第7話 専属侍女、業務範囲が広すぎる
翌朝。
清司が目を開けると、部屋のカーテンが静かに開かれていた。
朝の光が、白い部屋に差し込む。
眩しい。
相変わらず、この城は朝から無駄にきらきらしている。
もうちょっと影とかないんか。
「おはようございます、姫様」
完璧な侍女の声がした。
見ると、ミレーヌが銀の盆を持って立っていた。
姿勢は美しい。
表情は穏やか。
声も柔らかい。
昨日、「この世界きもいですよね」と言っていた女とは思えない。
切り替え早すぎるやろ。
「おはようございます」
清司は、姫らしく返した。
部屋にはまだ、他の侍女もいた。
ミレーヌは何事もなかったかのように、朝の支度を進めていく。
水。
薬湯。
軽い朝食。
髪を整える道具。
香りの弱い花。
それから、昨日まで部屋に残っていた甘ったるい香が消えていた。
代わりに、ほんの少しだけ木の香りがする。
落ち着いた、乾いた香りだった。
清司は、無意識に息を吸った。
昨日より、呼吸がしやすい。
「香を変えたんか」
「はい」
ミレーヌは、何事もないように答えた。
「甘い香りはお疲れになるようでしたので、木の香りを少しだけ」
「木の香り」
「落ち着く殿方が多い香りです」
清司は黙った。
「……お前」
「はい」
「俺の中身に合わせてきたな」
「はい」
「怖いわ」
「味方です」
「そこが一番怖いねん」
説明しよう!
ミレーヌ・リースは、空気だけでなく香りの好みまで読む女である!
甘い香で姫を包むのではなく、中身の清司が落ち着く空気に変える。
つまり、怖い女である!
「皆さま、姫様はまだお目覚めになったばかりです。少しだけお静かに」
「はい、ミレーヌ」
「姫様……本日もお美しく……」
「おいたわしい……」
朝からそれ言うんかい。
清司は内心でため息をついた。
しばらくして、他の侍女たちが支度のために部屋を出る。
扉が閉まった。
ミレーヌは、静かに振り返る。
そして、完璧な侍女の顔のまま言った。
「清司さん、おはようございます。ふわ姫の体調はいかがですか?」
「朝一でふわ姫言うな」
「二人きりですので」
「使いこなしてるやんけ」
「便利なので」
「便利で済ますな」
清司は寝台の上で上体を起こした。
昨日よりは、少しだけ体が軽い。
だが、油断はできない。
この体は、漫画と映画の話で盛り上がっただけで倒れかける。
信用ならない。
「昨日、歌舞伎映画の話で倒れかけた件ですが」
「朝から蒸し返すな」
「記録しておいた方がいいかと思いまして」
「何の記録やねん」
「ふわ姫体力管理記録です」
「略語増やすな」
「略して、ふわ管」
「やめろ」
説明しよう!
ふわ管とは、ミレーヌが勝手に作りかけた、ふわ姫体力管理記録の略称である!
清司は即座に却下した。
当然である。
ミレーヌは何事もなかったように、お茶を注いだ。
所作は完璧だった。
背筋は伸びている。
指先は美しい。
茶器の音も立てない。
さすが王宮女中頭補佐である。
そのまま、ミレーヌは穏やかな顔で言った。
「命ぃい、賭ける覚悟がぁぁあ〜」
「ぶっ」
清司は吹き出した。
「姫様!?」
扉の外で侍女たちがざわつく。
清司は慌てて口元を押さえた。
「お前、朝のお茶入れながら人形浄瑠璃みたいな情念の女のマネすな!」
「昨日の歌舞伎映画のお話を思い出したので」
「思い出し方が急すぎるやろ!」
「声量は抑えました」
「そこちゃうねん」
ミレーヌは、何事もなかったかのように茶器を置いた。
「少し練習しておきたくなりまして」
「何に備えてんねん」
「いつか必要になるかもしれません」
「ならへんわ」
「分かりませんよ」
「何がや」
「恋愛ゲーム世界ですので」
「恋愛ゲームを万能にすな」
清司はもう一度笑いそうになって、慌てて口元を押さえた。
この体で爆笑すると、たぶん倒れる。
ふわ姫、笑いにも弱い。
説明しよう!
ふわ姫とは、清司の現在の体である!
疲れに弱い。
香に弱い。
歌舞伎映画トークに弱い。
そして、どうやら情念の女モノマネにも弱いのである!
