プロローグ 重っ、この空気
レッスン場が、妙に静かだった。
いつもなら誰かしらが喋っている。
お菓子の袋を開ける音がして、誰かが笑って、別の誰かが「ちょっと聞いてよ」と話を始める。
それなのに今日は、誰もが自分のスマートフォンを見たり、鏡を眺めたり、意味もなくペットボトルのラベルを触ったりしていた。
乃々香はソファに座ったまま、ぐるりと部屋を見回した。
楓花は腕を組んで目を閉じている。
莉緒はストレッチをしている。
紡は普段より静かだ。
恋は壁際で資料を見ていた。
誰も、声を出さない。
乃々香は数秒だけ耐えた。
それから、眉をひそめて、つい声に出す。
「……重っ、この空気」
何人かが顔を上げた。
「え?」
「いや、重くない? 今日。怒られる前の教室みたいなんだけど」
紡が吹き出した。
「分かる」
「でしょ?」
「分かるけど今言う?」
楓花が呆れたように笑う。
乃々香は肩をすくめた。
「だって無理なんだもん。こういうの」
莉緒が床に座ったまま、にやっとする。
「乃々香、こういう時だけ強いよね」
「だけって何」
「空気壊すの」
「褒めてる?」
「半分」
「じゃあ残り半分も褒めて」
小さな笑いが広がった。
さっきまで張りつめていた部屋が、ほんの少しだけ元に戻る。
乃々香は満足そうにペットボトルを開けた。
別に、みんなを元気づけようと思ったわけではない。
ただ、重たい空気が苦手だった。
誰も喋らないなら、自分が何か言えばいい。
それで笑う人がいるなら、なおさら。
いつも、そうだった。
やがてスタッフが部屋に入ってきた。
空気が、もう一度変わる。
「では、次作のメインメンバーを発表します」
乃々香の指が、ペットボトルの蓋の上で止まった。
さっきまでの軽さが、急に遠くなる。
一人。
また一人。
名前が呼ばれていく。
乃々香は前を見ながら、心の中で小さく息を吐いた。
今回も、たぶん同じ。
何度も経験してきた。
呼ばれる側と、呼ばれない側。
その境目は、いつも突然やってくる。
だから期待しすぎないようにしていた。
期待すると、その分だけ痛いから。
「……凪野乃々香」
一瞬。
何の音も聞こえなくなった。
誰かがこちらを見た気がした。
莉緒の目が大きくなる。
楓花が笑った。
紡が口を開く。
でも、その全部が少し遠い。
乃々香は瞬きをした。
「……え?」
自分の名前だった。
確かに。
ずっと待っていたはずの名前。
ずっと呼ばれてほしかった名前。
なのに、嬉しいより先に出てきたのは、別の言葉だった。
「……私でいいの?」
誰に聞いたのか、自分でも分からなかった。
冗談も出てこない。
笑うこともできない。
いつもなら壊せるはずの空気の中で。
その瞬間だけ、乃々香は何も言えなくなっていた。
ーー続く




