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ふわ姫若頭  作者: 夜嶋朔
第三章 食卓現場復帰編

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第58話 式神


「誰やねん!!」


 リリアーナの声が、王宮の会議室に響いた。


 ポンッと現れた男は、自分の乾いた短い髪へ触れたまま固まっている。


 先ほどまでは、濡れた長い黒髪で顔を隠し、水底のような目をしていた。そこにいるだけで、部屋の空気まで重くなる怨霊だった。


 だが、今は違う。


 澄んだ瞳。


 整った顔。


 軽く清潔な衣。


 怨霊の気配は、まだ残っている。


 残っているが。


 爽やかだった。


 あまりにも爽やかだった。


「……我だ」


「分かっとる! 分かっとるけど、変わりすぎやろ!」


「怨霊様です」


 ミレーヌが、黒革手帖を開いたまま淡々と答えた。


「説明されんでも分かっとる!」


 パードが目を輝かせる。


「ビジュは完成じゃん」


「お前に聞いてへん!」


「濡れ髪陰鬱怨霊から、爽やか水属性イケメンになってる」


「分類すな!」


 詠女は、怨霊と晴明を交互に見ていた。


「待ってください」


「なんや」


「解釈が変わります」


「何のや」


「長髪怨霊と陰陽師の湿度から、爽やか式神候補と陰陽師の――」


「今それどころちゃう!」


「今だからこそです」


「空気読め!」


 騒がしい声が飛び交う中、怨霊は自分の手を見ていた。


 水に濡れていない手。


 けれど、その指先はかすかに震えている。


 やがて、澄んだ目から涙が落ちた。


 水ではなかった。


 怨霊の力でもなかった。


 人の涙だった。


「我は、救いたかった」


 かすれた声が落ち、部屋が静かになった。


 パードも詠女も、すぐには口を挟まなかった。


「いきなり山が攻められた。火を放たれ、逃げ道を塞がれ、山も建物も人も、すべて火の海になった」


 怨霊は自分の胸元を押さえた。


 逃げ姫は唇を噛み、女房たちは互いの手を握っている。


「無惨に死んでいく仲間を見過ごせなかった。水を運んだ。何度も、何度も。手が動かなくなっても、火傷しても、まだ誰かの声がした」


 晴明は、札を持つ手を静かに下ろした。


 目の前にいるのは、封じるべき怨霊ではない。


 最後まで誰かを助けようとした男だった。


「言うことを聞かぬというだけで攻め込まれた。許せなかった」


 怨霊の拳が震え、足元へ水が集まった。


 だが、誰も身構えなかった。


 先ほどまでとは違う。


 怒りに任せ、すべてを沈める水ではない。ただ、怨霊の感情に寄り添うように静かに揺れていた。


「沈めてしまえば、もう焼かれぬと思った。水で包めば、守れると思った」


 リリアーナは、怨霊を見た。


 その隣では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司がゆっくり立ち上がり、まっすぐ怨霊を見ている。


