第8話 冷たい公爵ルシアン
午後。
冷たい公爵が来る。
そう聞かされたリリアーナは、椅子に深く腰を預けながら静かに息を吐いた。
足がだるい。
朝から立った。
座った。
また立った。
それだけで、足がだるい。
これはどうやねん。
公爵と会う前に、まず自分の足と交渉せなあかんのか。
恋愛ゲームのヒロインというものは、もっと花のように微笑みながら王子や公爵を待つものではないのか。
少なくとも、ふくらはぎの機嫌をうかがいながら冷たい公爵を迎えるものではないはずである。
リリアーナの横には、黒いスーツ姿の清司が立っていた。
黒い上着。
黒いシャツ。
緩めた襟元。
肩には刀を担いでいる。
礼服とも違う。
騎士服とも違う。
貴族の装いでもない。
王宮の空気には明らかに合っていないが、その目だけは扉の向こうを鋭く見据えていた。
人の距離も見えている。
逃げ道も見えている。
何かあれば、すぐに刀を抜ける。
少なくとも、清司の魂は動ける姿をしていた。
だが、現実の体は椅子に沈んだ金髪ふわふわ姫である。
足はだるい。
腰も重い。
朝から少し動いただけで、体は見事に悲鳴を上げていた。
「あっちの体に戻りたいわ……」
リリアーナが小さく呟くと、横に控えていたミレーヌが手帳から顔を上げた。
「戻れたとしても、王宮内では黒ずくめの不審者です」
「分かっとるわ」
「刀も持っています」
「分かっとる」
「すぐに取り押さえられるかと」
「俺、元若頭やぞ」
「こちらには魔法があります」
「ほんま、この世界ずるいな」
ミレーヌは深く追及せず、再び手帳へ視線を落とした。
「冷たい公爵の予習をします」
「会う前から?」
「はい。きもさには鮮度がありますので」
「保存するな言うたやろ」
「保存ではありません。記録です」
「余計悪いわ」
ミレーヌの手帳には、小さな文字でこう書かれていた。
攻略対象観察記録。
リリアーナは無言で、その文字を見た。
「お前、何作ってんねん」
「記録です」
「ふわ管の次はそれか」
「ふわ管とは別です。こちらは人物管理用です」
「分けるな。管理対象も増やすな」
説明しよう!
攻略対象観察記録とは、ミレーヌが勝手に作った非公式記録である!
王子!
騎士!
文官!
武官!
そして、これから来る冷たい公爵!
彼らの発言、距離感、きもさ、能力、現場復帰先を記録するためのものである!
なお!
今はまだ普通の手帳である!
だが、記録とは武器である!
この手帳が、のちに黒革の手帖として本格運用されることを、今の清司はまだ知らない!
いや、知ったところで絶対に納得しない!
「本人らには絶対見せるなよ」
「はい」
「絶対やぞ」
「言えということでしょうか」
「なんでや!」
「見せる、でしたね」
「そこちゃうねん」
昨日から、この女は「するな」をすべて前振りとして受け取ろうとする。
やはり怖い女である。
「それで、冷たい公爵ってどんな奴なん?」
「ルシアン・ヴァルモント公爵。ヴァルモント公爵家の現当主です」
「若いのに当主なんか」
「はい。強大な氷魔法を操り、感情を表へ出さず、他人にも興味を示さないことから、王宮では氷の公爵と呼ばれています」
「出たな」
「出ましたね」
「氷の何とか」
「恋愛ゲームでは定番です」
「冷やせばええと思ってるやろ」
「一定の需要があります」
「あるんかい」
ミレーヌは手帳を見ながら淡々と続けた。
「本来の設定では、無駄を嫌い、誰に対しても冷淡で、ヒロインにだけ少しずつ心を開いていく人物だったと思います」
「めんどくさ」
「最後はかなりデレます」
「なんで分かるん?」
「高低差です」
「山か」
「恋愛ゲームです」
「登山みたいに言うな」
「最初が冷たいほど、最後のデレが効くんです」
「お前、恋愛ゲーム嫌いや言うてたやろ」
「嫌いですが、構造は分かります」
「それが怖いねん」
リリアーナはテーブルの上に置かれていた水を一口飲んだ。
部屋には、午前と同じく木の香りが薄く漂っている。
甘くない。
重くもない。
ふわ姫の体でも、まだ息がしやすい。
ミレーヌは本当に仕事が早い。
腹立つほど有能である。
「それで、公爵は何しに来るん?」
「表向きはお見舞いです」
「表向きは」
「姫様の状態確認と、王宮内の動きの把握も兼ねているかと」
「なるほどな」
「恋愛ゲーム的には初回接触イベントです」
