第7話 静かな進行役バルド
翌朝。
朝の光が、白い部屋へ差し込んでいた。
眩しい。
相変わらず、この城は朝から無駄にきらきらしている。
もう少し影とかないんか。
「おはようございます」
銀の盆を持ったミレーヌが、寝台のそばに立っていた。
昨日、リリアーナの専属侍女になった女である。
背筋はまっすぐ伸び、表情は今日もスンッとしていた。
「おはよう」
リリアーナは、ゆっくり体を起こした。
その横には、刀を肩に担いだ黒スーツ清司が立っている。
何も言わない。
ただ鋭い目で、部屋の中を見ていた。
ミレーヌは水と薬湯を机へ置いた。
昨日まで部屋に残っていた甘ったるい香りは消えている。
代わりに、ほんの少しだけ木の香りがした。
リリアーナは息を吸った。
昨日より呼吸がしやすい。
「香り変えたんか」
「はい。甘い香りはお疲れになるようでしたので、木の香りにしました」
「俺に合わせるん早すぎるやろ」
「専属侍女ですので」
「専属なったん昨日やぞ」
「昨日から見ています」
「怖いねん」
「観察も仕事です」
ミレーヌは静かに茶を注いだ。
茶器の音ひとつ立てない。
昨日、専属侍女になったばかりとは思えない手際だった。
「あの大人気の歌舞伎映画、観ました?」
「観たな。大作や」
「ですよね。清司さん、歌舞伎映画の主演俳優に似てますね」
「は?」
リリアーナは眉をひそめた。
「あんなきらきらしてへんやろ」
「あの役者さんは、きらきらしてません。影があります。タイプではないですけど」
「タイプちゃうんかい!!」
「似ていることと、好みであることは別です」
「そこ分ける必要ある?」
「あります」
ミレーヌはスンッとしている。
「ですが、演技は素晴らしかったです。芸に取り憑かれた目をしていました」
「分かるわ」
リリアーナは思わず身を乗り出した。
ミレーヌが即座に茶器を遠ざける。
「急に動かないでください」
「お前が振った話やろ」
「好きな話になると、体力の残量を忘れますね」
「まだ何も起きてへん」
「予防です」
ミレーヌは茶器を少し離れた場所へ置いた。
「私、あの映画を観たあと、本物の歌舞伎を観に行こうとしていたんです」
「そうなん?」
「はい。演目を調べて、劇場までの行き方も調べました」
「ガチやんけ」
「男女が心中する有名な演目を観ようとしていました」
「いきなり重いやつ選んだな」
「映画を観た直後でしたので、情念の強いものが観たくなりまして」
「影響されすぎやろ」
「かなり持っていかれました」
「認めるんかい」
「ですが、舞台を観る前にこの世界へ来ました」
「タイミング悪すぎるやろ」
「かなり悔しいです」
「転生して最初の未練が歌舞伎なん?」
「そうですね」
「恋愛ゲームの世界に来とる場合ちゃうやん」
「本当にそう思います」
ミレーヌは真顔のまま首を傾げた。
「清司さんの権力で、この世界に歌舞伎を作れませんか?」
「作れるかい」
リリアーナは即答した。
「あんな歴史の長い芸、急に作れるわけないやろ。一代で作るもんちゃう。積み重ねや」
「積み重ね」
「家も芸も型も客も、全部いる」
「伝統芸能には、神様も悪魔も客も家も、すべているという話を見たことがあります」
「急に深いこと言うな」
「受け売りです」
「受け売りを朝のお茶と一緒に出すな」
「ですが、納得しました」
「分かるけどな」
「分かるんですね」
「芸の話やぞ。分かるわ」
リリアーナは茶を一口飲んだ。
「神様も悪魔もおるんやったら、なおさら急には作られへん。長いこと積み上げて、残ったもんが芸になるんやろ」
「清司さん、きちんと考えるんですね」
「俺をなんやと思ってんねん」
「元若頭です」
「元若頭でも芸ぐらい考えるわ」
「では、歌舞伎を作るのは無理でも、この世界の芸能を探しましょう。劇、音楽、舞踏、祭り。何かあるはずです」
「それはええな」
「恋愛イベントより、そちらの方が見たいです」
「俺もや」
「話が早いですね」
「ほんま、お前とは話早いな」
リリアーナは少し体を起こした。
話しているだけなのに、胸の奥が重くなる。
まだ息切れするほどではない。
だが、確実に疲れ始めていた。
ミレーヌは、それを見逃さなかった。
「本日から、体力づくりも始めます」
「急に現実戻すやん」
「ふわ姫体力管理記録も作成します」
「何それ」
「略して、ふわ管です」
「捨てろ」
「まだ一枚目です」
「今すぐ捨てろ」
「大切な記録です」
「名前変えろ」
説明しよう!
