第74話 支配された世界
会議室を出たリリアーナの横には、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も並んでいた。
そのまま廊下の先へ進もうとしたところで、後ろから車椅子を押していたミレーヌが静かに向きを変える。
「お部屋はこちらではございません」
「捕まえた兵士んとこ行く」
「お休みになるお部屋へ向かいます」
「先に顔見ときたい」
「先ほどまで会議に出ておられたのですから、もう十分でございます」
「十分ちゃう。飯食うたか聞くだけや」
「レイナさんから、すでに聞いておられました」
「本人らに聞くんや」
ミレーヌは車椅子を止め、隣を歩いていたバルドへ困ったように顔を向けた。
「止めても行かれるかと存じます」
「バルド」
「事実を申し上げただけでございます」
リリアーナは満足そうに頷いた。
「さすがバルドや。現場分かっとる」
「褒めておりません」
結局、ミレーヌは大きく息を吐き、車椅子の向きを変えた。
「少しだけです。顔色が悪くなれば、すぐに戻っていただきます」
「あぁ」
「絶対でございますよ」
「あぁ」
「そのお返事が一番信用できません」
花田丸の捕縛区画へ近づくにつれ、廊下の先から温かい食べ物の匂いが漂ってきた。
器の触れ合う音がする。
誰かが食事を勧め、それに小さな返事が返っていた。
中へ入ると、鎧を脱がされた兵士たちが毛布を掛けられ、壁際や長椅子で休んでいた。
怪我の重い者は寝台へ横になり、治療を受けながら少しずつ食事を口へ運んでいる。
戦場でそれぞれの持ち場を守り終えた者たちは、そのまま救護と食事の配布へ回っていた。
机の上には、パンチから届けられたパンとサンドイッチ、リュウたちが作ったラーメン、点心店『777』の肉まんや焼売、餃子、小籠包が並べられている。
ロイヤル・フラグメントは水や食器を運び、レイナは怪我人の様子を確認しながら、食べやすいものを選んで渡していた。
キルナ・メンチたちも食事の配布を手伝い、食べ終えた者の器を下げながら、脱がされた鎧や荷物を整理している。
清司は、その手元を見た。
器を持てない者には手が添えられ、横になったままの者には、顔を向けやすい側へ食事が置かれていた。
自分が来る前から、そこまで見ている者たちがいた。
「リリアーナ!」
最初に気づいたセシルが、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「もう起きて大丈夫なの?」
「大丈夫ちゃうから車椅子乗せられとる」
「じゃあ、まだ大丈夫じゃないんだね」
「せやな」
「戻った方がいいよ」
「お前までミレーヌ側につくんか」
「だって、また倒れたら困るよ」
セシルが心配そうに車椅子の横へ立つと、エリオットたちも次々に集まってきた。
「みんな、ご飯を食べてくれたよ。最初は怖がってたけど、毒が入ってないって分かったら食べてくれたんだ」
「ラーメンもおかわりしてたよ」
「パンが柔らかいって驚いてた」
「肉まんを割ったら、中からお肉が出てきたって泣いてたよ」
「小籠包で舌を火傷しかけた人もいたけど、今は大丈夫だよ」
順番に報告するロイヤル・フラグメントを見ながら、リリアーナは兵士たちへ視線を移した。
敵として剣を向けてきた時とは違い、今は誰もが疲れ切った顔で、温かい食事を抱えている。
鎧を外した肩は、思っていたより薄かった。
器へ添えた指にも、まだ土が残っている。
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、リリアーナの横で声を上げることなく、兵士たちの顔や傷、食事を運ぶ者たちの動きを見渡していた。
「飯、足りとるか」
リリアーナが声を掛けると、兵士たちは一斉に顔を上げた。
その姿を見た何人かが食器を置き、慌てて姿勢を正そうとする。
「そのままでええ。立たんでええし、頭も下げんでええ」
「ですが……」
「怪我人が無理して立つ方が迷惑や。食べながらでええから、ちょっと話聞かせてくれ」
兵士たちは互いの顔を見合わせたあと、ゆっくりと食器を持ち直した。
清司は、その手が落ち着くまで待った。
「パン、うまいか」
「……はい」
一人の兵士が、手の中のパンを見つめながら答える。
「こんなに柔らかいものは、初めて食べました」
「パンチのパンや。日本以外やったら、いろんな国に店あるで」
「これが、店で売られているのですか」
「あぁ。店で買えるし、工場でも作っとる。珍しいもんちゃう」
兵士は信じられないようにパンを見つめ、震える声で呟いた。
「家族にも食べさせてやりたかった」
その言葉に、周りの兵士たちも黙り込んだ。
肉まんを持っていた兵士が俯き、別の兵士はラーメンの器を両手で抱えたまま唇を噛んでいる。
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、何も言わずに兵士たちを見つめていた。
自分がうまいと思ったものを、食べさせたい相手がいる。
その相手は、ここにはいない。
