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第一章 選ばれたのに、笑えない

「乃々香、おめでとう!」


発表が終わった瞬間、最初に飛んできたのは楓花の声だった。


続いて莉緒。


その後ろから紡。


「やったじゃん!」


「初メイン!」


「乃々香、固まってるけど大丈夫?」


気づけば、何人かに囲まれていた。


乃々香はまだ、自分の名前が呼ばれた瞬間から少しだけ時間が止まっているような感覚のままだった。


「……あ、うん」


「うん、じゃないでしょ」


莉緒が笑う。


「もっと喜びなよ」


「喜んでるよ」


「顔が全然喜んでない」


「え、そんなことある?」


乃々香は両手で頬を触った。


その仕草がおかしかったのか、紡が吹き出す。


「確認するんだ」


「だって、喜んでるつもりなんだけど」


楓花が少しだけ顔を覗き込んだ。


「びっくりした?」


「……うん」


それなら納得、とでも言うように楓花は笑った。


乃々香も笑い返した。


ようやく、少しだけ。


でも。


胸の奥には、さっき口からこぼれた言葉が残っていた。


――私でいいの?


自分で言ったくせに、消えてくれない。


◇


その日の帰り道。


乃々香は電車の窓に映る自分を見ていた。


スマートフォンには、メンバーから届いたメッセージが並んでいる。


『ほんとにおめでとう!』


『楽しもうね』


『一緒に頑張ろ!』


嬉しい。


間違いなく嬉しい。


何度も画面を見返した。


これまで発表のたびに、自分の名前が呼ばれる瞬間を想像したことがある。


その時は、もっと分かりやすく喜ぶと思っていた。


叫ぶとか。


泣くとか。


帰り道で意味もなく犬の動画を何十本も見るとか。


「……犬はいつも見るか」


一人で呟いて、少し笑った。


すぐに、また画面へ視線を落とす。


メインメンバー。


その文字を頭の中で繰り返す。


今まで、自分がそこにいないことの方が普通だった。


選ばれたメンバーを見て、


すごいな。


いいな。


いつか私も。


そう思う側だった。


今度は、自分が見られる側になる。


そう考えた瞬間。


嬉しさの中に、細い緊張が混ざった。


◇


最初のレッスン。


「じゃあ、今日は新曲のフォーメーションからいきます」


振付の先生の声に、乃々香はいつもより大きく返事をした。


「はい!」


莉緒が横でちらっと見る。


「今日、声でか」


「気合い」


「昨日までそんな声じゃなかったじゃん」


「昨日までは昨日まで」


「何それ」


軽いやり取り。


いつも通り。


そう思った。


新しい立ち位置を確認する。


乃々香の場所は、今までより前だった。


たった数歩。


それだけなのに、鏡に映る景色が違う。


後ろにいる人数が増えている。


前に誰かがいることに慣れていたから、その違いが妙に落ち着かない。


「凪野、そこ半歩内側」


「はい!」


すぐに直す。


音楽が流れる。


一度目。


止まる。


二度目。


また止まる。


細かな修正が入るたび、乃々香は何度も頷いた。


「ここ、もう一回いいですか?」


自分から聞いた。


「もちろん」


振付の先生が答える。


横で莉緒が少し笑った。


「真面目じゃん」


「悪い?」


「悪くないけど」


「じゃあいいでしょ」


そう返しながらも、乃々香はすぐ鏡に戻った。


今の角度。


次の移動。


歌に入るタイミング。


一つも落としたくなかった。


メインに選ばれたのだから。


ちゃんとしないと。


◇


休憩に入る。


いつもなら、乃々香は真っ先に誰かのところへ行く。


何か食べている子を見つければ、


「一口ちょうだい」


と寄っていくし、


眠そうな子がいれば、


「起きてる? 生きてる?」


と絡む。


でも今日は、鏡の前に座ったままだった。


スマートフォンで撮ったばかりの動画を再生する。


巻き戻す。


止める。


もう一度。


「乃々香」


楓花の声。


「ん?」


「休憩だよ」


「うん、分かってる」


「分かってる顔じゃないけど」


「ちょっとだけ確認したくて」


「どこ?」


「ここの移動。遅いよね」


楓花が画面を見る。


「そんなに遅くないと思うけど」


「でもちょっと遅い」


「本番までまだあるよ」


「だから今のうちに直したいの」


思ったより強い言い方になった。


楓花が一瞬黙る。


乃々香はすぐに気づいた。


「あ、ごめん。怒ってないよ」


「分かってる」


楓花はそう言って、ペットボトルを一本置いた。


「ちゃんと休んでね」


「うん」


楓花が離れていく。


乃々香はその背中を見た。


前なら、


「お母さんみたい」


くらい言っていた気がする。


でも、今日は出てこなかった。


代わりに、もう一度動画を再生した。


◇


数日後。


乃々香は自分でも分かるくらい、練習量を増やしていた。


早めに入る。


残って確認する。


家に帰っても動画を見る。


難しいところがあればメモをする。


歌割りも何度も聴く。


それ自体は嫌ではなかった。


むしろ。


少しずつできることが増えるのは楽しい。


スタッフからも、


「乃々香、かなり入ってきたね」


と言われた。


「ありがとうございます」


素直に嬉しかった。


もっとやろうと思った。


もっとちゃんと。


もっと。


そんなある日。


リハーサル中に移動のタイミングを間違えた。


「あ」


ほんの小さなミスだった。


誰かとぶつかったわけでもない。


曲はすぐ止まった。


「ごめんなさい、もう一回お願いします」


乃々香はすぐ頭を下げた。


振付の先生が、


「大丈夫。今のところだけ確認しよう」


と返す。


「はい」


位置に戻る。


その時。


隣にいた莉緒が、少し不思議そうに乃々香を見ていた。


「なに?」


乃々香が聞く。


「いや」


「なに」


「前なら今のミスで絶対なんか言ってたなって」


「何を?」


「知らないけど。“今のなしでーす”とか」


「言わないよ」


「言ってたじゃん」


「今はちゃんとやってるの」


その瞬間。


莉緒の表情がほんの少し止まった。


乃々香も気づいた。


今は、ちゃんとやってる。


じゃあ。


今までは?


そういう意味で言ったわけじゃない。


「違う、そうじゃなくて」


「分かってるよ」


莉緒は笑った。


いつもの軽い笑顔。


「次いこ」


「うん」


音楽が流れ始める。


乃々香は前を向いた。


今度は間違えない。


それだけを考えた。


◇


レッスンが終わった頃には、ほとんどのメンバーが帰っていた。


乃々香は一人、鏡の前に立っていた。


もう一度だけ。


そう思って曲を流す。


踊る。


止める。


また流す。


スマートフォンが振動した。


母親からだった。


『遅くなる?』


『少しだけ』


返信して、画面を閉じる。


ロック画面には、犬の写真。


乃々香は少しだけ頬を緩めた。


「かわい」


久しぶりに自然な声が出た気がした。


でも、すぐに音楽を流す。


鏡の中の自分を見る。


メインメンバー。


前に立つ自分。


選ばれた自分。


ちゃんとしなきゃ。


足を引っ張らないように。


選ばれてよかったと思ってもらえるように。


乃々香はもう一度、最初の位置へ戻った。


その頃には。


自分がここ数日、ほとんど誰も笑わせていないことに。


まだ、気づいていなかった。



ーー続く

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