第73話 清司の名を知る者
リリアーナが目を覚ました時、窓の外はすでに明るくなっていた。
身体を起こそうとした瞬間、全身から力が抜ける。
そばにいたミレーヌが慌てて肩を支え、そのまま枕へ戻した。
「まだ起きてはいけません。昨日、清司さんが消えられた直後に倒れたのですよ」
「戦場はどうなっとる」
「戦いは終わっております。こちら側に亡くなった方はいませんし、負傷された方々の治療も進んでおります」
それを聞いたリリアーナは、ようやく小さく息を吐いた。
枕へ沈んだ肩から、力が抜ける。
昨日、最後まで確かめられなかったことだった。
「レイナ呼んでくれ」
「今すぐですか?」
「今すぐや」
ほどなくして部屋へ入ってきたレイナへ、リリアーナはベッドの上から視線を向けた。
「兵士に飯食わしたってくれ。昨日からまともに食うてへん奴もおるやろ」
「もう皆さんがしておりますわ。負傷された方から順番に食事を取っていただき、休める場所も用意しております。鎧を脱ぐ力も残っていなかった方には、周りの方々が手を貸してくださいました」
リリアーナは黙ってレイナを見つめた。
自分が眠っている間にも、必要なことは進んでいた。
誰かが気づき、声をかけ、別の誰かが手を貸した。
わずかに口元が緩む。
「現場復帰してきたな」
「姫様に教えていただきましたもの」
レイナは嬉しそうに微笑んだ。
「ほな、あとは任せる」
「はい。姫様はゆっくりお休みくださいませ」
「オヤジと姐さんに会うてから寝る」
「寝てくださいませ」
「会うてから寝る」
レイナが困ったようにミレーヌを見ると、ミレーヌも同じ顔でリリアーナを見返した。
「車椅子持ってこい」
「清司さん」
「歩かへんから大丈夫や」
「そういう問題ではございません」
結局、バルドが用意した車椅子へ乗せられ、リリアーナはミレーヌに押されながらオヤジと姐さんのいる部屋へ向かった。
その横には、いつもの黒スーツ姿の清司がいる。
刀を担いだ肩にも、額へ落ちる髪にも、昨日の戦いの跡はなかった。
だが、馬上から差し出された手は覚えていた。
お前の意見は聞いておらぬ。
知っている名前を聞いたことより、その言葉が残っている。
扉を開けると、オヤジはソファへ腰を下ろし、姐さんはその隣で紅茶を飲んでいた。
「もう起きたんか」
オヤジが呆れたように眉を上げると、姐さんもすぐに立ち上がった。
「顔、真っ白やないの。今日は絶対に動いたらあかんよ」
「元から白い」
「そういう話ちゃうやろ」
姐さんの手が額へ触れる。
そのまま頬へ下り、顔色を確かめるように止まった。
清司は口を閉じて、その手を受けた。
昨日の志乃の話を、どこからすればいいのか。
目の前にいるのは、あの子の親でもあった。
その時、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
「失礼いたします!」
扉の前に現れた兵士は、息を整える間もなく片膝をついた。
「昨日の戦場で、敵方の武将たちの会話を聞いていた兵士がおります。どうしてもお伝えしたいことがあると申しております」
オヤジが中へ通すよう命じると、もう一人の兵士が緊張した面持ちで部屋へ入ってきた。
「何を聞いたんや」
リリアーナが尋ねると、兵士は記憶を確かめるようにゆっくりと口を開いた。
「敵方の武将たちは、リリアーナ様のことを清司様と呼んでおりました」
部屋の空気が止まった。
「志乃だけやなくてか」
「はい。豊臣秀吉と呼ばれていた男が、確かに清司様と口にしました」
リリアーナは眉を寄せた。
「ほかに誰がおった」
「織田信長、明智光秀、徳川家康、柴田勝家、武田信玄、上杉謙信、前田利家、丹羽長秀、竹中半兵衛、黒田官兵衛、石田三成、大谷吉継、真田幸村と呼び合っておりました」
兵士が名前を読み上げるたび、オヤジの眉間にしわが増えていく。
「なんで同じ時代におんねん」
姐さんも怪訝そうに首を傾げた。
「時系列おかしいやないの」
リリアーナは兵士から受け取った紙へ目を落とした。
並んでいる名前を上から順に確認し、しばらく黙り込む。
やがて、肩が小さく震え始めた。
「清司?」
姐さんが顔を覗き込むと、リリアーナは耐えきれずに吹き出した。
「オールスターやないか!!」
オヤジも同時に噴き出し、ソファの背もたれへ身体を預けた。
「ははははっ! それより武将オールスターやんけ!」
「ちょっと待って……!」
姐さんも腹を押さえながら笑い出した。
「時系列めちゃくちゃやのに、全員集合しとるやないの!」