「お前は、守りたかっただけや」


 怨霊がリリアーナを見る。


「沈めたかったんちゃう。殺したかったんでもない。守り方を間違えただけや。ほな、これから覚え直したらええ」


「覚え直す」


「せや。これからは、人のためにその力を使え」


 怨霊は長く黙っていた。


 その場にいる者たちも、怨霊だけを見ていたわけではない。


 自分の中にあるものを見ていた。


 守るために力を振るってきた者。


 失敗を、自分一人の弱さだと思っていた者。


 誰かを救うためなら、自分が壊れてもいいと思っていた者。


 敵を、敵という役割だけで見ていた者。


 キャプテントュリラーは黙って怨霊を見ていた。


 船を沈められたことを許したわけではない。


 だが、ただ壊したかったわけではないことを知った。


 パードも何も言わなかった。


 晴明も。


 レイナも。


 シャーホムズも。


 ワトゾンも。


 少しずつ、その場にいた全員の目が変わっていた。



 その日の午後。


 怨霊たちは、貧民街へ向かった。


 王都の端にある、雨の少ない乾いた土地だった。井戸も遠く、毎日水を運ばなければ生きられない。


 地面には細かなひびが入り、子どもたちは小さな桶を抱えている。年寄りも女たちも、遠くの水場まで何度も歩いていた。


 怨霊は荒れた土地を見た。


「ここは」


「水が足りん」


 リリアーナは言った。


「毎日、誰かが汲みに行く。運べる量しか使われへん。飲む水も、料理する水も、体を洗う水も、全部足りん」


 怨霊の目がゆっくり動いた。


 水が足りない。


 あの日と同じ言葉。


 だが、ここには炎はない。


 助けを呼ぶ悲鳴もない。


 ただ、水を待っている人がいる。


「お前の水、ここに流せるか」


 怨霊は乾いた土地を見た。


 その先では、蛇神が静かに地面へ手を触れている。


「水の通り道はある。古い水脈だ。埋もれているが、まだ死んではいない」


 晴明が怨霊を見る。


「無理に押し流すな。道へ沿わせろ」


 怨霊は両手を上げた。


 足元に水が集まる。


 以前なら、地面ごと沈めていた。


 人も。


 家も。


 すべて水で包もうとした。


 だが、怨霊は乾いた地面だけを見た。


 水の通り道。


 家の位置。


 人が立っている場所。


 水を逃がす先。


 流す量。


 一つずつ確かめる。


「我は、沈めぬ」


 水が細く地面を走った。


 乾いた土の割れ目へ入り、古い水路に沿って曲がり、少しずつ広がっていく。


 やがて、貧民街の中央を一筋の川が流れ始めた。


 濁っていない。


 嫌な臭いもない。


 澄んだ水だった。


「水だ!」


 誰かが叫んだ。


「川ができた!」


「綺麗な水だ!」


 子どもたちが川のそばへ駆け寄り、大人たちが慌てて止める。


「待て!」


 メガネ聖女が水へ手を触れ、魂を見るように状態を確かめた。


「問題ありません。清浄な水です」


 その一言で、民たちが一斉に川へ集まった。


 両手で水をすくい、口へ運ぶ。


「美味い!」


「冷たい!」


「こんな水、飲んだことない!」


 子どもが笑った。


「これからずっと、水に困らないの?」


 怨霊は答えられなかった。


 代わりに、リリアーナが言った。


「困らんようにする。川だけ作って終わりちゃう。水が流れ続けるように整えて、汚れんように守る。水汲み場も作る」


 怨霊は川を見た。


 自分の水で、人が泣いていない。


 逃げていない。


 沈んでいない。


 笑っている。


「これからずっと、水に困らない!」


 一人の男が叫んだ。


「美味しい水が毎日飲めるぞ!」


 歓声が上がった。


 子どもたちが笑い、女たちが泣き、年寄りが何度も川へ頭を下げる。


 怨霊は、その光景を黙って見ていた。


 澄んだ目から、また涙が落ちる。


「我の水で、人が笑っている」


「せや。これがお前の持ち場や」


 余分に流れた水を、天狗が風で外側へ流した。濡れすぎた道へ風を送り、家の前や人が歩く場所を乾かしていく。


「水は通した。道も乾く」


「助かる」


 怨霊が言うと、天狗は少しだけ顔を背けた。


「持ち場だ」


 晴明は川のそばへ立ち、札を一枚取り出した。


「怨霊」


 名を呼ばれ、怨霊が振り返る。


「その水を、人のために使うと決めるか」


「決める」


 迷いはなかった。


「沈む者を岸へ戻す。渇く者へ水を届ける。燃える者を、沈めずに守る」


 水面が淡く光った。


「我は、この役目を引き受ける」


 怨霊が晴明を見ると、晴明は札を掲げた。


「ならば、我も共に責任を負う」


 主が命じ、式神が従う。


 そんな契約ではなかった。


 暴れた時は止める。


 戻れない時は名を呼ぶ。


 間違えた時は、一緒に責任を負う。


 そのための契約だった。


 札が水へ触れ、澄んだ光が広がった。


 怨霊の胸元へ淡い印が浮かび、残っていた黒い怨念が少しずつ水へ溶けていく。


 最後の一筋が消えた瞬間、重く残っていた怨霊の気配が完全に消えた。


「式神」


 晴明が、新しい名を呼んだ。


「ここに」


 式神が答えた。


 水が静かに空へ上がった。


 雨のように、細かな光となって貧民街へ降り注ぐ。


 冷たくない。


 重くない。


 誰も沈めない。


 乾いた土地を、少しだけ潤す雨だった。


「式神化を確認しました」


 メガネ聖女が言った。


 ミレーヌのペンが走り、ワトゾンも静かに記録する。


 だが、誰もすぐには大声を上げなかった。


 川を喜ぶ民たち。


 空を見上げる式神。


 その隣に立つ晴明。


 その場にいた者たちは、それぞれ何かを得ていた。


 強い力は、壊すためだけにあるのではない。


 敵にも過去がある。


 救えなかった者も、もう一度人を救える。


 一人で背負わなくてもいい。


 持ち場を変えれば、人は変われる。


 来た時とは違う目で、全員が川と式神を見ていた。


 誰も、昨日までと同じではなかった。


 詠女だけが、式神と晴明を交互に見ている。


「契約成立後、目を合わせる時間が少し長いですね」


「空気読め」


「重要な変化です」


「今それ言うな!」


 リリアーナは川を見た。


 民たちが笑っている。


 怨霊は式神になった。


 貧民街には水が流れた。


「思った以上の成果やな」


 ミレーヌが黒革手帖を閉じた。


「式神ですので」


 最後まで空気を読まなかった詠女だけは、晴明と式神の間に生まれた新しい湿度を見つめていた。

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― 新着の感想 ―
怨霊から式神へ、その過去と変化に泣かされた。 いい話でした。 この章が始まった時には、どんな展開になるのかと思ったが、人々の心や行動の成長も見れて、とても満足です。
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