第69話 マクビー舞踏会
マクビー国の王宮では、春の大舞踏会が開かれていた。
大広間には各国の王族や貴族、商人、外交官が集まり、きらびやかな衣装と賑やかな話し声が会場を埋めている。料理台には焼きたてのパンや具を挟んだサンドイッチ、色とりどりのケーキ、小さな焼き菓子が並び、甘く香ばしい匂いが広がっていた。
リリアーナは焼き菓子を一つ取り、口へ放り込んだ。
「うまいな」
以前なら、見た目だけが美しく、味の薄い菓子が並んでいた。だが、今は生地が柔らかく、香りも甘さもちょうどいい。
「料理人の皆様が、マーガリンおじさんに教わったそうですわ」
隣にいたレイナが教えると、リリアーナはもう一つ焼き菓子を取った。
「パンだけやなく、ケーキと焼き菓子まで育っとるやん」
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、リリアーナの横から料理台を眺めている。
その向こうでは、王族も貴族も商人も葉巻や煙草を手にし、広間のあちこちで煙を吐いていた。パンを食べ、ケーキを食べ、葉巻を吸い、煙草を吸って、また焼き菓子へ手を伸ばしている。
「なんか、すごい光景やな」
「産業の成果が、一度に集まっていますわね」
「混ぜたらこうなるんか」
その時、広間の向こうから明るい声が飛んできた。
「来てくれてありがとう!」
セシルが人の間をすり抜け、リリアーナの前まで走ってきた。だが、話し始めた瞬間、横を通った貴族へ笑顔を向ける。
「遠いところから来てくれてありがとう! あっ、そのお皿はこっちだよ!」
給仕から皿を受け取って近くの卓へ置いたところで、後ろから声をかけられた。
「セシル様!」
「今行くよー!」
別の商人が笑顔で近づいてくる。
「今日のパンは素晴らしいですな!」
「ほんと?! 料理人さんに言ってくるね! きっと喜ぶよ!」
セシルは嬉しそうに両手を上げたあと、またリリアーナへ向き直った。
「毎日のご飯が美味しくなったの、リリアーナのおかげだよ!」
近くにいた子どもが焼き菓子へ手を伸ばすと、すぐにしゃがんで一つ渡す。
「ゆっくり食べてね! 喉に詰まったら大変だから!」
立ち上がった直後には老貴族の椅子を引き、遠くで手を上げた外交官へ振り返った。
「待ってて! 今行くよー!」
そして通り過ぎざま、リリアーナへサンドイッチを差し出す。
「これ、美味しいよ! リリアーナにも届いたらいいな!」
「何がやねん」
「美味しい気持ち!」
セシルは笑いながら、また別の客のもとへ走っていった。右へ走り、左へ戻り、今度は後ろから呼ばれてくるりと回る。勢い余って二回転したが、そのまま何事もなかったように駆けていった。
「今、何人相手しとった?」
「おそらく二十人ほどですわ」
「人間やめとるやん」
レイナが楽しそうに微笑んだ。
「神接客も、ずいぶん磨かれましたわね」
「現場復帰しすぎやろ」
リリアーナが差し出されたサンドイッチを食べると、肉と野菜の味が口に広がった。
「これもうまいわ」
遠くにいたセシルが勢いよく振り向いた。
「やったー!」
「聞こえとるんかい」
リリアーナが広間の奥へ目を向けると、国王たちが並ぶ席の真ん中にオヤジが座っていた。
各国の国王と肩を並べ、葉巻を片手に楽しそうに笑っている。
「なんでおんねん」
「もう誰も不思議に思っていないようですわ」
「本人も自分の席やと思っとるやろ」
オヤジはこちらに気づくと、国王たちの間から大きく手を振った。
「清司ー!」
「国王の間から呼ぶな!」
周りの国王たちまで笑顔で手を振り始める。
「馴染みすぎやろ!」
「リリアーナ」
背後から低い声が聞こえた。
振り返ると、タケリオ公爵が立っていた。今日も隙なく整い、今日も距離が近く、今日も自分に酔っている。
「そのドレス、僕に会うために選んだんだね」
「ちゃう」
「照れなくていい」
「照れてへん」
タケリオは優雅に手を差し出した。
「リリアーナ、こっちにおいで」
「行かへん」
それでも一歩近づいたタケリオとの間へ、レイナがすぐに入った。
「姫様に触れないでくださる?」
笑顔だったが、差し出された手はきっちり止めている。
「これはセレスティア嬢。君は、まだ婚約していないそうだね」
レイナの指が少し止まった。
「縁談をすべて断っているそうじゃないか」
リリアーナはレイナを見た。
「全部?」
「……はい」
「一つも受けてへんのか」
「はい。今は、まだ」
レイナは静かに答えた。
戦の時も、倒れた時も、現場でも、レイナはいつもそばにいた。
リリアーナの頭に、以前オヤジから言われた言葉が浮かぶ。
『要る女は、そばに置いとけ』
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、レイナを見つめていた。
リリアーナは何も言わず、その横顔を見る。
「リリアーナ」
タケリオがさらに顔を寄せた。