リリアーナは目尻に涙を浮かべ、車椅子の肘掛けを叩いた。
「腹痛い……! なんで信長から幸村まで一緒におんねん!」
部屋へ入ってから初めて、三人の顔から険しさが薄れた。
兵士だけが、笑ってよいのか分からず背筋を伸ばしている。
ミレーヌも口元を押さえて笑っていたが、やがて目尻の涙を拭いながら姿勢を正した。
「私も昨日、望遠鏡で拝見しておりました。皆様とても美形で、甲冑もキラキラしておりました」
「そこだけはしっかり見とったんかい」
「はい。それに、以前詠女さんがおっしゃっていたように時系列がおかしいので、おそらく乙女ゲームかと」
笑い声がぴたりと止まった。
リリアーナはもう一度、紙へ目を落とした。
戦国武将を攻略対象にした乙女ゲームなら、時代の違う人物が同じ場所にいても不思議ではない。
織田信長が志乃なら、自分の名を知っている理由も分かる。
だが、秀吉にまで何を話しているのかは分からなかった。
「志乃が知っとるんは分かる。せやけど、なんで秀吉まで清司様やねん」
オヤジも笑みを消し、紙に並んだ名前を見つめた。
「志乃が教えたんかもしれんな。せやけど、何をどこまで話しとるんや」
「俺を何やと思うて連れて帰ろうとしとるんか、そこやな」
姐さんの手が、カップから離れた。
昨日、はっきり断った。
それでも、志乃は拒絶を一時のこととして扱った。
あの馬車の女も、同じだった。
「転生者呼べ!」
リリアーナが声を上げた。
「この世界の乙女ゲームに詳しい奴ら全員や。ミステリーやからシャーホムズとワトゾンも呼べ! 魂のことは晴明と式神や!」
「会議室を用意いたします」
バルドは静かに一礼すると、すぐに部屋を出ていった。
*
しばらくして、王宮の会議室にはオヤジ、姐さん、リリアーナ、ミレーヌに加え、詠女、パード、キルナ、スギナ、晴明、式神、シャーホムズ、ワトゾン、バルドが集められた。
机の中央には、兵士が聞き取った武将たちの名前が並べられている。
最初に口を開いたのは、シャーホムズだった。
「状況を整理します。織田信長の正体は、清司さんの幼なじみである志乃さん。ですから、清司さんの名を知っていたこと自体は不自然ではありません」
ワトゾンの筆が動く。
「問題は、豊臣秀吉も清司様と呼び、信長が清司さんと戦う様子を見ていたことです。戦国側で、清司さんについてどのような情報が共有されているのか、確認する必要があります」
「名前だけ聞いとるんか、前世のことまで聞いとるんか」
リリアーナが言うと、シャーホムズが頷いた。
「はい。清司さんを連れ帰るという信長の目的を、周囲がどう理解しているかも重要です」
ワトゾンが手帳へ書き込みながら、シャーホムズへ顔を向けた。
「信長が幼なじみを迎えに来た、と考えている可能性もありますか」
「あります。反対に、軍師として連れ帰るつもりだと聞かされているのかもしれません。今の段階では分けて考えるべきでしょう」
シャーホムズが晴明へ視線を移す。
「魂が見えている者については、どうでしょう」
晴明は静かに扇子を閉じた。
「清司の魂が見える者と、志乃から存在を聞いただけの者は、分けた方がいいね。名前を呼んだからといって、姿まで見えているとは限らない」
「昨日、志乃は俺の方も見とった」
「なら、少なくとも志乃には見えていたのだろう。他の武将たちについては、まだ分からないよ」
式神は机の上に並んだ名前を眺め、織田信長の文字を指で示した。
「この人、比叡山延暦寺で燃やして、私は怨霊になった」
「そうやったな……」
リリアーナは思い出したように額を押さえた。
パードが勢いよく身を乗り出す。
「イケメンだったけど、ヤバかったよね! 誰か死ぬかと思ったもん!」
隣に座っていたキルナも、険しい顔で頷いた。
「誰が死んでもおかしくねぇよ! ガチの戦なんて怖すぎだろ! あいつら本気で殺しに来てたぞ!」
詠女は紅茶を静かに置き、感情のない声で付け加えた。
「顔はいいです。ですが、信長はすぐ殺します。サイコパスです」
「顔の評価は要るんか」
リリアーナが突っ込むと、詠女は真顔のまま頷いた。
「重要です」
オヤジは腕を組み、織田信長の名前を見つめた。
「自分が正しいと信じ切っとるんが危ないんや。相手が嫌や言うとっても、自分の考えを通そうとする」
その名の下にいるのは、自分の娘だった。
オヤジは紙から目を離さないまま、腕を組み直した。
リリアーナは、昨日の戦場で向けられた信長の目を思い出す。
「帰る場所は自分の隣や、言い切りよったな」
「清司さんの意思を認めていませんね」
