第58話 式神
「誰やねん!!」
リリアーナの声が、王宮の会議室に響いた。
ポンッと現れた男は、自分の乾いた短い髪へ触れたまま固まっている。
先ほどまでは、濡れた長い黒髪で顔を隠し、水底のような目をしていた。そこにいるだけで、部屋の空気まで重くなる怨霊だった。
だが、今は違う。
澄んだ瞳。
整った顔。
軽く清潔な衣。
怨霊の気配は、まだ残っている。
残っているが。
爽やかだった。
あまりにも爽やかだった。
「……我だ」
「分かっとる! 分かっとるけど、変わりすぎやろ!」
「怨霊様です」
ミレーヌが、黒革手帖を開いたまま淡々と答えた。
「説明されんでも分かっとる!」
パードが目を輝かせる。
「ビジュは完成じゃん」
「お前に聞いてへん!」
「濡れ髪陰鬱怨霊から、爽やか水属性イケメンになってる」
「分類すな!」
詠女は、怨霊と晴明を交互に見ていた。
「待ってください」
「なんや」
「解釈が変わります」
「何のや」
「長髪怨霊と陰陽師の湿度から、爽やか式神候補と陰陽師の――」
「今それどころちゃう!」
「今だからこそです」
「空気読め!」
騒がしい声が飛び交う中、怨霊は自分の手を見ていた。
水に濡れていない手。
けれど、その指先はかすかに震えている。
やがて、澄んだ目から涙が落ちた。
水ではなかった。
怨霊の力でもなかった。
人の涙だった。
「我は、救いたかった」
かすれた声が落ち、部屋が静かになった。
パードも詠女も、すぐには口を挟まなかった。
「いきなり山が攻められた。火を放たれ、逃げ道を塞がれ、山も建物も人も、すべて火の海になった」
怨霊は自分の胸元を押さえた。
逃げ姫は唇を噛み、女房たちは互いの手を握っている。
「無惨に死んでいく仲間を見過ごせなかった。水を運んだ。何度も、何度も。手が動かなくなっても、火傷しても、まだ誰かの声がした」
晴明は、札を持つ手を静かに下ろした。
目の前にいるのは、封じるべき怨霊ではない。
最後まで誰かを助けようとした男だった。
「言うことを聞かぬというだけで攻め込まれた。許せなかった」
怨霊の拳が震え、足元へ水が集まった。
だが、誰も身構えなかった。
先ほどまでとは違う。
怒りに任せ、すべてを沈める水ではない。ただ、怨霊の感情に寄り添うように静かに揺れていた。
「沈めてしまえば、もう焼かれぬと思った。水で包めば、守れると思った」
リリアーナは、怨霊を見た。
その隣では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司がゆっくり立ち上がり、まっすぐ怨霊を見ている。
「お前は、守りたかっただけや」
怨霊がリリアーナを見る。
「沈めたかったんちゃう。殺したかったんでもない。守り方を間違えただけや。ほな、これから覚え直したらええ」
「覚え直す」
「せや。これからは、人のためにその力を使え」
怨霊は長く黙っていた。
その場にいる者たちも、怨霊だけを見ていたわけではない。
自分の中にあるものを見ていた。
守るために力を振るってきた者。
失敗を、自分一人の弱さだと思っていた者。
誰かを救うためなら、自分が壊れてもいいと思っていた者。
敵を、敵という役割だけで見ていた者。
キャプテントュリラーは黙って怨霊を見ていた。
船を沈められたことを許したわけではない。
だが、ただ壊したかったわけではないことを知った。
パードも何も言わなかった。
晴明も。
レイナも。
シャーホムズも。
ワトゾンも。
少しずつ、その場にいた全員の目が変わっていた。
その日の午後。
怨霊たちは、貧民街へ向かった。
王都の端にある、雨の少ない乾いた土地だった。井戸も遠く、毎日水を運ばなければ生きられない。
地面には細かなひびが入り、子どもたちは小さな桶を抱えている。年寄りも女たちも、遠くの水場まで何度も歩いていた。
怨霊は荒れた土地を見た。
「ここは」
「水が足りん」
リリアーナは言った。
「毎日、誰かが汲みに行く。運べる量しか使われへん。飲む水も、料理する水も、体を洗う水も、全部足りん」
怨霊の目がゆっくり動いた。
水が足りない。
あの日と同じ言葉。
だが、ここには炎はない。
助けを呼ぶ悲鳴もない。
ただ、水を待っている人がいる。
「お前の水、ここに流せるか」
怨霊は乾いた土地を見た。
