第56話 水が足りない
王宮の一室。
窓は閉じられ、扉には晴明の札が貼られている。床にも薄く結界が張られ、その中央には怨霊が座っていた。
濡れた長い黒髪。
水底のような目。
足元では、浅い水が揺れている。
暴れてはいない。
だが、落ち着いているようにも見えなかった。
リリアーナは少し離れた椅子に座っていた。
その隣では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が腕を組み、黙って怨霊を見ている。
横には、すでに黒革手帖を開いているミレーヌ。
レイナ。
バルド。
メガネ聖女。
晴明。
逃げ姫と女房たち。
そして、部屋の端には空樹詠女がいた。
レイナに見立てられた、動きやすいワンピース姿。長い髪は綺麗に整えられ、以前のぼさぼさ頭はもうない。伊達眼鏡も外されている。
黙っていれば、誰も干物オタクだとは思わないほどの美女だった。
黙っていれば。
詠女は椅子の背にもたれ、完全にやる気のない目をしている。
「寝るな」
リリアーナは言った。
「寝てません」
「目ぇ閉じとったやろ」
「推理を聞く姿勢です」
「寝る姿勢や」
「似ています」
「似てへん」
詠女は美しく整えられた顔のまま、小さくため息をついた。
「攻略対象イベントを避けて生きてきた私が、まさか攻略対象の推理を最前列で見学することになるとは思いませんでした」
「知らんがな」
「しかも、シャーホムズとワトゾンですよ」
「まだ始まってへん」
「もう空気がおいしいです」
「何言うとんねん」
チリン。
バルドが静かに鈴を鳴らした。
「始めましょう」
部屋の中央では、怨霊の向かいにシャーホムズが座り、その隣にはワトゾンがいる。
紙。
ペン。
証言を整理するための記録帳。
シャーホムズは怨霊をじっと見た。
怖がってはいない。
憐れんでもいない。
ただ、観察している。
「質問をします。答えたくなければ、答えなくても構いません」
怨霊の髪先から、水が落ちた。
「……何を知りたい」
「あなたが、何を忘れているのかを」
怨霊の目がわずかに動き、ワトゾンが静かにペンを構える。
「まず、あなたが覚えている最初の音は?」
沈黙の中で、水が揺れた。
怨霊は目を伏せる。
「……鐘」
ワトゾンが書いた。
『最初の記憶。鐘の音』
「どのような鐘です。祝いの鐘ですか」
「違う」
「祈りですか」
「……違う」
「では、何かを知らせる鐘ですか」
怨霊の指が、わずかに動いた。
「……逃げろと」
女房の一人が息を呑み、逃げ姫が袖を強く握った。
ワトゾンが書く。
『警告。避難を知らせる鐘』
「鐘の次に、何が見えました」
「煙」
「色は」
「黒い」
「匂いは」
怨霊の顔が少し歪んだ。
「焦げた木。……髪」
部屋の空気が重くなった。
メガネ聖女は静かに怨霊の魂を見ている。その周囲には、淡い光が浮かんでいた。
「魂の揺れが強くなっています」
「止めますか」
シャーホムズが聞くと、怨霊は首を振った。
「続けよ」
足元の水が少しだけ広がり、晴明が札へ指を添えた。
「範囲を越えるな」
怨霊は短く息を吐いた。
水が止まる。
シャーホムズは、その様子も見ていた。
「煙の前には、何がありました」
「炎」
「どこが燃えていました」
「……すべてだ」
「すべて、では分かりません」
怨霊の目が鋭くなった。
「すべてだ!」
足元の水が跳ねた。
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が刀へ手をかけ、レイナもすぐに立ち上がる。
「怨霊様。今、この部屋に火はありませんわ」
声は優雅だった。
だが、目は鋭い。
怨霊の呼吸が乱れ、水がさらに広がりかけた。
「見てくださいませ。窓も扉もございます。ここにいる人数も、逃げ道も、すべて分かります。今は、あの時ではありませんわ」
怨霊の目が、ゆっくりと部屋の中を動いた。
水が止まる。
シャーホムズは、そこで初めて少しだけ頷いた。
「建物はいくつです」
怨霊が再びシャーホムズを見る。
「……何?」
「火元はいくつありました。一つですか」
「違う」
「二つ」
「違う」
「三つ以上」
長い沈黙が落ちた。
「……多い」
ワトゾンが書く。
『複数箇所から出火。広範囲』
「あなたは、炎の中で何をしていました」
怨霊の手が震え、水が指先にまとわりついた。
「我は……」
言葉が止まる。
逃げ姫が震える声で言った。
「水を運んでおられました」
怨霊がゆっくり振り返る。
「姫」
「何度も井戸と建物を往復して、桶を持って、腕が動かなくなっても、まだ水を運んでおられました」
女房の一人も、口元を押さえた。
「止めても、行かれました」
「我は……覚えておらぬ」
「忘れているだけです」
シャーホムズが言った。
「手には何がありました」
怨霊は自分の濡れた手を見た。
青白い指。
「……桶」
ワトゾンのペンが動く。
『所持品。水桶』
「何度運びました。一度」
「違う」
「十度」
「違う」
「数えられないほど」
怨霊は目を閉じた。
