第55話 これから毎日
ノエルは、大きな籠を抱えていた。
中には、白パン、ジャムパン、クリームパン、バターロール、たまごサンド、ハムチーズサンド、ツナサンド、ポテトサンド。
パンチ一号店から運ばれてきた、焼きたてのパンとサンドイッチが詰まっている。
「重くないか」
リリアーナは言った。
その横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、ノエルの抱える籠を見ていた。
「大丈夫! 僕が持っていく!」
ノエルは籠をぎゅっと抱え直した。
「モビーズに運ばせてもええんやぞ」
「嫌だ!」
「なんでや」
「僕が届けたいから!」
ノエルは、まっすぐ言った。
以前のノエルなら、自分を見てほしい。自分を褒めてほしい。自分を必要としてほしい。そう思っていた。
だが今は、自分がどう見られるかではなく、誰に届けるかを見ていた。
「ほな、行ってこい」
「うん!」
ノエルは一歩踏み出した。
「走るなよ」
「走らないよ!」
「今、走り出しそうな顔しとったぞ」
「急いでるだけ!」
「それを走る言うねん」
ミレーヌが黒革手帖を開いた。
「記録します。ノエル様、孤児院へのパン配送。出発前より走行注意」
「成長記録に走るなまで入れないでよ!」
「重要ですので」
ノエルは頬を膨らませたが、籠を落とさないよう、今度はゆっくり歩き始めた。
その後ろを、グランヴェールの料理人たちとパン工場のモビーズがついていく。
リリアーナたちも、少し離れて同行した。
ノエルが何を届けるのか。そのパンが、どこへ届くのか。
リリアーナは、自分の目で見ておきたかった。
貧民街の孤児院は、古い建物だった。
壁には修繕の跡があり、屋根も鉄ちゃん組が補強したばかりだったが、以前より明るくなっている。
窓が増え、風が入り、子どもたちの声が外まで聞こえていた。
ノエルが門をくぐった瞬間、子どもたちが一斉に駆けてきた。
「ノエル様!」
「来た!」
「パンだ!」
「いっぱいある!」
「走ったら危ないよ!」
ノエルが慌てて言った。
「お前が言うようになったんか」
リリアーナは言った。
「父上にもリリアーナにも言われたから!」
「身についとるやんけ」
子どもたちは籠の周りに集まり、目を輝かせている。
けれど、すぐには手を伸ばさなかった。
パンが多すぎた。種類もありすぎた。
どれを取っていいのか分からない顔だった。
ノエルは、籠を低い台の上へ置いた。
「今日はね! 好きなの選んでいいよ!」
子どもたちが止まった。
「選ぶの?」
「うん!」
「どれでも?」
「どれでもいいよ!」
小さな女の子が、ジャムパンを指さした。
「これ、赤いの入ってる?」
「いちごのジャムだよ!」
「甘い?」
「甘いよ!」
「じゃあ、これがいい」
「はい!」
ノエルはジャムパンを手渡した。
次の子が、たまごサンドを見る。
「黄色いのは?」
「たまごだよ!」
「パンにたまご入れていいの?」
「いいんだよ!」
「じゃあ、これ!」
「はい!」
「ぼくはお肉!」
「ハムチーズサンドだね!」
「わたし、クリーム!」
「僕はツナ!」
「ポテトってどれ?」
声が重なり、迷っていた子どもたちが、次々と自分の食べたいものを選んでいった。
甘いもの。塩気のあるもの。柔らかいもの。腹持ちの良いもの。
隣の子と違うもの。同じもの。
孤児院の食卓に、選ぶ時間が生まれていた。
誰かから与えられたものを、黙って食べるだけではない。
自分が食べたいものを、自分で選べる。
それだけで、子どもたちの顔は明るかった。
「いただきます!」
声が揃い、子どもたちがパンをかじる。
目が開いた。
「おいしい!」
「こっちも!」
「たまご、柔らかい!」
「クリーム甘い!」
「お肉とチーズ、一緒に入ってる!」
「明日はこれにする!」
「私は次、ジャムパン!」
孤児院に笑い声が広がった。
グランヴェールの料理人たちは、黙ってその光景を見ていた。
自分たちが王宮で作ってきた料理とは違う。
金の皿ではない。飾りもない。格式もない。
けれど、一つのパンで、こんなにも人の顔が変わる。
それを初めて知った顔だった。
ノエルは子どもたちの間を歩く。
「足りない人はいない?」
「大丈夫!」
「飲み物もある?」
「あるよ!」
「喉に詰まりそうだったら、ゆっくり食べてね!」
「はーい!」
小さな男の子が、クリームパンを両手で持ったまま、ノエルの服を引いた。
「ノエル様」
「なあに?」
「これ、今日だけ?」
ノエルの動きが止まった。
子どもは少し不安そうに、手の中のパンを見ている。
「明日は、もうない?」
ノエルはしゃがみ、子どもと同じ高さになった。
「ううん。これから毎日届くからね!」
子どもの目が大きく開いた。
「毎日?」
「うん!」
「明日も?」
「明日も!」
「その次も?」
