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ふわ姫若頭  作者: 夜嶋朔
第三章 食卓現場復帰編

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第55話 これから毎日


 ノエルは、大きな籠を抱えていた。


 中には、白パン、ジャムパン、クリームパン、バターロール、たまごサンド、ハムチーズサンド、ツナサンド、ポテトサンド。


 パンチ一号店から運ばれてきた、焼きたてのパンとサンドイッチが詰まっている。


「重くないか」


 リリアーナは言った。


 その横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、ノエルの抱える籠を見ていた。


「大丈夫! 僕が持っていく!」


 ノエルは籠をぎゅっと抱え直した。


「モビーズに運ばせてもええんやぞ」


「嫌だ!」


「なんでや」


「僕が届けたいから!」


 ノエルは、まっすぐ言った。


 以前のノエルなら、自分を見てほしい。自分を褒めてほしい。自分を必要としてほしい。そう思っていた。


 だが今は、自分がどう見られるかではなく、誰に届けるかを見ていた。


「ほな、行ってこい」


「うん!」


 ノエルは一歩踏み出した。


「走るなよ」


「走らないよ!」


「今、走り出しそうな顔しとったぞ」


「急いでるだけ!」


「それを走る言うねん」


 ミレーヌが黒革手帖を開いた。


「記録します。ノエル様、孤児院へのパン配送。出発前より走行注意」


「成長記録に走るなまで入れないでよ!」


「重要ですので」


 ノエルは頬を膨らませたが、籠を落とさないよう、今度はゆっくり歩き始めた。


 その後ろを、グランヴェールの料理人たちとパン工場のモビーズがついていく。


 リリアーナたちも、少し離れて同行した。


 ノエルが何を届けるのか。そのパンが、どこへ届くのか。


 リリアーナは、自分の目で見ておきたかった。



 貧民街の孤児院は、古い建物だった。


 壁には修繕の跡があり、屋根も鉄ちゃん組が補強したばかりだったが、以前より明るくなっている。


 窓が増え、風が入り、子どもたちの声が外まで聞こえていた。


 ノエルが門をくぐった瞬間、子どもたちが一斉に駆けてきた。


「ノエル様!」


「来た!」


「パンだ!」


「いっぱいある!」


「走ったら危ないよ!」


 ノエルが慌てて言った。


「お前が言うようになったんか」


 リリアーナは言った。


「父上にもリリアーナにも言われたから!」


「身についとるやんけ」


 子どもたちは籠の周りに集まり、目を輝かせている。


 けれど、すぐには手を伸ばさなかった。


 パンが多すぎた。種類もありすぎた。


 どれを取っていいのか分からない顔だった。


 ノエルは、籠を低い台の上へ置いた。


「今日はね! 好きなの選んでいいよ!」


 子どもたちが止まった。


「選ぶの?」


「うん!」


「どれでも?」


「どれでもいいよ!」


 小さな女の子が、ジャムパンを指さした。


「これ、赤いの入ってる?」


「いちごのジャムだよ!」


「甘い?」


「甘いよ!」


「じゃあ、これがいい」


「はい!」


 ノエルはジャムパンを手渡した。


 次の子が、たまごサンドを見る。


「黄色いのは?」


「たまごだよ!」


「パンにたまご入れていいの?」


「いいんだよ!」


「じゃあ、これ!」


「はい!」


「ぼくはお肉!」


「ハムチーズサンドだね!」


「わたし、クリーム!」


「僕はツナ!」


「ポテトってどれ?」


 声が重なり、迷っていた子どもたちが、次々と自分の食べたいものを選んでいった。


 甘いもの。塩気のあるもの。柔らかいもの。腹持ちの良いもの。


 隣の子と違うもの。同じもの。


 孤児院の食卓に、選ぶ時間が生まれていた。


 誰かから与えられたものを、黙って食べるだけではない。


 自分が食べたいものを、自分で選べる。


 それだけで、子どもたちの顔は明るかった。


「いただきます!」


 声が揃い、子どもたちがパンをかじる。


 目が開いた。


「おいしい!」


「こっちも!」


「たまご、柔らかい!」


「クリーム甘い!」


「お肉とチーズ、一緒に入ってる!」


「明日はこれにする!」


「私は次、ジャムパン!」


 孤児院に笑い声が広がった。


 グランヴェールの料理人たちは、黙ってその光景を見ていた。


 自分たちが王宮で作ってきた料理とは違う。


 金の皿ではない。飾りもない。格式もない。


 けれど、一つのパンで、こんなにも人の顔が変わる。


 それを初めて知った顔だった。


 ノエルは子どもたちの間を歩く。


「足りない人はいない?」


「大丈夫!」


「飲み物もある?」


「あるよ!」


「喉に詰まりそうだったら、ゆっくり食べてね!」


「はーい!」


 小さな男の子が、クリームパンを両手で持ったまま、ノエルの服を引いた。


「ノエル様」


「なあに?」


「これ、今日だけ?」


 ノエルの動きが止まった。


 子どもは少し不安そうに、手の中のパンを見ている。


「明日は、もうない?」


 ノエルはしゃがみ、子どもと同じ高さになった。


「ううん。これから毎日届くからね!」


 子どもの目が大きく開いた。


「毎日?」


