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ふわ姫若頭  作者: 夜嶋朔
第三章 食卓現場復帰編

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第54話 パンチ


 数日後。


 貧民街の大通りに、新しい店が完成していた。


 白い壁に大きな窓。焼きたてのパンが並ぶ棚の奥は、すでに稼働しているパン工場へ繋がっている。


 朝の通りには、小麦とバターの香りが広がっていた。


 店内に並んでいるのは、もう試作品ではない。


 白パン。食パン。クロワッサン。フランスパン。バターロール。ジャムパン。クリームパン。


 そして、たまごサンド。ハムチーズサンド。ツナサンド。ポテトサンド。


 パンもサンドイッチも、すべて商品として完成していた。


「……ほんまにパン屋できたな」


 リリアーナは言った。


 その横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が腕を組み、店の上を見ていた。


 ミレーヌも同じ方向を見る。


「問題がございます」


「せやな」


「看板です」


「せやな」


 店の上には、大きな拳の印が掲げられていた。


 丸く膨らんだ指。力強く握られた拳。


 その下には、太い文字。


『パンチ』


「……治安悪いな」


 リリアーナは言った。


「パン屋には見えません」


 ミレーヌが黒革手帖を開く。


「記録すな」


「事実ですので」


 看板の下では、オヤジが満足そうに腕を組んでいた。


「ええやろ」


「何がや」


「店の名前や」


「パンチ?」


「せや」


「なんでパン屋がパンチやねん」


 オヤジは拳の印を指した。


「クリームパンに似とるやろ」


 リリアーナは拳を見る。


 丸く膨らんでいる。


 確かに、少し似ていた。


「……似とるけど」


「かっこええやろ」


「そこにかっこよさいらんねん」


「要る」


「パン屋やぞ」


「腹満たさんと戦えへんやろ」


「誰と戦う店やねん」


「毎日や」


 オヤジは当然のように言った。


 リリアーナの横で、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が少しだけ目を細める。


「……まあ、それはそうやな」


「ほら見い」


「名前はダサいけどな」


「しばくぞ」


「パン屋の開店前に拳使うな」


 ミレーヌが黒革手帖へ書き込む。


『パンチ。

命名、国王陛下。

由来、拳とクリームパンの形状が似ているため。

補足、かっこいい。

思想、腹を満たさなければ毎日と戦えない。』


「整理したら急にええ話になるな」


「元からええ話や」


 オヤジが胸を張った。


 チリン。


 バルドが静かに鈴を鳴らす。


「開店のお時間でございます」


「もうか」


「行列が伸びておりますので」


 店の前には、すでに多くの者が集まっていた。


 貧民街の住民。工場で働く者。王都から来た商人。子どもを連れた母親。噂を聞きつけた貴族の使用人。


 そして、各国から来た料理人と商人たち。


 列の先頭には、セシルが立っていた。


「押さないでね! パンはまだあるよ! 甘いパンは左で、サンドイッチは右だよ!」


 セシルは誰にでも自然に声をかける。


 老人にはゆっくり話し、子どもには目線を下げ、迷っている者には笑って近づいた。


「初めてなら、白パンがおすすめだよ!」


「そうなのか?」


「うん! やわらかいよ!」


 セシルは爽やかに笑った。


「ハハッ。君に届け!」


「目の前で手渡ししとるやろ」


 リリアーナは言った。


「パンと一緒に、気持ちもね!」


「業務連絡を気持ちにすな」


「でも届いたでしょ?」


「馴れ馴れしいな」


「前はそんなこと言わなかったじゃん」


「中身変わっとるからな」


 セシルはまた爽やかに笑った。


「元気そうでよかった!」


「お前はほんま空気だけは綺麗やな」


 ミレーヌが記録する。


『セシル・ヴェント殿下。

パンチ一号店、受付担当。

客寄せ効果、極めて高い。

定型句、本日も使用。』


「使用回数まで数えるな」


「必要ですので」


 店内では、エミールが人の流れを見ていた。


「注文が決まった人は、こっちだよ! 買い終わった人は左から出てね! ここで食べる人は奥の席! 荷車が通るところは空けてね!」


 人が詰まる前に道を作り、席が足りなくなる前に椅子を増やし、包装待ちが増える前にモビーズを動かす。


「風と人って、同じみたいに動くんだよ!」


「もう完全に店回しとるな」


「スロープより向いてるかも!」


「まだ根に持っとるな」


 レオンの光が、店内の天井近くで上がった。


 赤。


「クリームパン、もっと持ってきて!」


 青。


「サンドイッチ、なくなりそう!」


 金。


「贈り物の箱、できたよ!」


「合図、定着したな」


「遠くでも見えるよ!」


「命捨てるより百倍ええわ」


「うん! 今日は死なない!」


「毎日死ぬな」


 ルシアンは、サンドイッチの保管場所へ冷気を流していた。


「これなら、悪くならないよ!」


「頼もしいな」


「氷もパン屋さんできるんだね!」


「戦場より平和でええやろ」


「うん! パン屋さんの氷になる!」


「パン屋さんの氷って何や」


 アレクシスは、各国の商人や貴族を相手にしていた。


「この箱なら、贈り物にしてもきれいだよ!」


「拳の印が、少々強すぎないか」


「強いのは、いっぱい食べられるしるしなんだよ!」


「なるほど」


「箱を開けたら、いいにおいもするよ!」


「では、まず五十箱」


「ありがとう!」


 リリアーナは、少し離れた場所からその様子を見た。


「また面倒くさい貴族、落としとる」


「外交営業です」


 ミレーヌが言った。


「拳の印まで可愛く売りよったぞ」


「能力ですので」


 レイナが扇を閉じた。


「皆様、持ち場へ戻りましょうね。セシル様、入口の列が二つに分かれておりますわ。エミール様、出口をもう少し広くしてくださいませ。レオン様、サンドイッチの合図を先に。ルシアン様、冷気が客席まで届いております。モビーズ、包装を二名追加してくださいませ」


