていない。


振付の先生も、


「大丈夫。そのままいこう」


と返しただけだった。


それでも乃々香は唇を噛んだ。


次。


今度こそ。


絶対に間違えない。


◇


休憩。


乃々香は壁際でスマートフォンを見ていた。


動画を巻き戻す。


再生。


止める。


もう一度。


「乃々香」


聞こえた。


無視したわけではない。


ただ、自分の動きを見ていて反応が遅れた。


「乃々香」


もう一度。


顔を上げると、莉緒が立っていた。


「ん?」


「ちょっと休めば?」


「休んでるよ」


「動画見ながら?」


「これくらい大丈夫」


莉緒が腰に手を当てる。


「最近そればっかだね」


「何が?」


「大丈夫」


乃々香の指が止まった。


同じことを、少し前に紡にも言われた。


「……本当に大丈夫だから」


「うん」


莉緒は頷く。


でも、帰らない。


「なに?」


「いや」


「言いたいことあるなら言って」


莉緒は少し考えた。


それから。


「最近、乃々香つまんない」


乃々香の眉が動いた。


「……は?」


ちょうど近くを通りかかった紡が、


「お」


と足を止める。


「莉緒、それ言ったんだ」


「紡も思ってた?」


「まあ」


「ちょっと待って」


乃々香が二人を見る。


「何それ」


「そのまま」


莉緒が答えた。


「前の乃々香の方が面白かった」


「今、そういう話してないんだけど」


「そういう話してる」


「してないよ」


声が少し強くなる。


周囲にいたメンバーが、ちらっとこちらを見る。


乃々香はそれに気づいて、声を落とした。


「今、本番近いんだよ」


「知ってる」


「初めてメインに入ってるんだよ」


「それも知ってる」


「だったら分かるでしょ」


莉緒の顔から、少しだけ笑みが消えた。


「何を?」


乃々香は言葉に詰まる。


「……ちゃんとしないといけないの」


紡が首を傾げた。


「今までちゃんとしてなかったの?」


「そういう意味じゃない!」


思ったより大きな声が出た。


部屋が静かになる。


一瞬。


乃々香が一番嫌いな空気だった。


でも。


今は自分で壊せなかった。


◇


「ごめん」


乃々香が小さく言った。


「別に怒ってないよ」


紡が返す。


「でもさ」


「紡」


楓花が近づいてきた。


紡は口を閉じる。


楓花は乃々香を見る。


「ちょっと外出る?」


「……なんで?」


「少し話そう」


「今、休憩あと何分?」


「それはいいから」


「よくないよ」


乃々香はスマートフォンを握った。


「まだ確認したいところあるし」


「乃々香」


「本番まで三日だよ」


楓花は黙った。


その沈黙が、乃々香には耐えられなかった。


「私さ」


誰に向けたのか分からないまま、言葉が出た。


「初めてなんだよ」


誰も返さない。


「みんなは何回もあるかもしれないけど、私は初めてで」


「乃々香」


「分かってるよ。別に初めてだからって失敗していいわけじゃないし」


「そんなこと言ってない」


「だからちゃんとしようとしてるんじゃん!」


また声が大きくなった。


楓花は動かなかった。


莉緒も。


紡も。


乃々香だけが息を乱している。


「選ばれたんだから」


声が少し震える。


「ちゃんとしないと」


「うん」


楓花が答えた。


否定しなかった。


それが逆に、乃々香を止めた。


「……うん?」


「ちゃんとしようとしてるのは分かる」


楓花は静かに言った。


「乃々香、ずっと練習してるし」


「だったら」


「でも」


楓花が続ける。


「乃々香までいなくならなくていいよ」


乃々香が目を瞬いた。


「……何それ」


「そのまま」


「意味分かんない」


「前より上手くなってると思う」


楓花は言った。


「振りも入ってるし、前より余裕もある。だから、頑張ってることはちゃんと分かる」


「じゃあいいじゃん」


「でも最近、乃々香が笑ってるところ、あんまり見ない」


その言葉に。


乃々香は何も返せなかった。


莉緒が壁に寄りかかりながら言う。


「空気も壊さないし」


「それ、そんなに大事?」


思わず返した。


莉緒は少し考えて。


「結構」


と答えた。


「なんで?」


「乃々香だから」


「……それ答えになってない」


「でもそうなんだもん」


「私、別に笑わせるためにRain Crownにいるわけじゃないよ」


「知ってる」


「ふざけるために選ばれたわけでもない」


「それも知ってる」


「じゃあ!」


「誰もそんなこと言ってないじゃん」


紡だった。


乃々香が振り返る。


「乃々香が勝手に、“面白い自分”と“ちゃんとしてる自分”を分けてるだけじゃん」


「……紡」


楓花が止めるように名前を呼ぶ。


けれど紡は続けた。


「だって変だもん」


「何が」


「選ばれたら急に別人にならなきゃいけないの?」


「別人になろうとしてない!」


「なってるよ」


その一言が。


刺さった。


乃々香は立ち上がった。


「分かったように言わないで」


紡が黙る。


「みんなには分かんないよ」


「乃々香」


「ずっと選ばれてた人には分かんないし、選ばれてなくても平気な人にも分かんない」


「平気な人なんて」


楓花が言いかける。


乃々香は首を振った。


「ごめん」


スマートフォンを掴む。


「ちょっと外行ってくる」


今度は誰も止めなかった。


◇


廊下に出た瞬間。


乃々香は大きく息を吐いた。


歩く。


どこへ行くかは決めていない。


ただ、あの部屋にいたくなかった。


自動販売機の前まで来て、足が止まる。


炭酸飲料。


水。


お茶。


コーヒー。