清司は、兵士がパンへ落としていた目を上げるのを待った。
「家族は日本におるんか」
「はい」
「全員か」
「妻と子が村に残っています。母もおります」
「帰りたいか」
兵士はすぐには答えなかった。
しばらく黙り込んだあと、手の中のパンを強く握る。
「帰りたいです。ですが、帰ればまた戦へ出されます」
「誰にや」
「織田信長様の軍にです」
「自分から従っとるんちゃうんか」
「違います」
今度は別の兵士が、堪えきれないように声を上げた。
「村を焼かれました。逆らえば残った家族も殺すと言われ、兵として出るしかなかったのです」
「俺のところも同じです。兄が捕らえられています」
「母親を人質に取られました」
「逃げた者の家族は、見せしめに処刑されました」
次々に声が上がり、捕縛区画の空気が重くなっていく。
リリアーナは、一人ずつ顔を見た。
織田信長。
その名の下で行われていることを、途中で遮らず聞いた。
知っている名前だからといって、目の前の声を小さく扱う気はなかった。
「全員、豊臣秀吉や明智光秀らの命令で動いとったんか」
「下の者に命令を出していたのは、それぞれの部隊を預かる将です。ですが、最終的には織田信長様の命令だと聞かされております」
「徳川家康は」
「徳川家康様のお姿は見ました。ただ、我々とは別の方面におられたため、詳しいことまでは分かりません」
「柴田勝家、武田信玄、上杉謙信、前田利家、丹羽長秀、竹中半兵衛、黒田官兵衛、石田三成、大谷吉継、真田幸村もおったんやな」
「はい。直接お姿を見た者と、旗だけを見た者がおります」
「そいつらも全員、織田信長に心から従っとるんか」
兵士たちは黙り込み、やがて一人が慎重に口を開いた。
「下の兵には分かりません。楽しそうに戦っていた方もおりますし、命令に逆らわず動いていた方もおります。ただ、誰が何を考えているのか、我々には知らされておりません」
「豊臣秀吉は」
「織田信長様のそばにおりました」
「明智光秀は」
「中央の部隊を動かしていました」
「黒田官兵衛は」
「伝令と物資の流れを管理していたようです」
「武田信玄と上杉謙信は」
「別々の部隊におられました。どちらも独自に兵を動かしていたように見えます」
「徳川家康は」
「ほとんど口を開かず、周囲の様子を見ていたと聞いております」
ミレーヌの筆が動いていた。
見たことと、聞いたこと。
兵士が言い分けるたび、手帖にも分けて残していく。
リリアーナは少し考え、兵士たちを見渡した。
「昨日、俺のことを清司様って呼んどったらしいな」
何人かの兵士が小さく頷く。
「誰から聞いた」
「分かりません。我々は、清司様という方を連れて帰るとだけ聞かされておりました」
「顔も知らんのにか」
「はい。金色の髪の姫の中にいると」
ミレーヌが車椅子の後ろで、わずかに表情を曇らせた。
「誰が最初に言うたんや」
「上の将たちです。我々へ命令を伝えた者も、理由までは知りませんでした」
「清司を連れて帰ったら、何に使うかも知らんのか」
「何も聞かされておりません」
リリアーナは背もたれへ身体を預け、長く息を吐いた。
「下には何も知らせんと、家族を人質にして戦わせとるんか」
兵士たちは顔を伏せた。
その中の一人が、食べかけのパンを見つめたまま声を震わせる。
「戦いたくありませんでした。ですが、逃げれば村がなくなる。妻も子も殺される。従うしかなかったのです」
「日本に残っとるんは、お前らの家族だけか」
「いいえ。村には老人も子供もおります。戦へ出された男たちが戻らず、畑を守る者も減っています」
「食いもんは」
「足りません。米も取られます」
「パンもラーメンもないんか」
兵士は、問いの意味が分からないように目を瞬かせた。
「そのようなものは、今日初めて食べました」
リリアーナは黙り込んだ。
日本以外では、パンチの店舗が広がり、ラーメン工場が動き、点心店『777』では肉まんも焼売も餃子も小籠包も売られている。
作る者がいて、運ぶ者がいて、店へ並べる者がいる。
その繋がりが、こちらでは日々の食事になっていた。
それなのに日本では、家族を人質に取られた兵士たちが、食べ物も満足にないまま海を越え、命令されるがまま戦場へ送られてきた。
「俺らを帰したら、また織田信長の兵にされます」
一人の兵士が顔を上げた。
「ここで生かしていただいても、家族が向こうにいる限り、我々は逃げられません。ですから、どうか俺たちだけでも処刑してください。戻れば、今度はもっと多くの兵を連れて来させられます」
そばで器を下げていた手が止まった。
清司の目が、その兵士へ据えられる。
「誰が処刑する言うた」
「ですが……」
「飯食わせて治療までして、今さら処刑する方が手間やろ」
兵士たちは言葉を失った。
リリアーナは車椅子の肘掛けへ腕を置き、少し前へ身体を傾ける。
その瞬間、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、リリアーナへ深く重なった。
黒い襟元。
静かに下りた肩。
