第二章 ちゃんとしなきゃ
乃々香がメインメンバーに選ばれてから、二週間が経った。
最初は落ち着かなかった前方の立ち位置にも、少しずつ身体が慣れてきた。
曲が始まれば、次の移動を考えなくても足が動く。
歌割りも入った。
細かい角度も修正した。
振付の先生から止められる回数も、確実に減っていた。
「はい、一回通します」
音楽が流れる。
乃々香は鏡の中の自分を見た。
一歩。
ターン。
視線を上げる。
少し前には、ここで次の位置を確認してしまっていた。
今は違う。
顔を上げたまま移動できる。
曲が止まった。
「うん。乃々香、かなり良くなったね」
振付の先生が言った。
「ありがとうございます!」
乃々香はすぐに頭を下げた。
「最初より余裕も出てきたし。ちゃんと練習してるの分かるよ」
胸の奥がふっと軽くなる。
「はい。頑張ります」
それを聞いていた莉緒が、隣から肘で軽くつついた。
「褒められてるじゃん」
「うん」
「もっと喜べば?」
「喜んでるよ」
「またそのパターン?」
莉緒が笑った。
乃々香も少し笑う。
けれど、すぐ鏡へ視線を戻した。
褒められた。
嬉しい。
だからこそ。
もっとやらなきゃ。
そう思った。
◇
休憩時間。
「ねえこれ見て」
紡がスマートフォンを持って近づいてきた。
画面には、変な服を着せられてものすごく迷惑そうな顔をした犬が映っている。
乃々香の目が一瞬で輝いた。
「なにこれ、かわい――」
そこまで言って。
鏡の前に置いていた自分のスマートフォンが目に入った。
さっき撮った練習動画。
「あ、ごめん。あとで見る」
「え」
「今ちょっと確認したい」
紡が犬の動画と乃々香を交互に見る。
「犬より?」
「今日はね」
「乃々香が犬を後回しにした」
「そんな大事件みたいに言わないでよ」
「事件でしょ」
少し離れたところにいた莉緒が顔を上げた。
「明日雪降るんじゃない?」
「降らないから」
乃々香は笑いながら動画を開いた。
「ほら、二人とも休んでて」
紡が口を尖らせる。
「乃々香も休憩中だけど」
「私は大丈夫」
「最近そればっか」
「なにが?」
「大丈夫」
乃々香の指が一瞬止まった。
けれど、すぐ再生ボタンを押した。
「だって大丈夫だもん」
紡は何か言いかけたが、
「まあいいや」
とスマートフォンを引っ込めた。
「犬、あとで送る」
「絶対送って」
「そこは食いつくんだ」
「犬だから」
今度は三人で笑った。
ほんの少しだけ。
乃々香はまた画面に戻った。
◇
別の日。
取材用の写真撮影があった。
メインメンバーだけが呼ばれる仕事。
スタジオへ向かう途中、乃々香はいつもより何度も髪を触っていた。
「乃々香」
前を歩いていた恋が振り返る。
「なに?」
「さっきから髪触りすぎ」
「え、変?」
「変じゃない」
「じゃあいいじゃん」
「崩れるよ」
「あ」
乃々香は慌てて手を離した。
恋が小さく笑う。
「緊張してる?」
「……ちょっとだけ」
「ちょっと?」
「まあまあ」
「まあまあ?」
「結構」
恋が笑った。
乃々香は少し迷ってから聞いた。
「恋ってさ」
「ん?」
「こういうの、もう緊張しない?」
恋は一瞬きょとんとした。
「するよ」
「え?」
「する」
「ほんとに?」
「なんでしないと思ったの?」
「だって恋じゃん」
「どういう意味?」
「センターだし。こういうの慣れてるし」
恋は少し考えてから、
「慣れてても緊張はするよ」
と言った。
「毎回?」
「毎回ではないけど」
「じゃあ大事な時?」
「うん」
あっさりした答えだった。
乃々香は少し拍子抜けした。
「なんか……もっと無敵かと思ってた」
「誰が?」
「恋」
「勝手に無敵にしないで」
「ごめん」
二人で笑う。
スタッフから呼ばれ、恋が先に歩き出した。
その背中を見ながら、乃々香は少しだけ考えた。
前に立つ人も、緊張する。
当たり前のことなのに。
なぜか自分だけが知らなかった気がした。
◇
撮影が始まると、そのことを考える余裕はなくなった。