ボタンを眺める。


何が飲みたいのかも分からない。


「……最悪」


小さく呟いた。


壁にもたれる。


言いすぎた。


分かっている。


莉緒も。


紡も。


楓花も。


責めたいわけじゃなかった。


なのに。


戻りたくない。


スマートフォンが振動した。


画面を見る。


紡。


『犬いる?』


「……は?」


思わず声が出た。


続けて。


『今は犬じゃない?』


もう一通。


『犬なら送れる』


乃々香の口元が少しだけ緩んだ。


でも。


笑えなかった。


『いらない』


打って。


消す。


『あとで』


送った。


◇


「乃々香」


顔を上げた。


恋がいた。


少し離れたところに立っている。


「何してるの?」


「休憩」


「ここで?」


「うん」


恋はそれ以上聞かず、隣の自動販売機で水を買った。


乃々香は少し迷ってから口を開く。


「恋」


「ん?」


「前に言ったじゃん」


「何を?」


「前に立つの、緊張するって」


「ああ」


「それってさ」


乃々香は床を見た。


「怖くなることもある?」


恋は水の蓋を開ける手を止めた。


「あるよ」


「自分でいいのかな、とか」


「ある」


「……今でも?」


「ある時はある」


乃々香は顔を上げた。


「でも恋はセンターじゃん」


「センターだからなくなるわけじゃないよ」


恋はそれだけ言った。


乃々香は黙った。


恋も、続けなかった。


しばらくして。


「戻る?」


と聞いた。


「……もうちょっと」


「分かった」


恋は先に戻っていった。


乃々香はその背中を見送る。


センターでも。


慣れていても。


怖い。


じゃあ。


怖いまま立っていてもいいのだろうか。


そう考えた。


でも。


すぐに別の声が浮かぶ。


――なんでこの子が選ばれたの?


まだ誰にも言われていない言葉。


それなのに。


ずっと頭の中にいる。


◇


レッスンが再開した。


乃々香も戻った。


誰もさっきの話を蒸し返さなかった。


「じゃあ頭から」


振付の先生の声。


音楽。


乃々香は踊る。


今までより強く。


間違えないように。


でも。


身体が少し固い。


分かっているのに。


力が抜けない。


曲が終わる。


「乃々香」


振付の先生が声をかけた。


「はい」


「振りは合ってる」


「はい」


「でも、ちょっと力入りすぎてるかな」


乃々香は黙った。


「前よりできるようになってるから、そんなに全部を取りにいかなくても大丈夫」


「……はい」


「もう少し楽しんでいいよ」


楽しんで。


その言葉が。


なぜか、一番難しく聞こえた。


◇


レッスンが終わった。


乃々香は荷物をまとめる。


今日は残らなかった。


帰ろうとしたところで。


「乃々香」


莉緒。


振り返る。


「なに?」


「さっきはごめん」


「……私も」


「つまんないは言い方悪かった」


「悪すぎ」


「でも」


莉緒が少し笑う。


「思ってることは同じ」


乃々香は睨む。


「反省してないじゃん」


「してるって」


少しだけ。


本当に少しだけ、乃々香も笑った。


莉緒はその顔を見た。


何も言わない。


そのことが、逆に分かった。


乃々香はすぐに視線を逸らす。


「……私さ」


「うん」


「選ばれた時」


口にするのが怖かった。


でも。


出てきた。


「嬉しかったんだよ」


「知ってる」


「めちゃくちゃ嬉しかった」


「うん」


「ずっと入りたかったし」


「うん」


乃々香はバッグの持ち手を握った。


「でも」


声が小さくなる。


「呼ばれた瞬間、怖くなった」


莉緒は黙っている。


「私でいいのかなって」


あの日と同じ言葉。


今度は、はっきり口にした。


「私より歌上手い子いるし」


一つ。


「私よりダンス上手い子もいるし」


もう一つ。


「可愛い子も、喋れる子もいるし」


止まらない。


「じゃあ、なんで私だったんだろうって」


「乃々香」


「選ばれた理由が分かんないから」


唇が震える。


「選ばれてよかったって思ってもらわないと」


莉緒の表情が変わった。


「誰に?」


乃々香は答えられない。


「スタッフ?」


「……分かんない」


「メンバー?」


「違う」


「ファン?」


「……分かんない」


莉緒はもう一度聞いた。


「じゃあ誰?」


乃々香は俯いた。


ようやく。


自分でも分かった。


一番納得していないのは。


自分だった。


「……私」


声がかすれた。


「私が、一番思ってないのかも」


「何を?」


「私でよかったって」


静かになった。


乃々香は慌てて顔を上げる。


「やだ、これ」


「何が?」


「また空気重くした」


いつもの癖で笑おうとした。


笑えなかった。


莉緒も笑わなかった。


「今日はいいんじゃない?」


「……何が」


「壊さなくても」


その言葉に。


乃々香の目から、一粒だけ落ちた。


「あ」


慌てて拭う。


「最悪」


「泣いた?」


「泣いてない」


「今落ちたじゃん」


「汗」


「目から?」


「うるさい」


やっと少し笑えた。


でも。


答えはまだ見つからない。


選ばれた理由も。


どうすれば自分を認められるのかも。


ちゃんとすることと、自分らしくいることを、どうやって同じ場所に置けばいいのかも。


何も。


分からない。


本番まで、あと三日。


乃々香はまだ。


自分で作ってしまった重たい空気の中に、立っていた。


ーー続く

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