その先では、蛇神が静かに地面へ手を触れている。
「水の通り道はある。古い水脈だ。埋もれているが、まだ死んではいない」
晴明が怨霊を見る。
「無理に押し流すな。道へ沿わせろ」
怨霊は両手を上げた。
足元に水が集まる。
以前なら、地面ごと沈めていた。
人も。
家も。
すべて水で包もうとした。
だが、怨霊は乾いた地面だけを見た。
水の通り道。
家の位置。
人が立っている場所。
水を逃がす先。
流す量。
一つずつ確かめる。
「我は、沈めぬ」
水が細く地面を走った。
乾いた土の割れ目へ入り、古い水路に沿って曲がり、少しずつ広がっていく。
やがて、貧民街の中央を一筋の川が流れ始めた。
濁っていない。
嫌な臭いもない。
澄んだ水だった。
「水だ!」
誰かが叫んだ。
「川ができた!」
「綺麗な水だ!」
子どもたちが川のそばへ駆け寄り、大人たちが慌てて止める。
「待て!」
メガネ聖女が水へ手を触れ、魂を見るように状態を確かめた。
「問題ありません。清浄な水です」
その一言で、民たちが一斉に川へ集まった。
両手で水をすくい、口へ運ぶ。
「美味い!」
「冷たい!」
「こんな水、飲んだことない!」
子どもが笑った。
「これからずっと、水に困らないの?」
怨霊は答えられなかった。
代わりに、リリアーナが言った。
「困らんようにする。川だけ作って終わりちゃう。水が流れ続けるように整えて、汚れんように守る。水汲み場も作る」
怨霊は川を見た。
自分の水で、人が泣いていない。
逃げていない。
沈んでいない。
笑っている。
「これからずっと、水に困らない!」
一人の男が叫んだ。
「美味しい水が毎日飲めるぞ!」
歓声が上がった。
子どもたちが笑い、女たちが泣き、年寄りが何度も川へ頭を下げる。
怨霊は、その光景を黙って見ていた。
澄んだ目から、また涙が落ちる。
「我の水で、人が笑っている」
「せや。これがお前の持ち場や」
余分に流れた水を、天狗が風で外側へ流した。濡れすぎた道へ風を送り、家の前や人が歩く場所を乾かしていく。
「水は通した。道も乾く」
「助かる」
怨霊が言うと、天狗は少しだけ顔を背けた。
「持ち場だ」
晴明は川のそばへ立ち、札を一枚取り出した。
「怨霊」
名を呼ばれ、怨霊が振り返る。
「その水を、人のために使うと決めるか」
「決める」
迷いはなかった。
「沈む者を岸へ戻す。渇く者へ水を届ける。燃える者を、沈めずに守る」
水面が淡く光った。
「我は、この役目を引き受ける」
怨霊が晴明を見ると、晴明は札を掲げた。
「ならば、我も共に責任を負う」
主が命じ、式神が従う。
そんな契約ではなかった。
暴れた時は止める。
戻れない時は名を呼ぶ。
間違えた時は、一緒に責任を負う。
そのための契約だった。
札が水へ触れ、澄んだ光が広がった。
怨霊の胸元へ淡い印が浮かび、残っていた黒い怨念が少しずつ水へ溶けていく。
最後の一筋が消えた瞬間、重く残っていた怨霊の気配が完全に消えた。
「式神」
晴明が、新しい名を呼んだ。
「ここに」
式神が答えた。
水が静かに空へ上がった。
雨のように、細かな光となって貧民街へ降り注ぐ。
冷たくない。
重くない。
誰も沈めない。
乾いた土地を、少しだけ潤す雨だった。
「式神化を確認しました」
メガネ聖女が言った。
ミレーヌのペンが走り、ワトゾンも静かに記録する。
だが、誰もすぐには大声を上げなかった。
川を喜ぶ民たち。
空を見上げる式神。
その隣に立つ晴明。
その場にいた者たちは、それぞれ何かを得ていた。
強い力は、壊すためだけにあるのではない。
敵にも過去がある。
救えなかった者も、もう一度人を救える。
一人で背負わなくてもいい。
持ち場を変えれば、人は変われる。
来た時とは違う目で、全員が川と式神を見ていた。
誰も、昨日までと同じではなかった。
詠女だけが、式神と晴明を交互に見ている。
「契約成立後、目を合わせる時間が少し長いですね」
「空気読め」
「重要な変化です」
「今それ言うな!」
リリアーナは川を見た。
民たちが笑っている。
怨霊は式神になった。
貧民街には水が流れた。
「思った以上の成果やな」
ミレーヌが黒革手帖を閉じた。
「式神ですので」
最後まで空気を読まなかった詠女だけは、晴明と式神の間に生まれた新しい湿度を見つめていた。