「お前、専属侍女になった初日の朝から飛ばしすぎやろ」
「清司さんの精神衛生のためです」
「精神削ってきてる側やろ」
「でも、笑いましたよね」
「……笑ったけどな」
「では、効果ありです」
ミレーヌはにこりと笑った。
怖い女である。
「それで、清司さん」
「なんや」
「この世界にも、ああいう芸能があればよかったんですけどね」
「また歌舞伎映画かい」
清司は思わずミレーヌを見た。
ミレーヌは真顔でお茶を注ぎ直している。
「だって、観たくなりませんでした?」
「まあ、なるな」
「私、あの映画を観たあと、本当に古典芸能の舞台を観に行こうとしてたんですよ」
「え?」
「チケットを取ろうとして、演目を調べて、劇場までの行き方も見て」
「ガチやんけ」
「しかも、見に行こうとしていたのが、男女が心中する有名な演目で」
清司は黙った。
「清司さん?」
「お前、そこまで行ってたんかい」
「はい」
「もう芸に人生持っていかれてるやんけ」
「はい。持っていかれました」
「認めるんかい」
「でも、その舞台を観る前に、この世界に来てしまいました」
「タイミング悪すぎるやろ」
「かなり悔しいです」
「転生して最初の未練が古典芸能の舞台なんか」
「そうですね」
「恋愛ゲーム世界に来てる場合ちゃうやん」
「本当にそう思います」
ミレーヌは少し考え込むように、首を傾げた。
「清司さん」
「なんや」
「清司さんの権力で、この世界に歌舞伎みたいなものを作ってくれませんか?」
「作れるかい」
清司は即答した。
「あんな歴史が長い芸、ここで急に作れるかい!」
「あっ、やっぱり無理ですよね」
「当たり前やろ」
「伝統芸能には、神様も悪魔も客も家も全部いる、みたいな話を見たことがありまして」
「急に深いこと言うな」
「受け売りです」
「受け売りを朝のお茶の横で出すな」
「でも、納得しました。あの映画を観たあとだったので」
「分かるけどな」
「分かるんですね」
「分かるわ。そこは分かる」
清司は小さく息を吐いた。
「けど、歌舞伎みたいなもんを作るんは無理や。あれは一代で作るもんちゃう。積み重ねや」
「ですよね」
「家も、芸も、型も、客も、全部いる」
「はい」
「神様も悪魔もおるなら、なおさらや」
ミレーヌは、少しだけ嬉しそうに笑った。
「清司さん、ちゃんと真面目に考えてくれるんですね」
「考えるやろ。芸の話やぞ」
「やっぱり、分かってる側ですね」
「お前が言うな」
ミレーヌは茶器を片づけながら、静かに頷いた。
「では、歌舞伎みたいなものは無理でも、この世界の芸能を探しましょう」
「それはありやな」
「舞踏会、劇、音楽、祭礼。何かあるはずです」
「恋愛イベントより、そっちの方が見たいわ」
「私もです」
「ほんま、お前とは話が早いな」
「ありがとうございます」
清司は、少しだけ体を起こした。
昨日より体は軽い。
けれど、話に熱が入るとすぐ疲れる。
悔しいが、まずはこの体の扱いを覚えないといけない。
清司がそう考えた瞬間、ミレーヌが静かに言った。
「それと、清司さん」
「なんや」
「本日から、ふわ姫の体力づくりも始めます」
「ふわ管は却下したやろ」
「名称は却下されましたが、管理自体は必要です」
「まあ、それはそうやな」
「昨日のうちに、鍛錬係を手配しておきました」
「手配早すぎるやろ」
「ふわ姫の体のデータは渡しておきました」
「いつの間にそんなデータ取ってん」
「書庫までの歩行距離、息切れまでの時間、香への反応、歌舞伎映画トークでの興奮耐性などです」
「最後の項目いらんやろ」
「重要です」
「重要なんかい」
「清司さんは、好きな話になると身を乗り出して倒れかけます」
「言い方」
「事実です」
「腹立つなぁ」
「ですので、ふわ姫の体力づくりは急務です」
「誰が来るんや」
「元近衛総隊長のバルド・ハルディン様です」
その名前を聞いた瞬間。
清司の頭の中に、また記憶が流れ込んだ。
バルド・ハルディン。
元近衛総隊長。
王族の護身術指南役。
厳しくも優しい、大人の攻略対象。
清司は、無言で目を閉じた。
もっとじじい来た。
なんでや。
なんでこの世界、じじいまで攻略対象にしてくんねん。
「清司さん」
「なんや」
「攻略対象ですね」
「言うな」
「しかも、じじい二人目です」
「数えるな」
「セドリック様は文官じじい。バルド様は武官じじいですね」
「分類すな」
「じじいにも属性があるようです」
「この世界、業が深すぎるやろ」
ミレーヌは真剣な顔で頷いた。
「攻略対象図鑑が埋まっていきますね」
「嬉しそうに言うな」
「分析です」
「お前、ちょっと楽しんでるやろ」
「はい」
「隠せ」