ふわ管とは!
ミレーヌが勝手に作成した、ふわ姫体力管理記録の略称である!
本人からの評判は、最悪である!
「昨日のうちに、お体を見てくださる方を手配しました」
「手配早すぎるやろ」
「専属侍女ですので」
「それ万能の言葉みたいに使うな」
ミレーヌはスンッとしたまま続けた。
「書庫までの歩行距離、息切れまでの時間、香りへの反応も伝えています」
「いつの間に測ってん」
「見ていましたので」
「怖いねん」
「歌舞伎映画のお話で身を乗り出した時の動きも追加します」
「それはいらん」
「現在の最高活動記録です」
「体力測定に使うな」
「分かりやすいです」
「誰が来るん?」
「バルド・ハルディン様です」
その名前を聞いた瞬間、リリアーナの中へ記憶が流れ込んだ。
バルド・ハルディン。
元近衛総隊長。
現在は、王宮内の式典や会議の進行を担っている。
大声を出さない。
命令もしない。
必要な時に、必要な物を用意する。
誰かが迷う前に、次の道を示す。
場を止めず、流れを乱さず、静かに全員を先へ進ませる男。
「攻略対象なん?」
「違います」
「隠し攻略対象は?」
「違います」
「ほんまに?」
「純粋な王宮職員です」
「よかった」
「かなり安心しましたね」
「会う男全員攻略対象やったら、頭おかしなるやろ」
「すでに少しなっていますよ」
「誰のせいやねん」
「乙女ゲームです」
「便利に使うな」
その時、扉が静かに叩かれた。
「失礼いたします」
低く穏やかな声だった。
リリアーナの横で、刀を肩に担いでいた黒スーツ清司が静かに刀を下ろす。
鞘から刃を抜き、切っ先を扉へ向けた。
扉が開いた。
入ってきたのは、背の高い男だった。
艶のある黒髪をきれいに後ろへ流している。
清潔感のある顔立ちに、落ち着いた目。
仕立てのよい黒い服には、派手な装飾がない。
それでも、王宮の中に立つ姿がよく馴染んでいた。
バルドは部屋へ入ると、まず窓を見た。
朝の光がリリアーナの顔へ直接当たらないよう、カーテンを少しだけ動かす。
寝台の近くへ椅子を置き、水の入ったグラスを手の届く位置へ移した。
誰にも指示を出していない。
けれど気づけば、部屋は次のことを始められる状態になっていた。
リリアーナは、その動きを見ていた。
段取りの人やな。
バルドはリリアーナの前まで進み、静かに一礼した。
「リリアーナ姫。バルド・ハルディンと申します」
「リリアーナでええよ」
バルドの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
「姫様を呼び捨てにすることはできません」
「ほな、リリアーナさん」
「そちらも難しいかと」
「面倒くさいな」
「王宮ですので」
「それ便利に使う奴、二人目やぞ」
ミレーヌはスンッとしている。
バルドは穏やかな表情を崩さなかった。
「まず、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
「ええよ」
「昨日は、どちらまで歩かれましたか」
「書庫まで」
「戻られたあと、どこから疲れを感じましたか」
「足より先に、息がしんどなった」
「お食事は」
「少し」
「お眠りは」
「何回か起きた」
バルドは一つずつ頷いた。
関西弁にも。
タメ口にも。
何も言わない。
「驚かへんの?」
「何にでしょうか」
「姫がこんな喋り方してんねんで」
「姫様が現在、このようにお話しになっている。それだけです」
「普通、もうちょい戸惑うやろ」
「戸惑うことと、今必要なことは別ですので」
リリアーナはバルドを見た。
バルドも静かに見返している。
横に立つ黒スーツ清司は、まだ刀を構えていた。
「では、足を床へ下ろしてみましょう」
「立つん?」
「本日は、立つ前までです」
「前まで?」
「足を床につけ、呼吸を整えます」
「それで体力つくん?」
「今の姫様には必要です」
言い切る声は穏やかだった。
押しつけてはいない。
だが、迷いもない。
バルドが手を差し出した。
掴ませるためではない。
必要なら、いつでも支えられる位置に置いている。
