量子力学の体験学習
量子力学の体験学習
二人が夕暮れのなか校門を踏み越えようとするのはこれで三回目だった。だんだんと夕闇が濃くなっていく。
博が構えたourPadの画面の緑色の矢印は、前回と同じようにその瞬間に消えた。
二人はしばらく校門を踏み越えた姿勢のままでいたが、やがてゆっくりと向き直ってお互いの顔を見ると、博が尋ねた。
「どう?」
海人が首を振った。
「今度も何も起きなかった。やっぱり僕の夢?勘違い?だったのかな。ハカセは? やっぱりまた覚えてない?」
博が目を輝かせた。「覚えてる!」
「よかったー」と海人が安堵して、ため息をついた。
博が背中からランドセルをおろした。
「何をするの?」と海人がたずねた。
「そうか、覚えてないんだね。実験をしてきたんだよ」
博は、しばらくランドセルの中を探していたが、「やっぱりないんだ、持ってこれないんだな」というと、筆箱を開けて短い鉛筆を取り出した。
「そして自分のものは一緒に戻ってくるんだ。記憶はあったりなかったりなのに。どういうことなんだろう」
そう言って首をかしげた。
「ちょーひもりろんなんだから、観察するたびに状態が変わるんでしょ」
海人が当たり前だとでも言うように言い切った。
「え」
「ハカセが自分で言ってたじゃん。朝顔の観察日記の話」
「あ、そうか」
博が思いを巡らせて独り言を繰り出した。
「あのアプリで暗い世界に行くと、帰るのにはResetボタンを押さないといけない。Resetボタンを押すと、暗い世界に行く瞬間の続きに戻るけれど、その時には暗い世界に行っていた間の記憶があったり、なかったりする」
うーん、と考えていた博の表情が段々と明るくなった。
「これって、量子力学の体験学習じゃないか!」
「どういう意味?」
「観察日記と同じだ。暗い世界から戻って来るたびに自分自身を観察するんだ。記憶がない自分は、暗い世界に行かなかった自分、記憶がある自分は暗い世界に行った自分だ」
すごいなー、と博は目を輝かせていた。
「じゃあ、記憶がない場合、向こうの世界に行っていた自分はどこ行っちゃうの?」
暗い世界に行ったはずだが覚えていない海人は、気味が悪くなった。
「それに、最初に暗い世界に行った時に僕と話していたハカセもどこに行っちゃったの?」
「というより、たぶんそれも含めて今の自分なんだと思う」
「混ざっているってこと?」
「わからないけど、夢みたいになっていると思う。夢を覚えていることもあるし、忘れていることもある。こっちに戻ってくるときには時間が進んでいないのだから、実際の体験としては残っていなくて夢の記憶のようになっているのかな」
「ふーん。夢なら気楽だね。でも覚えていたり、忘れていたり、どう決まるのかな」
博は、「確率の問題だね」と言いながら考え込んだ。
「記憶があるときとないときに、状態が分けられるから、確率は半分半分だ」
「じゃあ、二回に一回は覚えていない、ってこと?」
「一人だったらね」
「どゆこと?」
「二人だと、どっちかが覚えている可能性はもっと高くなる。僕と海人がそれぞれ、覚えている、覚えていない、の二つの場合があるから、二人合わせて考えると、場合分けは四つになる」
そう言って博が指を一本立てた。
「僕と海人の両方が覚えてる場合」
次に立てる指を増やしながら、「僕が覚えていて海人が覚えていない場合、僕が覚えていなくて海人が覚えている場合、僕も海人も覚えていない場合」と続けた。
話し終わると、立てた指は四本になっていた。それを見ながら海人も繰り返して指を立てていった。
「うん、わかった」
「四つの場合のうち、二人とも覚えていないのは一回だけ。四回やって三回はどちらかはちゃんと覚えている、ってことになる」
「そっか、だったら二人で行って、帰ってきた後で覚えているか確認すればいいね」
博が、海人の顔をまじまじと見た。
「行くの?また?」
「え、行かないの?どうせ夢みたいなものだし、危なくなったらResetボタンで帰って来ればいいでしょ。あの世界といつまで繋がってるかわからないし」
博は、怖がりなくせに時に思い切りの良い、海人のこういうところが好きだった。きっとあまりいろいろ考えなくていい環境なんだろうな、と自分の境遇を振り返って羨ましくなることもあったが、それは考えても仕方のないことだった。今だって暗い世界に行っても落ち着いていたし、頼りになるのかもしれない、と思った。
「そうか、どうせ時間も進まないし。この時間に戻ってくるんだから、行くなら早い方がいいかな」
そう言うと、博はourPadを構えた。