その時、扉が叩かれた。
「失礼いたします」
低い声だった。
清司は反射的に背筋を伸ばした。
入ってきたのは、背の高い男だった。
五十代ほどだろうか。
白髪交じりの黒髪。
深く刻まれた皺。
まっすぐな背筋。
静かな目。
礼服ではなく、動きやすい黒い訓練着を着ている。
派手さはない。
だが、部屋の空気が少し締まった。
清司は、内心で目を細めた。
このおっさん。
現場の匂いするな。
バルドは静かに一礼した。
「リリアーナ姫。お初にお目にかかります。バルド・ハルディンと申します」
「よろしくお願いいたします」
清司は姫スマで微笑んだ。
また姫スマである。
相手がじじいでも、しんどいものはしんどい。
バルドは清司を見た。
甘やかす目ではなかった。
憐れむ目でもない。
体の弱い姫を見る目ではなく、今の状態を測る目だった。
それは、現場の目だった。
攻略対象なのは腹立つ。
だが、このおっさんは使える。
「姫様のお体の状態は、ミレーヌ殿より伺っております」
清司はミレーヌを見た。
ミレーヌは完璧な侍女の顔で控えている。
さっきまで「武官じじい」と言っていた女とは思えない。
「まず、剣は無理ですな」
「早いですね」
「走り込みも無理です」
「それも早いですね」
「護身術も、今すぐには無理です」
清司は微笑んだまま、内心で眉をひそめた。
じゃあ何ならできんねん。
バルドは静かに続けた。
「まずは、立つことです」
赤ちゃんか。
清司は思わずそう言いかけた。
だが、バルドの目はまっすぐだった。
「立つことを侮る者は、倒れます」
清司は黙った。
このおっさん。
ええこと言うやんけ。
「立ち、座り、息を整える。己の重心を知る。今の姫様に必要なのは、そこからです」
「……分かりました」
「強くなりたいなら、まず己の弱さを知ることです」
それは分かる。
清司は素直にそう思った。
気合いでどうにかなるものと、ならないものがある。
中身がどれだけ若頭でも、体がついてこなければ意味がない。
「焦る必要はありません」
バルドは静かに言った。
「私は、逃げません」
出た。
なんかそれっぽいこと言うな。
逃げんでええから、鍛錬メニュー出せ。
横でミレーヌが、ほんの少しだけ目を伏せた。
笑うな。
絶対笑ってるやろ。
「では、本日は呼吸と立ち上がりの練習から始めましょう」
「承知いたしました」
「無理をした場合は、その時点で中止します」
「はい」
「倒れる前に、座る癖をつけなさい」
清司はバルドを見た。
姫に向けるには、やや厳しい言葉。
だが、清司にはちょうどよかった。
おいたわしいだの、無理をなさらないでだの、泣かれるよりずっといい。
「分かりました」
清司は頷いた。
ミレーヌがそっと椅子を引いた。
「姫様、こちらへ」
そこからの時間は、地味だった。
呼吸。
座る。
立つ。
また座る。
歩くですらない。
本当に、立つだけ。
それでも、ふわ姫の体にはきつかった。
太ももが震える。
膝が頼りない。
足の裏に体重を乗せるだけで、変に疲れる。
腹立つ。
ただ立つだけで、こんなにしんどいんか。
清司は歯を食いしばりかけた。
「噛みしめない」
バルドの声が飛んだ。
「余計な力が入っています」
清司は息を吐いた。
「肩を下げる。視線は前。膝を固めすぎない」
指示は短い。
無駄がない。
清司は、素直に従った。
このおっさん、教えるのうまいな。
悔しいが、うまい。
「そこまで」
バルドが言った。
「本日はここまでです」
「まだできます」
「できません」
即答だった。
清司は少しむっとした。
「まだ立てます」
「立てることと、明日も動けることは別です」
清司は黙った。
正論だった。
「鍛錬とは、壊すことではありません。積むことです」
バルドは静かに言った。
「姫様のお体は、今はまだ弱い。ならば、弱い体に合った積み方をするだけです」
清司は、ゆっくり息を吐いた。
「……分かりました」
悔しい。
けれど、納得できる。
バルドは一礼した。
「では、本日はこれにて。明朝、また参ります」
「ありがとうございました」
清司は姫らしく礼を返した。
ミレーヌも完璧な侍女の礼をする。
「バルド様、本日はご指導ありがとうございました」
「姫様を頼みます」
「はい」
バルドが部屋を出ていく。
扉が閉まった。
数秒、沈黙が落ちた。
そしてミレーヌが、静かに口を開いた。
「渋師匠、厳しかったですね」
「バルドな」
「はい。渋師匠です」
「直せ」
「渋くて、師匠感があります」
「理由が雑すぎるやろ」
「でも、似合ってます」
「似合ってるから腹立つんや」
「では、渋師匠です」
「決定すな」
説明しよう!