リリアーナは寝台の端へ移動し、足を床へ下ろした。
「そのままで結構です」
「まだ何もしてへんけど」
「まずは、何もしない状態を確認します。足の裏が床についています。呼吸は先ほどより浅い。右肩へ力が入っています」
リリアーナは右肩を見た。
「分かるん?」
「見れば」
「怖いな」
「よく言われます」
ミレーヌが静かに口を開いた。
「清司さんと同じですね」
「俺と?」
「見る側です」
リリアーナは、もう一度バルドを見た。
この男は、人を見ている。
体だけではない。
話し方も。
目も。
息も。
全部見たうえで、余計なことを言わない。
黒スーツ清司が刀を鞘へ戻し、再び肩へ担いだ。
「では、足の裏へ少しだけ体重を乗せてください」
リリアーナは床を踏んだ。
ただ、それだけだった。
それなのに、太ももが小さく震え始める。
腹立つな。
立ってすらないのに。
「息を止めないでください。肩の力を抜きましょう」
バルドの声が静かに落ちた。
リリアーナは息を吐き、もう一度、足の裏へ力を入れた。
もう少し。
あと少しなら、いける。
刀を肩に担いだ黒スーツ清司が、一歩前へ出た。
リリアーナの肩へ、黒スーツ清司の肩が重なる。
「まだいける」
声が低くなる。
震えていた足へ、もう一度力を入れた。
チリン。
澄んだ鈴の音が、部屋へ落ちた。
「ここまでです」
バルドが、小さな銀の鈴を手にしていた。
黒スーツ清司の姿が、リリアーナから静かに離れる。
「もう?」
「はい」
「まだいけるで」
「いけるところで終えることも必要です」
「立ってへんやん」
「本日の目的は、立つことではありません」
「何なん?」
「今の姫様が、どこまでできるのかを知ることです」
バルドは水を差し出した。
「まずは一口どうぞ」
リリアーナが水を飲んでいる間に、バルドは足元の椅子を元へ戻した。
窓を少し閉める。
冷えた風が弱くなった。
「寒いって言ってへんで」
「指先が冷えていましたので」
「よう見てんな」
「見ることも役目です」
バルドはグラスを受け取った。
「無理をさせず、止めすぎず、次へ進める。それが私の仕事です」
鍛える男ではない。
進ませる男だ。
何もしていないように見えて、気づけば場が整っている。
誰も命令されていないのに、全員が次へ進んでいる。
現場に一人おったら、かなり助かる人間だった。
「バルド」
「はい」
「俺のこと、どう思う?」
ミレーヌがリリアーナを見た。
バルドは変わらず穏やかだった。
「どのような意味でしょうか」
「リリアーナ姫には見えへんやろ」
「そうですね」
「中身、別人やと思わへん?」
「その可能性は考えております」
「考えてたんかい」
「昨日までの姫様と、まったく異なると伺っていますので」
「ミレーヌから?」
「お体の変化についてのみです」
ミレーヌは何も言わなかった。
バルドも深く追及しない。
「ほな、俺が悪いもんやったらどうする?」
「排除いたします」
声は穏やかだった。
だが、迷いはなかった。
「元近衛総隊長やもんな」
「はい」
「俺を殺せるん?」
「必要であれば」
リリアーナはバルドを見た。
バルドも目を逸らさない。
「けど、今は殺さんのや」
「はい」
「なんで?」
「姫様のお体を奪った存在であれば、まず周囲を欺こうとするでしょう」
「せやな」
「ですが、姫様はまったく隠しておられません。王宮の言葉遣いもなさらない。攻略対象かどうかを最初に確認なさる」
「大事やろ」
「それから、歌舞伎を一代では作れないとおっしゃった」
リリアーナは目を細めた。
「聞いてたん?」
「扉の前で、入室の許可を待っておりましたので」
「どこから?」
「神様も悪魔もいるという辺りから」
「ほぼ全部やないか」
「失礼いたしました」
「全然悪いと思ってへんやろ」
「必要な情報でしたので」
バルドは静かに続けた。
「姫様のお体を利用するだけの者ならば、この世界の芸の積み重ねまで考える必要はありません」
「……」
「この体で何ができるかを考え、できないことに腹を立て、それでも進もうとなさっている」