「いらん情報混ぜるな」
「重要です。初回の印象は後のルートに影響します」
「ルート開かんでええ」
「閉じるためにも、まず把握が必要です」
「それはそうやな」
認めたくないが、ミレーヌの言うことはだいたい正しい。
腹立つほど、正しい。
その時、扉が叩かれた。
「姫様。ルシアン・ヴァルモント公爵がお見えです」
来た。
黒スーツ清司が肩に担いだ刀へ手を添える。
リリアーナは椅子へ座ったまま扉を見た。
「入って」
扉が勢いよく開いた。
冷たい風が部屋へ流れ込み、細かな氷の粒がきらきらと舞う。
床の上で、雹がぱらぱらと小さな音を立てた。
黒スーツ清司は刀を肩から下ろし、鞘に添えた手を柄へ移した。
まだ抜かない。
ただ、入ってきた男から一度も目を離さない。
銀灰色の髪。
氷のような青い瞳。
隙のない礼装。
まっすぐな姿勢。
面構えはええ。
それは認める。
だが、室内へ雹を連れてくる見舞い客を、まともとは呼びにくい。
男は部屋の中央まで歩くと、大きく胸を張った。
そして、勢いよく片腕を上げた。
「氷の翼ぁ!! 参上ぉう!!」
部屋が止まった。
ミレーヌの筆も止まった。
黒スーツ清司は刀へ手を添えたまま、微動だにしない。
リリアーナはしばらく男を見つめた。
「……思ってたんと違う」
「よく言われるよ」
ルシアンは気にした様子もなく、近くの椅子を勝手に引いて座った。
距離が近い。
初対面の公爵とは思えないほど近い。
「俺、無駄な話嫌いなんだよね」
「俺もや」
「一緒だね」
ルシアンが嬉しそうに笑った。
冷たい公爵と聞いていた。
感情を見せず、他人に興味を示さず、誰に対しても冷淡な男だと聞いていた。
だが、目の前にいる男は、会って十秒で勝手に椅子へ座り、共通点を見つけただけで距離を詰めてきた。
「お前、物理的に寒いねん」
「氷魔法使いだから、しょうがないよね」
「しょうがなくないやろ。部屋ん中に氷持ち込むな」
「でも、俺が暑かったら変じゃない?」
「知らんがな」
ルシアンは不思議そうに首を傾げた。
本人に悪気はない。
冷たい態度を取っているつもりもない。
ただ、氷魔法の調整が雑なだけだった。
ミレーヌが手帳へ素早く書き込む。
『冷たい公爵』
『物理的に冷たいだけ』
『距離は近い』
「設定と全然ちゃうやんけ」
「ですが、氷の公爵ではあります」
「氷しか合ってへん」
ルシアンは二人の会話を気にすることなく、テーブルの水差しを手に取った。
指先が触れた途端、中の水が冷え、透明な水差しの表面へ薄く霜がつく。
「水飲む?」
「勝手に冷やすな」
「冷たい方がおいしいよ」
「腹冷えるやろ」
「じゃあ、少しだけ冷たくするね」
「調整できるんやったら、最初からせえ」
「分かった!」
素直である。
驚くほど素直である。
ルシアンは水差しを両手で持ち、真剣な顔で冷たさを調整し始めた。
黒スーツ清司は、刀を抜かないままその様子を見ている。
敵意はない。
だが、別の意味で油断できない。
「お前、公爵家の当主なんやろ」
「そうだよ」
「領地の状況、ちゃんと王宮に報告してんの?」
「必要なことは言ってるよ」
「誰に?」
「聞いてきた人」
「あかんやろ。報連相しろ」
「ほうれん草?」
ルシアンが目を丸くした。
「報告、連絡、相談や!」
「なにそれ! 野菜じゃないの?」
「あかん、こいつアホや」
ルシアンは水差しを持ったまま、首を傾げた。
整った顔で、本気で分かっていない。
黒スーツ清司は柄から手を離し、刀を肩へ戻した。
敵ではない。
ただのアホである。
「報告は、起きたことをちゃんと伝える。連絡は、決まったことや変わったことを知らせる。相談は、自分だけで決める前に人へ聞く。分かった?」
ルシアンの表情が、ぱっと明るくなった。
「報告! 連絡! 相談だね! 分かったよ!」
「声でかいねん」
「忘れないように言ったんだよ」
「忘れそうやもんな」
「紙に書いた方がいい?」
「書け。今すぐ書け」
「紙ある?」
ルシアンがミレーヌの手帳へ手を伸ばした。
ミレーヌは素早く手帳を胸元へ引き寄せる。
「こちらはお貸しできません」
「どうして?」
「公爵様に関する記録がございますので」
「俺のこと書いてるの? 見せて!」
「絶対見せるな!」
リリアーナが叫ぶと、ルシアンはさらに身を乗り出した。