渋師匠とは、ミレーヌがバルド・ハルディンにつけたあだ名である!
理由は、渋いこと。
師匠感があること。
そして、鍛える人であること。
なお、本人には絶対に言ってはいけないのである!
「本人には絶対言うなよ」
「はい」
「絶対やぞ」
「はい」
「ほんまに言うなよ」
ミレーヌは、少し首を傾げた。
「言えってことですか?」
「なんでや」
「言えってフリかと思いました」
「違うわ!」
「関西の文化は難しいですね」
「そこだけ難しく解釈すな」
清司は額を押さえた。
この女、絶対分かってて言っている。
「お前、遊んでるやろ」
「空気は読んでいます」
「読んだ上で遊ぶな」
「はい」
ミレーヌはにこりと笑った。
やっぱり怖い女である。
清司は椅子に深く座り直した。
足はもうだるい。
たったあれだけで、体はしっかり疲れている。
だが、不思議と気分は悪くなかった。
立つこと。
息を整えること。
倒れる前に座ること。
全部、地味だ。
だが、地味なことを積める人間は強い。
それは、清司も知っている。
「清司さん」
「なんや」
「ふわ姫の体、きっと強くなりますよ」
「雑に励ますな」
「でも、本気です」
ミレーヌは少しだけ真面目な顔をした。
「清司さんの中身に、この体が追いつけば、かなり強いと思います」
清司は黙った。
ふわふわの金髪。
白い肌。
細い腕。
すぐ疲れる体。
今は、頼りない。
腹が立つほど、頼りない。
けれど。
使い方を覚えれば、何かはできる。
清司は、自分の手を見た。
細い指。
昔とは違う手。
それでも、生きている手だった。
「……まずは、立つことからやな」
「はい」
「足首回しもか」
「はい」
「赤ちゃんみたいやな」
「赤ちゃんではありません。ふわ姫です」
「余計腹立つわ」
ミレーヌはまた、お茶を注いだ。
今度はモノマネなしだった。
清司は少しだけ安心した。
「それにしても」
「はい」
「王子、騎士、じじい、もっとじじい」
「はい」
「この世界、攻略対象の幅広すぎひんか」
「恋愛ゲームですので」
「恋愛ゲーム、ほんましつこいな」
「次は何が来るんや」
「冷たい公爵あたりではないでしょうか」
「聞いただけできもいな」
「はい。予習段階で、すでに少しきもいです」
その時、扉が軽く叩かれた。
ミレーヌが表情を整える。
「どうぞ」
入ってきたのは、父王付きの侍従だった。
「姫様。陛下よりお手紙でございます」
「ありがとうございます」
清司は封筒を受け取った。
金の獅子と白い百合の封蝋。
父王からの手紙だ。
開く。
中には、短くこう書かれていた。
『午後、ルシアン・ヴァルモント公爵が見舞いに来る。無理はするな。必要ならミレーヌを同席させろ』
清司は黙った。
ミレーヌも、横から手紙を見た。
「……清司さん」
「なんや」
「冷たい公爵、来ましたね」
「呼ぶなや。来るやんけ」
「もう来ます」
「最悪や」
「午後の反省会、準備しておきますね」
「会う前から反省会すな」
「きもさには鮮度がありますので」
「保存するな、そんなもん」
説明しよう!
反省会とは、清司とミレーヌが攻略対象の恋愛イベントを恋愛として処理せず、きもさ・問題点・現場復帰先を分析する会議である!
なお、本人たちは真剣である。
だから余計にひどいのである!
清司は手紙を握りしめ、小さく息を吐いた。
朝から情報量が多い。
歌舞伎映画。
情念の女モノマネ。
伝統芸能。
木の香り。
ふわ姫体力管理。
もっとじじい。
渋師匠。
そして、冷たい公爵。
おいたわしい。
いや、違う。
おいたわしいのは、今日も清司の精神である。