バルドの目が、リリアーナの横にいる黒スーツ清司の立つ場所へ向いた。
一瞬だった。
見えているのか。
偶然なのか。
分からなかった。
「少なくとも、今すぐ排除すべき存在とは判断しておりません」
「慎重やな」
「仕事ですので」
「俺は清司や」
ミレーヌが静かに目を伏せた。
リリアーナの横で、刀を肩に担いだ黒スーツ清司が一歩前へ出る。
金髪の少女と、黒スーツの男の姿が重なった。
「清司」
バルドが名前を繰り返した。
「前は男やった。こことは違う世界で、若頭やった。死んで、気づいたらこの体におった」
「承知しました」
「軽ない?」
「驚いております」
「全然見えへんけど」
「表へ出しても、状況は変わりませんので」
「ほんまに仕事できるな」
バルドは静かに一礼した。
「清司様」
「様いらん」
「では、清司さん」
「それでええ」
「承知しました」
あまりにも早かった。
「信じるん?」
「すべてを理解したとは申しません。ですが、ミレーヌ殿が清司さんと呼んでいる理由は理解しました」
ミレーヌがスンッとしたまま頷いた。
「それで、王に報告するん?」
「現時点ではいたしません」
「なんで?」
「リリアーナ姫のお体は生きておられます。そして、清司さんはこの国を害する行動を取っていない」
「今んとこな」
「今後、害するおつもりは?」
「ない」
黒スーツ清司が、リリアーナへ深く重なった。
「この体で生きるんやったら、ここでやれること探す。困っとる奴がおったら、できる奴に仕事渡す」
「はい」
「死にそうな奴がおったら、死なん現場に変える」
「はい」
「この世界の決まりが腐っとるんやったら、変える」
バルドは静かに聞いていた。
「俺は俺のやり方で生きる。それで、リリアーナの人生も無駄にはせえへん」
部屋が静かになった。
ミレーヌは何も言わない。
バルドも、すぐには答えなかった。
やがて。
バルドが小さな銀の鈴を手に取った。
チリン。
「承知しました」
澄んだ音が、新しい場の始まりを告げた。
「清司さんのお体は、私がお守りします」
「体だけ?」
「場も整えます」
「場も?」
「清司さんが何かを始める時、必要な人と物を揃えます。清司さんが前へ進めるように」
リリアーナはバルドを見た。
「それ、仲間になるってこと?」
「私でよろしければ」
「攻略対象ちゃうよな」
「違います」
「恋愛イベントも?」
「ございません」
「よし」
リリアーナは手を差し出した。
「ほな、今日から仲間や」
バルドは、その手を見た。
王族と臣下の礼ではない。
清司が差し出した手だった。
バルドは静かに握り返した。
「よろしくお願いいたします」
「敬語はそのままなんやな」
「こちらの方が落ち着きますので」
「好きにしたらええ」
「ありがとうございます」
ミレーヌが静かに茶を三つ用意した。
「私も仲間です」
「知ってる」
「先輩です」
「何の?」
「清司さんの正体を知った順です」
「いらん序列作るな」
「バルド様は二人目です」
「光栄です」
「乗るんや」
バルドは穏やかに微笑んだ。
ミレーヌはスンッとしている。
リリアーナは二人を見た。
一人目は、空気を読みすぎる専属侍女。
二人目は、鈴を鳴らす静かな進行役。
どちらも攻略対象ではない。
恋愛イベントもない。
それだけで、かなり信用できる。
「清司さん」
「なんや」
「ふわ姫体力管理記録に、バルド様の加入も書いておきます」
「体力関係ないやろ」
「重要な出来事です」
「別の紙に書け」
「では、清司組構成員名簿を作成します」
「極道組織みたいにすな」
「元若頭ですので」
「便利に使うな!」
バルドは静かに銀の鈴を持ち上げた。
チリン。
「お茶のお時間です」
その一言で、ミレーヌが茶を差し出し、リリアーナは自然と椅子へ座った。
部屋の空気が、次へ進んだ。
誰も命令されていない。
誰も急かされていない。
それでも、きちんと前へ進んでいく。
リリアーナの横では、刀を肩に担いだ黒スーツ清司が、新しく加わった二人の仲間を静かに見ていた。