切れ長の目は、命を差し出そうとした男から逸れなかった。
「帰れへんのやったら、家族ごと迎えに行ったらええ」
「……何を」
「日本に残っとる家族も、村の奴らも、織田信長に従いたない奴も、全員迎えに行く」
捕縛区画が静まり返った。
「日本へ来るというのですか」
「あぁ」
「海を越えて?」
「あぁ」
「織田信長様の軍がおります」
「昨日もう戦ったやろ」
「今度は日本の中です。向こうには、さらに多くの兵がおります」
「せやから何や」
リリアーナが淡々と返すと、兵士は息を呑んだ。
「俺らは、お前らを捕まえるために日本へ行くんちゃう。連れて帰るために行くんや」
「そんなことが、できるのですか」
「船はある。飯もある。住む場所は今から作ったらええし、仕事もなんぼでもある」
リリアーナは、机の上に並んだ食事へ目を向けた。
「パンチはもう日本以外に広がっとる。リュウらのラーメン工場も動いとるし、テンの点心店『777』もある。来た奴を飢えさせる気はない」
「ですが、大勢になります」
「多い方がええやろ。働ける奴も増える」
清司は周囲へ目を向けた。
自分一人の手で、船も家も食事も用意するわけではない。
ここまで、それぞれの持ち場を動かしてきた者たちがいる。
その顔を見て、言っていた。
それまで黙っていたキルナ・メンチが、壁際から声を上げた。
「貧民街の復興も始まったばっかだ。家を建てる奴も、道を直す奴も、いくらでも必要になる」
「飯は任せろ」
大鍋のそばにいたリュウも、兵士たちへ顔を向けた。
「何人来ても、食わせる方法は考える」
「点心も作れます」
テンが穏やかに続けた。
「肉まん、焼売、餃子、小籠包。温かいものを食べれば、少しは安心できますから」
清司は短く頷いた。
返ってくる声の一つずつが、迎えたあとの暮らしへ繋がっていく。
ロイヤル・フラグメントも、嬉しそうに兵士たちのそばへ集まってきた。
「家族も一緒に来たらいいよ」
「子供たちが眠れるお家も作ろうよ」
「畑もいるね」
「パンチのお店も作れるよ」
「ラーメン屋さんも欲しいよね」
「『777』も!」
「みんな持っていく気だね」
ルシアンが笑うと、アレクシスも楽しそうに頷いた。
「でも、知らない場所へ来るなら、知っている人と温かい食べ物があった方が安心するよ」
兵士たちは、何も言えないままリリアーナたちを見つめていた。
自分たちをどう罰するかではなく、家族がどこで眠るかという話をしている。
食べかけのパンを持つ手が、ゆっくり膝へ下りた。
やがて、最初にパンを食べていた兵士が、両手でそれを握り締める。
「本当に、家族も助けてくださるのですか」
「あぁ」
「妻も、子も、母も」
「本人らが来たい言うならな」
「村の者たちも」
「置いていったら、また人質にされるやろ」
兵士の目から涙が溢れた。
周りでも、声を殺して泣く者が増えていく。
腕の傷を庇いながら顔を覆う者。
器を置けず、俯いたまま涙を落とす者。
清司は、その返事を急かさなかった。
「俺たちは、敵だったのに」
「今は武器持ってへんやろ」
「昨日、あなたを連れ去ろうとしました」
「命令されとったんやろ」
「それでも……」
「ほな、これから返したらええ」
リリアーナは兵士たちを見渡した。
「日本の道も村も、織田信長らの兵がどこにおるかも、お前らが一番知っとる。家族迎えに行く時、案内したってくれ」
兵士は涙を拭うこともできず、何度も頷いた。
「必ず、お役に立ちます」
「役に立つ立たんは後でええ。まず怪我治して、腹いっぱい食べとけ」
リリアーナが車椅子へ深く座り直した瞬間、身体がわずかに傾いた。
すぐにミレーヌが肩を支える。
重なっていた清司の姿が離れ、再び車椅子の横へ立った。
「お話は終わりです。今度こそお部屋へ戻っていただきます」
「まだ日本行く準備が」
「今のお身体では、船へ乗る前に廊下で倒れます」
「倒れへん」
「先ほどから顔色がさらに悪くなっております」
レイナも心配そうにリリアーナの前へ屈んだ。
「姫様、あとは私どもへお任せくださいませ。皆さんのお怪我が治るまでに、お話も詳しく伺っておきますわ」
「ちゃんと飯食わせたってな」
「はい。パンもラーメンも点心も、まだたくさんございます」
「おかわりも聞いてあげるよ!」
セシルが元気よく手を挙げる。
「熱いもんは、ちゃんと先に教えるんやで」
「今度は大丈夫だよ!」
「今度はって言うとる時点で怖いねん」
兵士たちの間から、初めて小さな笑い声が漏れた。
泣いていた男が、袖で目元を拭う。
隣の兵士も口元を緩め、冷めかけたパンをもう一度口へ運んだ。
リリアーナはその声を聞きながら、ミレーヌに車椅子を押されていく。
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、その横を離れなかった。
扉の前で一度だけ振り返り、泣きながら食事を続ける兵士たちへ声を掛ける。
「怪我治ったら、日本へ迎えに行くぞ」
兵士たちはパンや器を手にしたまま、今度は命令ではなく、自分たちの意思で深く頭を下げた。




