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ふわ姫若頭 〜恋愛フラグを全部現場復帰させたら、女王ルートが開きました〜  作者: 夜嶋朔
第一章 王宮現場復帰編

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第8話 こいつまじか

午後。


冷たい公爵が来る。


そう聞かされた清司は、椅子に深く腰を預けながら、静かに息を吐いた。


足がだるい。


朝から立った。

座った。

また立った。


それだけで、足がだるい。


これはどうやねん。


公爵と会う前に、まず自分の足と交渉せなあかんのか。


恋愛ゲームのヒロインというものは、もっと花のように微笑んで、王子や公爵を待つものではないのか。


少なくとも、ふくらはぎの機嫌をうかがいながら、冷たい公爵を迎えるものではないはずである。


読者諸君には、もう見えているだろう。


リリアーナの横には、黒いスーツの男が立っていた。


王宮の空気には、明らかに合っていない。

礼服とも違う。

騎士服とも違う。

貴族の装いでもない。


黒い上着。

黒いシャツ。

緩めた襟元。

気だるそうに組まれた腕。


立ち姿だけなら、今すぐ廊下へ出て、角を曲がり、相手の懐へ踏み込めそうだった。


人の距離も見えている。

逃げ道も見えている。

嘘の気配も分かる。

間合いも読める。


動ける。


少なくとも、本人は動ける気でいる。


だが、現実の本体は椅子に座った金髪ふわふわ姫である。


足はだるい。

腰も重い。

朝から立って、座って、また立っただけで、身体は見事に悲鳴を上げている。


黒スーツの清司は、椅子の上のリリアーナを見下ろした。


そして、心底嫌そうに呟いた。


「……このふわ姫、なんやねん」


誰よりも客観的に、自分の現状へ突っ込める。


それが、別表示清司の利点であり、最大の不幸であった。


「あっちの姿に戻りたいわ……」


もちろん、戻れない。


戻れたところで、この王宮ではただの黒ずくめの不審者である。


「清司さん?」


横に控えていたミレーヌが、真面目な顔でこちらを見た。


「なんや」


「今、何かおっしゃいました?」


「いや、何でもない」


「そうですか」


ミレーヌは、深く追及しなかった。


なぜなら、彼女にはまだ見えていないからである。


リリアーナの横に立つ、黒スーツの清司を。


これは、リリアーナの中にいるはずの男が、なぜか横に立っているという、非常にややこしい現象である。


ただし、本人はまったく納得していない。


ミレーヌは、手帳を開いた。


「冷たい公爵の予習をします」


「会う前からか」


「はい。きもさには鮮度がありますので」


「保存するな言うたやろ」


「保存ではありません。記録です」


「余計悪いわ」


ミレーヌの手帳には、小さな文字でこう書かれていた。


攻略対象観察記録。


清司は、無言でその文字を見た。


「お前、何作ってんねん」


「記録です」


「ふわ管の次はそれか」


「ふわ管とは別です」


「分けるな」


「こちらは人物管理用です」


「管理対象増やすな」


説明しよう!


攻略対象観察記録とは、ミレーヌが勝手に作った非公式記録である!


王子!

騎士!

文官!

武官!

そして、これから来る冷たい公爵!


彼らの発言、距離感、きもさ、現場復帰先を記録するためのものである!


なお!


今はまだ普通の手帳である!


だが、記録とは武器である!


この手帳が、のちに黒革の手帖として本格運用されることを、今の清司はまだ知らない!


いや、知ったところで、きっと納得しない!