「凪野さん、もう少し顎引いて」
「はい」
「そうそう。視線こっち」
「はい!」
シャッター音。
「もう少し柔らかく笑ってみようか」
乃々香は口角を上げた。
カシャ。
「うーん、ちょっと固いかな」
「あ、ごめんなさい」
「謝らなくて大丈夫だよ」
「あ……はい」
深呼吸する。
笑う。
またシャッター。
いつもなら、こういう時ほど何か言っていた。
「笑ってって言われると逆に笑えなくなるやつです」
とか。
「犬見せてもらっていいですか」
とか。
そんなことを言えば、自分も周りも少し緩んだはずだ。
でも今日は。
余計なことは言わない。
ちゃんと撮る。
ちゃんと笑う。
ちゃんと期待に応える。
そればかり考えていた。
撮影が終わる。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました!」
深く頭を下げる。
スタッフからは、
「乃々香、最初よりだいぶ良かったよ」
と言われた。
「ありがとうございます」
嬉しい。
ちゃんとできた。
そう思うのに。
スタジオを出た瞬間、どっと疲れた。
◇
その夜。
乃々香は自宅でベッドに寝転がりながら、送られてきた写真の確認データを見ていた。
悪くない。
むしろ、綺麗に撮ってもらえている。
でも。
何枚かめくって、指が止まる。
笑っている自分。
ちゃんと笑えている。
はずなのに。
「……こんな顔だっけ」
小さく呟いた。
その時、通知が入った。
紡からだった。
『本日の犬』
朝見せられた犬とは別の、耳の大きな犬が走り回っている動画。
乃々香は吹き出した。
『かわいすぎ』
すぐ送る。
『やっと普通の乃々香出た』
返信が来た。
「なにそれ」
笑いながら打ち返そうとして。
指が止まった。
普通の乃々香。
じゃあ今の私は?
一瞬だけ考える。
けれど。
「考えすぎ」
乃々香はスマートフォンを伏せた。
明日もレッスンがある。
寝なきゃ。
ちゃんと。
◇
翌日。
全体リハーサル。
16人で合わせる曲の途中で、一人が移動を間違えた。
「あ、ごめん!」
音楽が止まる。
「大丈夫。もう一回そこの移動だけ確認しよう」
振付の先生が言う。
ミスをした子が申し訳なさそうに位置へ戻った。
部屋が静かになる。
ほんの少し前なら。
乃々香が何か言っていただろう。
「はい、今のは幻でしたー」
とか。
「一回みんな記憶消そ」
とか。
意味のない一言。
でも、それで誰かが笑っていた。
今日は。
乃々香も黙っていた。
次の振付を頭の中で確認していたから。
空気が少し重くなる。
誰も怒ってはいない。
誰も責めていない。
なのに。
ミスをした本人だけが、どんどん小さく見えた。
振付の先生が手を叩く。
「じゃあいこうか」
「はい」
曲が始まる。
乃々香も踊り始める。
一度目。
二度目。
今度はうまくいった。
「OK」
練習はそのまま進んでいく。
休憩になり、乃々香が水を飲んでいると。
少し離れたところで莉緒と紡が何か話していた。
莉緒がこちらを見る。
目が合う。
乃々香は首を傾げた。
「なに?」
「別に」
「絶対なんかあるじゃん」
「ないない」
「怪しい」
乃々香が近づこうとしたところで、
「休憩あと二分!」
声がかかった。
「あ、やば」
乃々香は慌てて自分の位置へ戻る。
紡がその背中を見ながら、小さく言った。
「……やっぱ変じゃない?」
莉緒は少しだけ黙ってから、
「うん」
と答えた。
鏡の前。
乃々香はそんな会話には気づかず、次の振付を確認している。
ちゃんとしなきゃ。
間違えないように。
迷惑をかけないように。
選ばれた意味があると思ってもらえるように。
その気持ちは、嘘じゃなかった。
頑張っていることも。
上手くなりたいことも。
全部、本物だった。
だから乃々香自身には分からなかった。
自分が少しずつ変わっていることも。
そして。
今まで乃々香が何気なく壊してきた空気を、
誰も壊せないまま残してしまう瞬間が、
増えていることも。
ーー続く