「はーい!」


 ロイヤルフラグメントの面々が揃って返事をし、すぐに動いた。


 リリアーナが決める。レイナが回し、ミレーヌが記録し、バルドが場を進める。


 攻略対象たちは自分の能力を店で使い、モビーズは実際に手を動かす。


 パン工場では、ロアンが工程を見ていた。


「たまごサンド、次の分をお願いします。食パンは完全に冷めてから切ってください。ジャムパンは焼き色を揃えて、包装前に必ず検品を」


 その横では、マーガリンおじさんが焼き上がったパンを見ていた。


 指先で触れ、香りを確かめ、ひとつ割る。


「こっちは出していいでさぁ」


「こちらは?」


「もう少し休ませな。急かしちゃ、パンがかわいそうでさぁ」


 ロアンが工程を見て、マーガリンおじさんが生地を見る。


 理論と職人の手。


 二人の目を通ったパンが、次々に店へ運ばれていった。


 鉄ちゃんは、店の外で建物を見上げていた。


「どうや」


 リリアーナは聞いた。


「人の入りも荷の流れも悪くありやせん。けど、売れすぎでさぁ」


「悪いんか」


「隣、増やした方が早ぇ」


「もう増やす気やんけ」


「先に建てときやすか?」


「オヤジと同じことすな」


「現場でさぁ」


 店が開き、パンが売れ、サンドイッチも売れた。


 棚が空けば補充され、また売れていく。


「柔らかい!」


「この中の甘いものは何だ?」


「クリームです!」


「肉が挟まっているぞ!」


「仕事の途中でも食べられる!」


「子どもに持って帰ろう!」


 声が広がり、焼きたてのパンを持った者たちが笑って店を出ていく。


 貧民街の者が作ったパンを、王都の者が買う。貴族の使用人が買い、他国の商人が買う。


 子どもへ持って帰り、仕事場へ持っていき、食卓へ持っていく。


「……回っとるな」


 リリアーナは言った。


 その横で、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も店を見ていた。


「はい」


 ミレーヌが黒革手帖へ書き込む。


「パン工場、店舗、販売、包装、補充、流通。すべて正常稼働しています」


「正常か?」


 リリアーナは拳の看板を見上げた。


「店名以外は」


「失礼な奴やな」


 オヤジが言った。



 パンチ一号店は、その日のうちに売り切れた。


 翌日も行列ができ、その次の日も続いた。


 やがて、各国からさらに料理人が集まり始める。


 白パンを学びたい者。クロワッサンの層を学びたい者。食パンを自国の主食にしたい者。サンドイッチを港や学園へ広げたい者。


 孤児院へ毎日パンを届けたい者。兵士の携帯食にしたい者。工場で働く者の昼食にしたい者。王宮の朝食を変えたい者。


 パン工場は、製造所であると同時に、料理人を育てる場所になった。


 ロアンが工程を教える。


「材料は必ず量ってください。発酵時間だけではなく、生地の状態を見ること。衛生と保存も、味と同じくらい大切です。一度だけ美味しく焼けても、店は続きません。毎日、同じ品質で届けられること。それがパンチの看板を背負う条件です」


 マーガリンおじさんは、料理人たちの生地を触った。