「その次も!」
「ずっと?」
ノエルは大きく頷いた。
「ずっと届けるよ!」
子どもは、手の中のクリームパンを見た。
「毎日、好きなの選んでいいの?」
「いいよ!」
「ぼくたち、みんな?」
「みんな!」
ノエルは少しだけ胸を張った。
「みんなの分、ちゃんとあるからね! 毎日届けるよ!」
子どもの顔が、ゆっくり笑顔になった。
「ありがとう」
その瞬間、ノエルの頬から涙が落ちた。
子どもが目を丸くする。
「ノエル様、泣いてる」
「え?」
ノエルは自分の頬に触れた。
指先が濡れている。
「泣いてないよ!」
「泣いてるよ」
「これは……」
慌てて目元を拭うが、次の涙が落ちた。
「ノエル様?」
グランヴェールの料理人が、心配そうに声をかける。
ノエルは首を振った。
「違うんだ。悲しいんじゃないよ」
笑おうとしたが、涙は止まらなかった。
子どもたちは、パンを持ったままノエルを見ている。
ノエルは、その顔を見渡した。
みんな笑っている。
自分で選んだパンを持ち、明日のパンを楽しみにしている。
「……嬉しいんだ」
ノエルは涙を拭った。
「みんなが笑ってるから。僕、ずっとこれがしたかったんだ」
孤児院の子どもたちに、美味しいパンを届けたい。
固いパンではなく、我慢して食べるパンでもなく、好きなものを選べるくらい、たくさんのパンを。
今日だけではない。
明日も。その次の日も。毎日。
ノエルは、やっとそれを叶えた。
「僕、役に立てたのかな」
小さな声だった。
リリアーナは少し離れた場所から、ノエルを見ていた。
その横には、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が立ち、子どもたちとノエルを静かに見ている。
「役に立っとるやろ」
リリアーナは言った。
ノエルが振り返る。
「リリアーナ……」
「見てみい。全員、笑っとる」
リリアーナは、子どもたちを顎で示した。
ノエルは、もう一度子どもたちを見る。
「ええ顔になったな」
「……僕が?」
「せや」
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、静かに目を細めた。
「やっと、自分より先に見るもんができた」
ノエルの目から、また涙が落ちる。
「それ、褒めてる?」
「褒めとる」
「ほんとに?」
「何回聞くねん」
「だって、嬉しいから!」
「ほな泣いとけ」
「もう泣いてるよ!」
「見たら分かるわ」
子どもたちが笑い、ノエルも泣きながら笑った。
ミレーヌは黒革手帖を開いていたが、すぐには書かなかった。
「記録せんのか」
リリアーナは聞いた。
「記録しております」
「書いてへんやんけ」
「これは、目で記録しています」
「何やそれ」
「たまには、そのような記録も必要です」
「ええこと言うやんけ」
ミレーヌは、ほんの少しだけ笑った。
その横では、前世の美月が目元を押さえている。
「魂のお前も泣いとるやんけ」
「泣いておりません」
「美月、めっちゃ泣いとるぞ」
「見ないでください」
「本人より素直やな」
レイナも、扇で口元を隠していた。
「立派になられましたわね」
「チワワやけどな」
「もう、その呼び方はおやめになっては?」
「成長したチワワや」
「変わっておりませんわ」
ノエルがすぐに振り返った。
「聞こえてるから!」
「元気やな」
「泣いてるけど元気だよ!」
「忙しいな」
チリン。
バルドが静かに鈴を鳴らした。
「パンの追加が到着いたしました」
「切り替え早いな」
「毎日届けるためでございます」
「せやな」
新しい籠が運び込まれた。
明日の分。その次の日の分。
一日だけの贈り物ではない。
続けるためのパンだった。
ノエルは涙を拭い、運ばれてきた籠を受け取った。
「明日の分も、僕がちゃんと見る!」
グランヴェールの料理人が頷く。
「承知しました」
「数も、種類も、小さい子が食べられるものも、全部ちゃんと見る!」
その声は、もう吠えていなかった。
王子として、子どもたちのパンを預かる者として、自分の持ち場を見つけた声だった。
「ノエル様!」
子どもが呼んだ。
「明日はジャムパンにする!」
「僕はたまご!」
「わたし、またクリーム!」
ノエルは、涙の残った顔で笑った。
「うん! 明日も来るからね! 好きなの選んでね!」
その日、孤児院にパンが届いた。
けれど、届いたのはパンだけではなかった。
明日も食べられるという安心。
自分で選べるという喜び。
待っていていいという約束。
そして、誰かに見てほしかった王子は、誰かの笑顔を見る王子になった。
パンチの拳の印は、世界へ広がっていく。
だが、その拳が最初に守ったものは、小さな子どもたちの毎日の食卓だった。
残念なのは、子どもたちがノエルではなく、最後までパンを見ていたことである。