「うん!」


「明日も?」


「明日も!」


「その次も?」


「その次も!」


「ずっと?」


 ノエルは大きく頷いた。


「ずっと届けるよ!」


 子どもは、手の中のクリームパンを見た。


「毎日、好きなの選んでいいの?」


「いいよ!」


「ぼくたち、みんな?」


「みんな!」


 ノエルは少しだけ胸を張った。


「みんなの分、ちゃんとあるからね! 毎日届けるよ!」


 子どもの顔が、ゆっくり笑顔になった。


「ありがとう」


 その瞬間、ノエルの頬から涙が落ちた。


 子どもが目を丸くする。


「ノエル様、泣いてる」


「え?」


 ノエルは自分の頬に触れた。


 指先が濡れている。


「泣いてないよ!」


「泣いてるよ」


「これは……」


 慌てて目元を拭うが、次の涙が落ちた。


「ノエル様?」


 グランヴェールの料理人が、心配そうに声をかける。


 ノエルは首を振った。


「違うんだ。悲しいんじゃないよ」


 笑おうとしたが、涙は止まらなかった。


 子どもたちは、パンを持ったままノエルを見ている。


 ノエルは、その顔を見渡した。


 みんな笑っている。


 自分で選んだパンを持ち、明日のパンを楽しみにしている。


「……嬉しいんだ」


 ノエルは涙を拭った。


「みんなが笑ってるから。僕、ずっとこれがしたかったんだ」


 孤児院の子どもたちに、美味しいパンを届けたい。


 固いパンではなく、我慢して食べるパンでもなく、好きなものを選べるくらい、たくさんのパンを。


 今日だけではない。


 明日も。その次の日も。毎日。


 ノエルは、やっとそれを叶えた。


「僕、役に立てたのかな」


 小さな声だった。


 リリアーナは少し離れた場所から、ノエルを見ていた。


 その横には、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が立ち、子どもたちとノエルを静かに見ている。


「役に立っとるやろ」


 リリアーナは言った。


 ノエルが振り返る。


「リリアーナ……」


「見てみい。全員、笑っとる」


 リリアーナは、子どもたちを顎で示した。


 ノエルは、もう一度子どもたちを見る。


「ええ顔になったな」


「……僕が?」


「せや」


 刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、静かに目を細めた。


「やっと、自分より先に見るもんができた」


 ノエルの目から、また涙が落ちる。


「それ、褒めてる?」


「褒めとる」


「ほんとに?」


「何回聞くねん」


「だって、嬉しいから!」


「ほな泣いとけ」


「もう泣いてるよ!」


「見たら分かるわ」


 子どもたちが笑い、ノエルも泣きながら笑った。


 ミレーヌは黒革手帖を開いていたが、すぐには書かなかった。


「記録せんのか」


 リリアーナは聞いた。


「記録しております」


「書いてへんやんけ」


「これは、目で記録しています」


「何やそれ」


「たまには、そのような記録も必要です」


「ええこと言うやんけ」


 ミレーヌは、ほんの少しだけ笑った。


 その横では、前世の美月が目元を押さえている。


「魂のお前も泣いとるやんけ」


「泣いておりません」


「美月、めっちゃ泣いとるぞ」


「見ないでください」


「本人より素直やな」


 レイナも、扇で口元を隠していた。


「立派になられましたわね」


「チワワやけどな」


「もう、その呼び方はおやめになっては?」


「成長したチワワや」


「変わっておりませんわ」


 ノエルがすぐに振り返った。


「聞こえてるから!」


「元気やな」


「泣いてるけど元気だよ!」


「忙しいな」


 チリン。


 バルドが静かに鈴を鳴らした。


「パンの追加が到着いたしました」


「切り替え早いな」


「毎日届けるためでございます」


「せやな」


 新しい籠が運び込まれた。


 明日の分。その次の日の分。


 一日だけの贈り物ではない。


 続けるためのパンだった。


 ノエルは涙を拭い、運ばれてきた籠を受け取った。


「明日の分も、僕がちゃんと見る!」


 グランヴェールの料理人が頷く。


「承知しました」


「数も、種類も、小さい子が食べられるものも、全部ちゃんと見る!」


 その声は、もう吠えていなかった。


 王子として、子どもたちのパンを預かる者として、自分の持ち場を見つけた声だった。


「ノエル様!」


 子どもが呼んだ。


「明日はジャムパンにする!」


「僕はたまご!」


「わたし、またクリーム!」


 ノエルは、涙の残った顔で笑った。


「うん! 明日も来るからね! 好きなの選んでね!」


 その日、孤児院にパンが届いた。


 けれど、届いたのはパンだけではなかった。


 明日も食べられるという安心。


 自分で選べるという喜び。


 待っていていいという約束。


 そして、誰かに見てほしかった王子は、誰かの笑顔を見る王子になった。


 パンチの拳の印は、世界へ広がっていく。


 だが、その拳が最初に守ったものは、小さな子どもたちの毎日の食卓だった。


 残念なのは、子どもたちがノエルではなく、最後までパンを見ていたことである。

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