「本人たちには絶対見せるなよ」


「はい」


「絶対やぞ」


「言えってことですか?」


「なんでや!」


「見せる、でしたね」


「そこちゃうねん」


清司は額を押さえた。


昨日から、この女は「言うなよ」を全部フリにしようとしてくる。


やはり怖い女である。


「それで、その冷たい公爵は何者なんや」


「ルシアン・ヴァルモント公爵。ヴァルモント公爵家の現当主です」


「当主なんか」


「はい。若くして公爵家を継いだ、有能で冷淡な貴族。王宮では氷の公爵と呼ばれているそうです」


「出たな」


「出ましたね」


「氷の何とか」


「恋愛ゲームでは定番です」


「冷やせばええと思ってるやろ」


「一定の需要があります」


「あるんかい」


ミレーヌは、手帳を見ながら淡々と続けた。


「感情を見せず、無駄を嫌い、他人に興味がない。けれど、ヒロインにだけ少しずつ心を開いていくタイプです」


「めんどくさ」


「最後はかなりデレると思われます」


「なんで分かるんや」


「高低差です」


「山か」


「恋愛ゲームです」


「登山ゲームみたいに言うな」


「最初が冷たいほど、最後のデレが効くんです」


「お前、恋愛ゲーム嫌いや言うてたやろ」


「嫌いですが、構造は分かります」


「それが怖いねん」


清司は、テーブルの上に置かれた水を一口飲んだ。


部屋には、午前と同じく木の香りが薄く漂っている。


甘くない。

重くもない。


ふわ姫の体でも、まだ息がしやすい。


ミレーヌは本当に仕事が早い。


腹立つほど、有能である。


「で、その公爵は何しに来るんや」


「表向きはお見舞いです」


「表向きは」


「はい。裏では、おそらく姫様の状態確認と、王宮内の動きの把握かと」


「なるほどな」


「あと、恋愛ゲーム的には初回接触イベントです」


「いらん情報混ぜるな」


「重要です」


「重要なんかい」


「はい。初回の印象は後のルートに影響します」


「ルート開かんでええ」


「閉じるためにも、まず把握が必要です」


「それはそうやな」


認めたくないが、ミレーヌの言うことはだいたい正しい。


腹立つほど、正しい。


その時、扉が叩かれた。


「姫様。ルシアン・ヴァルモント公爵がお見えです」


来た。


清司は、横に立ったまま半目になった。


一方、リリアーナの身体は椅子に座っている。


足はだるい。


だが、座っていれば何とかなる。


姫スマの準備もできている。


精神の準備はできていない。


「お通ししてください」


リリアーナの声で、清司はそう言った。


扉が開く。


その瞬間、部屋に冷たい風が流れ込んだ。


いや、風だけではない。


白い息のような冷気と一緒に、細かな氷の粒がきらきらと舞い込んでくる。


ぱらぱら、と床の上で小さな音がした。


雹である。


室内である。


清司は、姫スマを作る前に、内心で叫んだ。


うわ! さぶっ!!