「……何度も」
その声は、怨霊の声ではなかった。
疲れ切った人間の声だった。
「水は、どこから」
「井戸」
「井戸は一つですか」
「……一つ」
「火元は複数」
「そうだ」
「人は」
「多い」
「水は足りましたか」
怨霊の呼吸が浅くなった。
部屋が静まり返り、水音だけが聞こえる。
怨霊の足元で波紋が広がった。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて、水が部屋の端へ向かい始める。
晴明が静かに名を呼んだ。
「怨霊」
その一言で、水が止まった。
怨霊の肩が小さく震える。
「戻れ」
命令ではなかった。
帰る場所を示す声だった。
水が少しずつ引いていく。
メガネ聖女が柔らかく問いかけた。
「今、怖かったのは何ですか。炎ですか」
「……違う」
「死ぬことですか」
「違う」
「では、何が足りないことが怖かったのですか」
メガネ聖女は急かさなかった。
怨霊の唇が震える。
長い沈黙のあと、低い声が落ちた。
「水だ。水が……足りぬ」
怨霊は自分の濡れた手を見た。
その瞬間、部屋の端にいた詠女が、すっと姿勢を起こした。
「今のシャーホムズさん、答え分かってるのに、ワトゾンさんが書き終わるまで待ちましたよね」
「空気読め」
「読んだ上で言っています」
「一番あかんやつや」
ワトゾンが少しだけ咳払いをした。
シャーホムズは完全に無視する。
「怨霊」
初めて、名を呼んだ。
怨霊が顔を上げる。
「あなたの力は水です」
「……そうだ」
「しかし、あなたは水を恐れていない。水に触れても怯えず、水の中にいても苦しまない。水を避けようともしない。それどころか、水が増えるほど、あなたは落ち着こうとする」
シャーホムズは足元の水を見た。
怨霊の目が、わずかに揺れる。
「あなたが恐れているのは、水ではありません」
誰も動かなかった。
「水が、足りなかったことです」
怨霊の唇が少し開く。
「足りなかったから、次はもっと出そうとする。足りなかったから、全部を包もうとする。足りなかったから、何もかも沈めれば、炎から守れると思っている」
怨霊の足元で水が震えた。
「違う」
「では、なぜ人まで沈めるのです」
「違う」
「なぜ建物ごと水で包むのです」
「違う」
「なぜ火がない場所でも、水を増やすのです」
「違う!」
水が一気に膨らんだ。
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が刀を抜き、レイナが扇を閉じ、晴明が札を構えた。
チリン。
バルドの鈴が鳴る。
「ここまでです」
その声で、全員が止まった。
シャーホムズも、それ以上は聞かなかった。
怨霊は荒い息を吐き、水は結界の内側で揺れている。
メガネ聖女が、怨霊のそばへ膝をついた。
「今、何が戻りましたか」
怨霊は濡れた髪の奥で目を閉じた。
「……桶」
「はい」
「落とした」
ワトゾンのペンが止まる。
「手が、動かぬ。桶を、落とした」
部屋のどこかで、女房が泣いた。
「まだ、水を運ばねばならぬのに」
怨霊の声が、少しずつ人のものへ戻っていく。
「助けを呼ぶ声がした」
「誰の声です」
メガネ聖女が聞く。
「分からぬ」
「今すぐ思い出さなくても構いません」
「だが」
「話せる時でよいのです」
いつの間にか部屋の後方に立っていたチンプが、静かに言った。
「今は、そこまででよろしいでしょう。思い出せないことを、無理に引きずり出す必要はありません。話せる時に、ゆっくりでよいのでお聞かせください」
怨霊は、しばらくチンプを見ていた。
それから、ほんの少しだけ頷いた。
バルドが、もう一度鈴を鳴らす。
チリン。
「本日の調査は、ここまでです」
「まだ真相まで行ってへんぞ」
リリアーナは言った。
「進みました」
ワトゾンが記録帳を見た。
「鐘。複数の火元。井戸は一つ。桶。何度も水を運んだ。水が足りなかった。桶を落とした。助けを呼ぶ声」
ミレーヌも黒革手帖へ書き込む。
「十分な進展です」
「そうか」
「一度で全部を思い出させれば、また過去と現在が混ざります」
レイナがリリアーナを見た。
「本日は、ここまでですわ」
リリアーナは少し黙った。
隣では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が刀を収め、怨霊を見ている。
「……せやな」
怨霊は自分の手を見ていた。
水を出す手。
人を沈める手。
けれど、その手は最初から人を沈めるために動いていたのではない。
何度も。
何度も。
水を運んでいた。
「我は、なぜ水を運んでいた」
怨霊が、かすかに呟いた。
誰も答えなかった。
シャーホムズも。
ワトゾンも。
晴明も。
リリアーナも。
答えを渡さなかった。
それは、怨霊自身が思い出さなければならないことだった。
水が足りなかった。
その記憶だけが、まだ水底から浮かび始めたばかりだった。
なお、真面目な推理の最中にも、詠女だけはシャーホムズとワトゾンの目配せを見ていた。