「気になる!」
「気にせんでええ!」
「無駄な話は嫌いだけど、自分の話は気になるよ」
「都合ええな!」
ミレーヌは手帳を守りながら、冷静な顔で問いかけた。
「公爵様は、姫様のお見舞いに来られたのでは?」
「そうだった!」
「忘れてたんかい」
ルシアンは姿勢を正し、リリアーナの顔をじっと見た。
「倒れたって聞いたけど、大丈夫?」
「虚弱なだけや」
「虚弱」
「朝から立って、座って、また立ったら、もう足がだるい」
「それは大変だね」
ルシアンは真剣な顔で頷くと、すぐに水差しを持ち上げた。
「水飲む?」
「水しか出てこんのか」
「水分補給は大事だよ」
「それはそうやけど」
「冷たすぎないようにしたから飲んで」
差し出された水は、先ほどより少しだけ冷たくなっていた。
氷も入っていない。
飲みやすい温度である。
リリアーナが一口飲むと、ルシアンは期待に満ちた目でこちらを見た。
「どう?」
「ちょうどええわ」
「最高ぉう!」
「それ、お前も言うんか」
「セシルが言ってたから、いいなと思って」
「うつってんねん」
「ロイヤルフラグメントでは流行ってるよ」
「誰が広めてん」
「セシル」
「誰やねん!」
ルシアンは満足そうに頷きながら、自分の分の水も冷やした。
そして一口飲む。
「最高ぉう!」
「二回言うな」
「いいものは何回言ってもいいよ」
「無駄な話嫌いなんちゃうんか」
「これは無駄じゃないよ」
「基準どうなってんねん」
ミレーヌの筆が再び動く。
『無駄の基準は本人次第』
『水分補給への執着あり』
『素直』
『アホ』
「最後のやつ消したれ」
「事実です」
「俺、アホなの?」
「気づいてなかったんか」
ルシアンは少し考えた。
「でも、報告、連絡、相談は覚えたよ」
「今覚えたばっかりやろ」
「じゃあ、今から報告するね」
「急やな」
ルシアンは椅子に座り直し、少しだけ真面目な顔になった。
「北方街道の雪解けが遅れてる。いつもより荷車が通りにくいよ」
リリアーナの目が細くなる。
「穀物の輸送は?」
「遅れてる。でも、まだ王都には伝えてない」
「なんでや」
「聞かれてなかったから」
「あかんて!」
「今、報告したよ」
「俺にだけしてどうすんねん。王と担当の奴にも言え」
「分かった。連絡もするね」
「倉庫と商会にも確認しろ。何が足りんか、自分だけで決める前に相談もせえ」
「報告、連絡、相談だね」
「そうや」
「すごいね、ほうれん草」
「野菜に戻すな」
ルシアンは楽しそうに笑った。
冷たい公爵。
氷の翼。
他人に興味を示さず、無駄を嫌う孤高の男。
その設定は、登場から数分でほとんど崩れた。
残ったのは、強力な氷魔法と公爵の身分。
妙に素直で距離が近く、人へ冷たい水を飲ませたがるアホ。
だが、清司が教えればすぐに覚える。
言われたことを素直に受け止め、必要なことを動かそうとする。
それなら、使える。
黒スーツ清司も、刀を肩に担いだままルシアンを見ていた。
もう警戒はしていない。
ただ、少し呆れている。
「リリアーナ」
「なんや」
「また来てもいい?」
「無駄な話せえへんならな」
「しないよ」
「ほんまか?」
「水だけ持ってくる」
「それは助かるわ」
ルシアンの顔が一気に明るくなった。
「じゃあ、水分補給は俺に任せて!」
「お前、公爵やろ」
「公爵でも水は冷やせるよ」
「そういう話ちゃうねん」
「最高ぉう!」
「帰れ」
「また来るね!」
ルシアンは勢いよく立ち上がり、片腕を高く上げた。
「氷の翼ぁ!! 撤収ぅう!!」
「普通に帰れ!」
扉が開く。
冷たい風と一緒に、ルシアンは満足そうに部屋を出ていった。
床には、溶けかけた雹が残されている。
ミレーヌが静かに手帳へ書き込んだ。
『冷たい公爵』
『物理的に冷たい』
『馴れ馴れしい』
『素直』
『アホ』
『水分補給係候補』
「最後だけ現場復帰先決まるん早すぎるやろ」
「適性がございましたので」
「公爵やぞ」
「水を冷やせます」
「そういう問題ちゃうねん」
黒スーツ清司は、刀を肩に担いだまま、閉じた扉を見ている。
リリアーナは椅子へ深く沈み、冷やされた水をもう一口飲んだ。
確かに、ちょうどいい。
「……水はうまいな」
「記録しておきます」
「それは書かんでええ」
「最高ぉう、と」
「言うてへんわ!」
ただ、物理的に冷たかった。