横に立つ黒スーツの清司も、まったく同じ顔で肩をすくめていた。


なんで室内に雹入ってくんねん。


冷たい公爵とは聞いていた。


だが、物理とは聞いていない。


入ってきた男は、銀灰色の髪を揺らし、氷のような青い瞳でこちらを見た。


隙のない礼装。

まっすぐな姿勢。

整った立ち姿。


面構えはええ。


それは認める。


だが、入ってきた瞬間に雹を連れてくる男を、まともな見舞い客とは呼びにくい。


男は胸に手を当てた。


「氷の神殿より、参上いたしました」


部屋が止まった。


清司も止まった。


ミレーヌの筆も止まった。


「……はい?」


「我が名は、ルシアン・ヴァルモント」


男は、氷のような顔のまま続けた。


「またの名を、氷の翼」


清司は、ゆっくりと瞬きをした。


こいつ、まじか。


ミレーヌが、小さく手帳へ書いた。


『冷たい公爵、中二病』


「早い」


清司が小声で言う。


「確定が早すぎる」


「いえ、今ので確定です」


「否定できへんけども」


ルシアンは、真剣な表情でリリアーナを見つめた。


「倒れたと聞きました」


「はい」


「まさか」


ルシアンの瞳が、わずかに鋭くなる。


「闇より来たりし冷たき呪い……ダークコールドに、触れられたのでは」


部屋の空気が、さらに冷えた。


物理的にも、精神的にも。


清司は、姫スマを保ったまま、内心で呻いた。


うわ、さぶ。


横に立つ黒スーツの清司も、同じ顔で小さく震えていた。


雹のせいではない。


発言のせいである。


人の嘘も、距離も、殺気も読める男である。


だが、氷の翼とダークコールドには、対処法がなかった。


清司の前世には、そういう現場がなかったからである。


抗争にも、取引にも、若頭会にも、ダークコールドは出てこない。


出てきたとしても、たぶん全員に無視される。


「……何の現場やねん」


清司は、心の底からそう思った。


なお、清司は一瞬だけ思考を放棄しかけた。


だが、放棄できなかった。


なぜなら、ここで考えるのをやめると、相手の世界観に飲まれるからである。


相手は攻略対象。


しかも、公爵である。


たとえ氷の翼でも、雑には扱えない。


おいたわしいのは、今日も清司の精神である。


ミレーヌの筆が、止まらない。


『氷の翼』

『ダークコールド』

『発言も寒い』

『本人は真剣』


「書くな」


「重要です」


「重要やけど、記録される側の気持ちにもなれ」


「本人には見せません」


「絶対見せるなよ」


「言えってことですか?」


「なんでや!」


リリアーナは、姫らしく微笑んだ。


「ダークコールドではありません」


ルシアンが止まった。


「……違うのですか」


「違います」


「氷の封印でもなく」


「違います」


「古き血に刻まれし冬の契約でもなく」


「違います」


「では、何が」


清司は、心底疲れた声で言った。


「ただの虚弱です」


部屋が、また止まった。


ミレーヌが小さく頷く。


「ふわ姫体力管理記録にも、そう記載しております」


「その記録名もどうなんや」


ルシアンは、しばらく黙っていた。


そして、氷のような顔で小さく頷いた。


「虚弱」


「はい」


「それは、厄介ですね」


「はい」


「闇の呪いより、現実的です」


「そこ比べるんですね」


「現実は、時に呪いより冷たいものです」


清司は、横に立つ黒スーツの自分と同じ顔で遠くを見た。


もう帰りたい。


いや、正確には帰れない。


ここは自室である。


帰るべきは、向こうだ。


清司は、姫スマを保ったまま、澄んだ声で言った。


「公爵様」


「何でしょう」


「帰ってもかまいませんよ」


部屋の空気が、凍った。


いや、最初から寒いので、これ以上凍られると困る。


ルシアンの表情が、ほんの少しだけ揺れた。


「……姫君」


「はい」


「私に、帰れと?」


「お見舞いには来ていただきました」


「はい」


「ですが、私は虚弱で、殿下は氷の翼で、ダークコールドではありません」


「……はい」


「これ以上お話すると、私の体力より先に、場の温度が限界を迎えそうです」


ミレーヌの肩が震えた。


笑っている。


絶対に笑っている。


リリアーナは、姫らしく微笑んだ。


「ですので、お互いに無駄を省きましょう」


ルシアンは、しばらくリリアーナを見ていた。


そして、少しだけ目を細めた。


「リリアーナ姫は」


「はい」


「変わられましたね」


「そうでしょうか」


「以前は、そのようなことをおっしゃる方ではなかった」


「体調を崩してから、少し考え方が変わりまして」


「考え方」


「はい。無駄なものを、見直したいと思うようになりました」


これは本音だった。


無駄な距離感。

無駄な忠誠。

無駄な恋愛イベント。

無駄な防衛の穴。

無駄な命の捨て方。


この城には、無駄が多い。


いや。


無駄というより、見て見ぬふりされているものが多い。


ルシアンは、清司をじっと見た。


さっきまでの中二病が、少しだけ奥へ引っ込んだ。


冷たい公爵としての顔が、静かに整っていく。


「興味深いですね」


出た。


興味ない男が興味持つやつや。


清司は内心で舌打ちした。


ミレーヌが横で小さく息を吸った。


笑うな。


「興味を持っていただけて光栄です」


「皮肉ですか」


「いいえ」


清司はにこりと笑う。


「公爵様のように無駄を嫌う方なら、きっと国のこともよく見ておられるのだと思いまして」


ルシアンの目が、わずかに細くなった。


「国のこと」


「はい」


「姫君が、そのようなことに興味を?」


「ええ」


清司は、扇を手に取った。


姫らしく、口元を隠す。


その中で、目だけは笑っていなかった。


「先日、書庫で近衛の配置と国境の報告を少し見ました」


ルシアンの表情が、ほんのわずかに変わった。


帰れと言われた時より、こちらの方が効いたらしい。


やっぱり、この男はただ痛いだけではない。


政治の話には反応する。


「姫君が、国境の報告を」


「ええ。まだ、ほんの一部ですが」


「陛下がお許しに?」


「はい」


「……なるほど」


ルシアンは黙った。


考えている。


清司は、その沈黙を見た。


無駄な会話が嫌い。


それは、かっこつけの台詞だけではないのかもしれない。


この男は、必要な情報が出ると黙る。


聞いている。


測っている。


それなら使える。


冷たいのは腹立つ。


入場が寒いのも腹立つ。


発言が痛いのも、まあまあ腹立つ。


だが、使えるかどうかは別の話だ。


「ヴァルモント公爵領は、北方でしたね」


「はい」


「冬が長いと聞きました」


「その通りです」


「王都への穀物輸送に、遅れが出ているのではありませんか」


ミレーヌの手が、ほんの少し止まった。


ルシアンの目も止まった。


当たりか。


清司は、扇の奥で息を整えた。


ふわ姫の体は、頭を使うだけでも少し疲れる。


腹立つ。


だが、今は止まれない。


「なぜ、そう思われたのです」


「書庫で見た報告に、北方街道の補修遅れがありました」


「……」


「それから、王宮の厨房で使われている小麦の質が、少し変わっていると聞きました」


「厨房まで?」


「食べ物は大事ですので」


当然である。


飯は大事だ。


飯が回らない組織は、必ず崩れる。


「食料の質が落ちる時は、どこかで流れが詰まっています。道か、倉か、関所か、商会か」


ルシアンは黙った。


今度の沈黙は、明らかに違った。


冷たさではない。


警戒だ。


「姫君は」


ルシアンが、ゆっくりと言った。


「本当に、何を見ておられるのですか」


清司は微笑んだ。


「無駄を見ています」


ルシアンの目が、また揺れた。


さっきとは違う。


少しだけ、面白がっているようにも見えた。


まずい。


これは恋愛フラグではない。


いや、違う。


この世界では、たぶん何でも恋愛フラグになる。


ミレーヌが小声で言った。


「清司さん」


「言うな」


「公爵の好感度が上がりました」


「言うな言うたやろ」


「今のは政治理解イベントです」


「勝手にイベント化すな」


「冷たい公爵、知性に弱いタイプですね」


「めんどくさ」


「高低差に加えて、知性評価型です」


「分類増やすな」


ルシアンは、二人の小声には気づいていない。


いや、気づいているかもしれないが、聞こえないふりをしている。


そこは大人である。


おいたわしいのは、今日も清司の精神である。

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