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エピローグ それがないと始まらない

ライブから数日後。


乃々香は、レッスン場の床に座っていた。


目の前にはペットボトル。


隣には紡。


その向こうに莉緒。


少し離れたところでは、楓花がスタッフと話している。


いつもの景色。


なのに。


少し前とは違って見えた。


「ねえ」


紡がスマートフォンを差し出してくる。


「何?」


「犬」


乃々香は即座に受け取った。


「かわいっ」


画面の中では、小さな犬が自分のしっぽを追いかけてぐるぐる回っている。


乃々香は声を出して笑った。


「待って、ずっと回ってる」


「乃々香みたい」


「どこが?」


「自分で自分追い込んでるところ」


「急に刺してくるじゃん」


莉緒が吹き出す。


「うまい」


「うまくないから!」


乃々香は紡にスマートフォンを返した。


「もう犬だけ見せて。余計な解説いらない」


「でも否定できないでしょ」


「できるし」


「できる?」


「……半分くらい」


「できてないじゃん」


三人で笑う。


その笑い声を聞いて、楓花がこちらを見る。


「元気だね」


「元気です」


乃々香が答える。


「というか、楓花ちゃん」


「何?」


「最近みんな私の扱い雑じゃない?」


楓花は少し考えて。


「元に戻ったからじゃない?」


乃々香は一瞬だけ黙った。


それから。


「……それ、褒めてる?」


「全部」


今度は乃々香が笑った。


◇


メインメンバーとしての仕事は、まだ続いていた。


取材。


撮影。


レッスン。


ライブ。


選ばれる前には見えなかったことが、少しずつ見えてくる。


思っていたより、前に立つ人は迷う。


思っていたより、みんな緊張する。


思っていたより、できないことも多い。


そして。


思っていたより。


誰も最初から完成しているわけではなかった。


乃々香も同じだった。


ミスをしなくなったわけではない。


撮影で表情が固くなる日もある。


振付の先生に、


「そこ、もう一回」


と言われることもある。


そのたびに、


「すみません」


と言いそうになって。


最近は少しだけ変わった。


「はい、もう一回お願いします!」


それで終わる。


必要以上に、自分を小さくしない。


失敗したことと。


自分が選ばれていいかどうかを。


いちいち結びつけない。


まだ完璧にはできないけれど。


少しずつ。


◇


ある日のグループ撮影。


何人かのメンバーで並び、カメラマンが細かな位置を調整していた。


「もう少し右」


「はい」


「恋、ちょっと前」


「はい」


「乃々香、半歩後ろかな」


「はい!」


位置を直す。


全員がカメラを見る。


「じゃあ少しクールな感じで」


一斉に表情を作る。


数枚。


「いいね。次、もう少し自然に」


自然に。


その言葉を聞いた瞬間。


乃々香は横目で恋を見る。


恋はきれいな表情のままだった。


反対を見る。


莉緒もいる。


紡もいる。


誰も笑っていない。


乃々香は急に、むずむずした。


静かすぎる。


まただ。


「……あの」


カメラマンが顔を上げる。


「どうした?」


乃々香は少し迷って。


「自然にって言われると、急に自然が分かんなくなりません?」


一瞬。


沈黙。


紡が先に笑った。


「分かる」


莉緒も吹き出す。


「それ言っちゃう?」


恋まで口元を緩めた。


カメラマンが笑う。


「今の感じいいね。そのままいこう」


「え、これでいいんですか?」


「今の方が自然」


「じゃあ私、天才かもしれない」


「調子乗らないで」


どこからかツッコミが飛ぶ。


また笑いが起きる。


シャッター音。


一枚。


また一枚。


乃々香はその音を聞きながら思った。


前なら。


余計なことを言わないようにしていた。


ちゃんと見せなきゃ。


選ばれた人らしく。


メインメンバーらしく。


そんなことばかり考えていた。


でも。


メインメンバーらしい凪野乃々香なんて。


最初からどこにもいなかった。


いるのは。


凪野乃々香だけだった。


◇


その日の帰り。


乃々香は駅までの道を一人で歩いていた。


イヤホンから、新曲が流れている。


自分の歌声も入っている。


少し前なら。


その部分が来るたびに、ちゃんとできているかばかり気にしていた。


今は。


少しだけ嬉しい。


「……私いるじゃん」


小さく呟いた。


当然のことなのに。


笑ってしまう。


選ばれた理由は、今も全部は分からない。


これからまた選ばれるかも分からない。


次は名前を呼ばれないかもしれない。


それを考えると。


やっぱり怖い。


でも。


前とは少し違う。


選ばれたから価値があるわけじゃない。


選ばれなかったら、乃々香でなくなるわけでもない。


そして。


選ばれた場所で。


自分を消す必要もない。


スマートフォンが振動した。


グループの連絡。


『明日、集合時間早いので遅刻しないように!』


楓花からだった。


すぐに紡が返す。


『乃々香へ』


乃々香は立ち止まった。


『なんで私限定なの?』


莉緒。


『心当たりある?』


『ない』


恋。


『あるでしょ』


「ひど」


乃々香は笑いながら打ち込む。


『じゃあ明日一番に行きます』


数秒後。


楓花。


『それはそれで怖い』


乃々香は声を出して笑った。


◇


翌朝。


乃々香は一番ではなかった。


普通に三番目だった。


「惜しかった」


「何が?」


莉緒が聞く。


「一番乗り」


「狙ってたの?」


「一応」


「珍し」


「昨日言ったから」


「ちゃんとしてるじゃん」


乃々香は一瞬止まった。


そして。


少しだけ、にやっとした。


「でしょ?」


その返しに、莉緒も笑った。


やがて全員が集まる。


次の仕事の説明を待つ。


スタッフが来るまで、ほんの少し時間があった。


誰かが眠そうにしている。


誰かはスマートフォンを見ている。


誰かは鏡を覗いている。


いつもの朝。


少しだけ静か。


乃々香は周囲を見回した。


「……ねえ」


数人が顔を上げる。


「何?」


乃々香は笑う。


「今日、ちょっと空気重くない?」


紡がすぐに、


「始まった」


と笑った。


莉緒も続く。


「また壊す気?」


乃々香は肩をすくめる。


「え、ダメ?」


一瞬だけ。


みんなの顔を見る。


そして。


楓花が笑った。


「いいよ」


「ほんと?」


「うん」


少し離れたところから、恋も言う。


「それがないと始まらないから」


乃々香は一度だけ目を丸くした。


それから。


いつものように笑った。


「じゃ、遠慮なく」


張りつめた空気を壊すこと。


誰かを笑わせること。


真剣に向き合うこと。


怖がること。


前に立ちたいと思うこと。


どれか一つだけが、本当の自分だったわけじゃない。


全部。


凪野乃々香だった。


空気を読む。


見て。


感じて。


少しだけ重くなった瞬間に。


そこへ風を入れる。


それが正解かなんて。


たぶん、毎回は分からない。


それでも。


凪野乃々香は今日も。


Rain Crownの空気を。


いい意味で、ぶち壊していく。



ーー完

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