「今、僕との未来を考えていた?」
「一ミリも考えてへん」
「強がらなくてもいい」
「お前、ほんまに話聞かへんな」
その時、広間へ大きな音が響いた。
床へ落ちたグラスが砕け、一人の給仕が青い顔で立ち尽くしている。その前では、派手な衣装を着た王子が、服についた酒を見て顔を歪めていた。
オラータ・オリーブ。
通称、オリーブ王子だった。
「おい! 服にかかっただろ!」
「申し訳ございません!」
給仕が深く頭を下げる。
「この服が、どれだけ高いか分かっているのか?」
「すぐにお拭きします!」
「そんなことで済むと思って――」
「もうええ」
リリアーナが二人の間へ入った。
オラータが振り向いた瞬間、先ほどまでの怒った顔が一気に柔らかくなる。
「これはリリアーナ様。お会いできて光栄です」
「さっきと声ちゃうやん」
「美しい方を前にすると、自然と優しくなるものです」
「給仕にもその声出せ」
オラータは濡れた服を指差した。
「ですが、こいつが私の服へ酒を――」
「グラス一個や。服は洗えばええ」
「しかし」
「人前で怒鳴り散らす方が、よっぽど格好悪いぞ」
オラータが口を閉じると、リリアーナは怯えている給仕へ顔を向けた。
「気にすんな。お前は悪ない」
「ありがとうございます……」
給仕は何度も頭を下げた。
「姫様」
レイナがオラータを見た。
「この方にも、ヒールが必要でしょうか?」
「まだ振り下ろすな」
「治療ですわ」
「怪我してへんやろ」
「これからする可能性がございます」
「やめろ」
その後ろを、一人の給仕が静かに通り過ぎた。
皿の持ち方も、歩く速さも、周囲を見る目も妙に見覚えがある。
リリアーナは目を細めた。
「おい」
給仕は止まらない。
「お前」
歩く速度が少し上がった。
「またか!」
給仕がぴたりと止まり、ゆっくり振り向く。
ミレーヌだった。
「バレましたか」
「なんで給仕しとんねん!」
ミレーヌは給仕服の中から黒革手帖を取り出した。
「給仕の導線、料理の減り方、客の動き、接客態度を確認していました」
「普通に来い!」
「普通に参加すると、見えないものがあります」
「また潜り込んどるやないか!」
「今回は正式に許可をいただきました」
「誰にや」
ミレーヌが広間の奥を指す。
国王たちに囲まれたオヤジが、葉巻を持ったまま親指を立てていた。
「オヤジかい!」
「現場を見てこいと言われました」
「舞踏会まで現場にすんな!」
「すでに現場です」
「否定できへんの腹立つわ!」
その時、大広間の入口が急に騒がしくなった。
「お待ちください!」
「招待状をお見せください!」
「止まれ!」
護衛たちの間から、一人の男が無理やり中へ入ろうとしていた。
髪は乱れ、服には泥がつき、肩で大きく息をしている。
「姫様! 話があります!」
護衛が男の腕を掴んだ。
「下がれ! 今は舞踏会の最中だ!」
「急ぎなんです! 姫様!」
リリアーナの目が変わった。
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、入口へ視線を向け、刀の柄へ手をかける。
「通してやれ」
護衛たちが動きを止め、ゆっくりと道を開けた。
男はリリアーナの前まで走ると、息を整える間もなく口を開いた。
「港で、おかしな噂が出ています。船が増えているんです。商船ではありません。武器を積んだ船を見た者がいます」
広間のざわめきが、少しずつ消えていく。
「それだけやないんやな」
「はい。街道でも、見たことのない兵を見た者がいます。市場では、急に鉄と食料を買い集める者たちが現れました。誰かが王都の近くへ、兵と物資を集めています」
リリアーナはゆっくりと男の前へ立った。
広間には、まだ甘い菓子の香りと葉巻や煙草の煙が残っている。楽団も演奏を続けていたが、先ほどまで笑って踊っていた者たちは、もう誰一人動いていなかった。
「分かった。港、街道、市場で見た奴を全部集めろ。噂でもかまへん。聞いたことを一つも落とさず、ミレーヌに話せ」
「はい!」
ミレーヌはすぐに黒革手帖を開き、レイナもリリアーナの隣へ立った。
国王席では、オヤジが葉巻を灰皿へ置き、真っ直ぐこちらを見ている。セシルも客たちの間から駆け戻り、リリアーナのそばで立ち止まった。
「何か来るの?」
「あぁ」
「悪い人?」
「まだ分からん」
セシルは不安そうに唇を結んだあと、リリアーナの服をそっと掴んだ。
「じゃあ、みんなで調べよう。僕の国で、誰にも怖い思いしてほしくないよ」
リリアーナはセシルの頭へ手を置き、入口の向こうを見た。
「せやな。誰が何を持って来ようが、勝手にはさせへん」
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、刀を肩から下ろした。
華やかな舞踏会は終わっていない。
それでも、リリアーナたちの現場は、もう動き始めていた。