ワトゾンの言葉に、会議室が静まり返った。
シャーホムズは机の上へ肘をつかず、背筋を伸ばしたまま考え込んだ。
「信長本人の執着は、昨日の発言から分かります。ただ、他の武将たちが同じ目的で動いているとは限りません」
「そこを聞かなあかんのやな」
「はい。全員を一つの意思で動く集団だと考えると、見誤ります」
ミレーヌが黒革手帖へ書き留めた。
志乃を知っていることと、今の志乃の陣営を知っていることは違う。
清司は、紙に並んだ名前を見た。
昨日の戦場では、誰もが同じ振る舞いをしていたわけではなかった。
その沈黙を破ったのは、パードだった。
「でもさ、あの武将たちって全員攻略対象なんでしょ? 誰が一番人気だったの?」
「今その話するか?」
リリアーナが呆れると、キルナが紙を覗き込んだ。
「強さなら柴田勝家じゃねぇの?」
「顔なら前田利家でしょ!」
「石田三成と大谷吉継の関係性も外せません」
詠女が静かに加わった。
「湿度出してきたな」
「まだ出していません」
「もう出とる」
シャーホムズが咳払いをし、脱線しかけた会話を戻した。
「今は戦国側の目的と、共有されている情報を考えてください」
「全員、戦国武将に詳しすぎへんか?」
リリアーナが周囲を見回すと、パードがきょとんとした顔で答えた。
「乙女ゲームで覚えたよ」
「私もです」
詠女も平然と頷き、キルナは腕を組んだまま鼻を鳴らした。
「アタシは強い奴だけ覚えてる」
「知識偏りすぎやろ!」
一人だけ会話についていけていなかったスギナが、おそるおそる手を挙げた。
「あの……私は学校で勉強したことしか知らないんですけど」
「それが一番まともや。言うてみ」
リリアーナに促され、スギナは机の上に並んだ名前を見渡した。
「徳川家康さんが天下を取れば、平和になるのでは……?」
一瞬、会議室が静まり返った。
次の瞬間。
「それやーーーーーー!!!!!」
全員が一斉に立ち上がった。
リリアーナまで肘掛けへ力をかけ、バルドの手にそっと止められる。
「家康に天下取らせたらええんや!」
リリアーナが机を叩くと、パードが真田幸村の名前を指さした。
「でも真田幸村がいるよ!」
「真田丸あるやんけ!」
「その前に関ヶ原があります」
シャーホムズが冷静に指摘すると、キルナが石田三成の名前を睨んだ。
「じゃあ石田三成が邪魔だな」
「待ってください」
詠女が真剣な顔で手を上げた。
「石田三成と大谷吉継を、邪魔の一言で片づけないでください」
「湿度出すな!」
「二人の友情は関ヶ原の敗北まで含めて完成するんです」
「今は家康を勝たせる会議や!」
「大谷吉継は、勝ち目が薄いと分かっていても石田三成のために――」
「湿度上げるな!!」
ワトゾンは机の上の名前を眺めながら、遠慮がちに口を挟んだ。
「そもそも豊臣秀吉が天下を取らなければ、関ヶ原も起きないのでは?」
全員の視線が、豊臣秀吉の名前へ集まった。
「ほな秀吉が邪魔や!」
「さっき武将オールスターって喜んでたじゃん!」
パードが声を上げると、リリアーナは真顔で答えた。
「オールスターとしては好きや! 家康の天下取りには邪魔や!」
「勝手すぎるでしょ!」
「信長がおって、秀吉がおって、三成がおって、幸村もおる」
オヤジは名前を順番に見ながら、深いため息をついた。
「もう全員邪魔やんけ」
「戦国時代ですからね」
晴明が涼しい顔で答えた。
姐さんは呆れたように腕を組んだ。
「いつから家康を天下人にする会議になったん?」
リリアーナは我に返り、シャーホムズへ顔を向けた。
「……向こうが俺を何やと思うとるか、やったな」
「はい。そこは何一つ解決していません」
シャーホムズが淡々と答えた。
ワトゾンの手帳には、途中から天下取りの順番が書き加えられていた。
本人も気づいたらしく、静かに線を引く。
結局、志乃が清司について何を話し、武将たちが何を目的に動いているのか、その日の会議で確かめることはできなかった。
ただ、全員が同じ考えとは限らない。
その点は、調べるべきこととして残った。
皆が席を立ち、会議室を出ていく。
ミレーヌが車椅子を押すと、リリアーナは今度こそ背もたれへ身体を預けた。
最後まで席に残っていたオヤジは、机の上に置かれた紙をじっと見つめていた。
織田信長の名へ向けていた目が、ゆっくり動く。
その中央には、徳川家康の名がある。
オヤジは葉巻を指に挟んだまま、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……家康」