「こいつぁ、急かしすぎでさぁ。こっちは、まだ育ちやす」


「ですが、工程表では」


「パンは時計だけ見て育つもんじゃありやせん。生地を見て、触って、食う奴の顔を思い出して焼きなせぇ」


 料理人は息を呑んだ。


 ロアンとマーガリンおじさん。


 二人が認めた料理人だけが、『パンチ』の名と拳の印を使うことを許された。


 ミレーヌが黒革手帖を開く。


「共通レシピ。共通工程。品質基準。衛生基準。本部研修。二名による認定。合格者のみ、名称と印の使用を許可」


「フランチャイズやな」


 リリアーナは言った。


「はい」


「この世界にフランチャイズ持ち込んでもうたな」


「すでに二号店の候補地がございます」


 リキュウがにこやかに頭を下げた。


「早いな」


「三号店もございます」


「早すぎるやろ」


「各国から希望が届いておりますので」


 アレクシスが手を上げた。


「拳のしるし、貴族にも人気だよ!」


「なんでや」


「強くて、おなかいっぱいになりそうだって!」


「クリームパンに似とるだけやぞ」


 オヤジが胸を張った。


「かっこええ言うたやろ」


「そこ当たるんかい」



 こうして、パンチは国境を越え始めた。


 グランヴェール王国。港町。商人街。学園都市。小さな国。遠い国。


 ロアンとマーガリンおじさんから学び、パン工場で腕を磨き、二人から合格をもらった料理人たちが、自分の国へ戻って拳の看板を掲げる。


 国々のパンの作り方が、根っこから変わった。


 硬く、重く、水やスープにつけなければ食べにくかったパンが、柔らかく、香りがあり、そのまま食べられるものへ変わっていく。


 具材を挟み、好きなものを選べる食事になった。


 王宮だけではない。


 学園へ。工場へ。港へ。兵士へ。街へ。


 そして、孤児院へ。


 毎日届く仕組みが作られようとしていた。


「ノエル」


 リリアーナは声をかけた。


 ノエルは、大きな籠の前に立っていた。


 中には、白パン、ジャムパン、クリームパン、バターロール、たまごサンド、ハムチーズサンド、ツナサンド、ポテトサンド。


 子どもたちが好きなものを選べるように、全部少しずつ入っていた。


「行くんか」


「うん!」


 ノエルは籠を持ち上げた。


「孤児院の子たちに届けてくる!」


 以前のように「僕を見て」とは言わなかった。


 その目は、もう自分ではなく、パンを待っている子どもたちの方を見ていた。


「行ってこい」


「うん!」


 ノエルは今度こそ走り出しかけた。


「走るな」


「走ってないよ!」


「今のは走りかけや」


「急いでるだけ!」


「それを走る言うねん」


「じゃあ、早歩きする!」


「パン落とすなよ」


「落とさないよ!」


 ノエルは籠を抱え直し、孤児院へ向かって歩き出した。


 明日からも、その次の日も、毎日パンを届けるために。


 残念なのは、世界中へ広がるパン屋の名前が、最後までどう見ても格闘技店だったことである。

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